5-3


 次の日になっても、俺は黒森のことを考えていた。


 自分でいじめの件に片を付けると言っていたが、いったいどうやって解決するつもりなのか。ただ話し合いで話が終わる相手なら、そもそもいじめなんてしないだろう。


 そんなことが頭の中で巡って、ろくに授業の内容も頭に入らなかった。


 そして、放課後を迎えた俺は、すぐに教室で鞄を手に取って、席から立ち上がる。ちょうどその時、若葉が声を掛けてきた。


「あ、良一。今日美術部の活動あるからね。忘れないでね?」


「ああ、悪い……ちょっと用事があるんだ。遅れるかもしれない」


「本当に? もしかして、サボりの口実じゃなくて?」


「本当に用事だ。っていうか、最近はちゃんと行ってるだろ。真面目な美術部員だ」


「美里奈ちゃんが来てるから、一緒にいたいだけじゃなくて?」


「もちろん、それが一番大きな理由だけどな」


「否定しないんだ……そんな堂々と言われても。でもまあ、来るんだったらいいよ。待ってるから」


「ああ、じゃ、後でな」


 若葉に断って、俺は教室から廊下へと出る。そして、真っすぐに廊下を進み、一年七組――黒森と美里奈の教室へと向かって歩み始める。


 やはり黒森のことが気になる。せめて、ことの顛末だけは自分の目で見届けたい。何より、もしも失敗して余計に話がこじれても、あいつのことだから何でもない風に装うに違いないだろうし。


 あいつは他人から危害を加えられても無頓着なところがある。その点では、どこか美里奈と相通じるところがあった。無痛症による被害意識の欠落と、短命を自覚していることによる達観。原因は違えど、どちらも同じ自分自身が傷ついても放置してしまう悪癖だ。


 やがて歩いているうちに一年七組の教室の入り口へと辿り着く。


 ただ、二年生が一年生の教室にいると目立つだろう。俺は入り口から中を窺うように覗き込んだ。だが、教室の中には黒森の姿は見当たらなかった。


「あ、お兄ちゃん!」


 代わりに、ちょうど帰り支度をしていたらしい美里奈がすぐに俺の姿を認め、席を立って駆け寄ってきた。


「どうしたの? もしかして、迎えに来てくれたとか?」


「いや、そういうわけじゃなくて……黒森、いないか?」


「綾乃ちゃんなら、さっき教室から出て行ったよ。何か、用事があるんだって」


 ……遅かったか。どうやら、すでに向かった後らしい。


「どこに行くとか言ってなかったか?」


「ううん。でも、階段の方に歩いてったよ」


 美里奈は教室の外の廊下を指差しながら説明する。階段の方――ということは、ここは一階だから上の階に向かったというわけか。


 この辺りは教室が集まっている校舎なので、人気の無い場所は限られている。もしも黒森が宮野たちと話を付けようとするなら、恐らくは屋上前の階段だろう。


 それだけわかれば十分だった。


「そうか。じゃあ、俺、ちょっと黒森に用事があるから。おまえは先に美術部に行ってろ」


「私も行っちゃダメ?」


「それは――」


 少し迷ったが、別に、ただ念のため様子を見に行くだけだ。美里奈がいて困るということはないだろう。それに、実のところ美里奈が一人で美術部で絵を描くという状況は避けたかった。


 一応、学校では黒森のような残虐画は描かないように注意している。今のところ従ってくれている。しかし、そもそも美里奈は残酷かそうでないかという区別を実感として理解できていない。俺が見ていないと、何かの拍子に残虐趣味が露見しないとも限らない。可能な限り、美里奈とは一緒に行動した方がいいだろう。


 そう判断して、俺は美里奈の問いに頷きを返した。


「ああ。別にいいぞ」


「やった!」


 その場で小さくぴょんと飛び跳ねて喜ぶ美里奈。黒森に会いに行くのが嬉しいのだろうか。それとも、俺と一緒に行動するのが楽しいのか。


 いや、きっとその両方だろう。俺と黒森と美里奈。三人で絵を作って過ごす時間は、美里奈の中でも大きな意味を持つようになっている。


 だからこそ、俺の中で不安は大きくなっていた。美里奈は黒森の病を知らない。この幸せな時間が長く続かないことを、まだ理解していない。もしもそれを失ったとき、妹はどうなるのか。いつものように笑顔のままなのか。それとも、その不均衡な心が完全に崩れ去ってしまうのか――


 黒森が言っていた、美里奈の心の痛覚。ただ、まだ傷ついたことが無いだけで、『悲しみ』を感じる能力自体はあるという可能性。それが今、俺の頭をよぎる。


「どうしたの? 行こうよ、お兄ちゃん」


「あ? あ、ああ……」


 俺の顔を不思議そうに覗き込む、美里奈の大きな瞳。怖いほどに曇りのない、純粋な目。その視線から逃れるように俺は顔を逸らした。隠し事をしているのがひどく後ろめたくて。


 そして、俺は黒森が向かったという階段へと向かい始める。どこか重い俺の足取りの後から、美里奈の軽やかな足音がついてきた。


  ***


 予想通りというべきか、黒森と宮野たちは校舎屋上に繋がる扉の前、薄暗い階段踊り場にいた。


 俺は廊下の曲がり角の物陰に隠れながら、踊り場にいる女子たちの様子を見上げる。


 以前、校舎裏で見た時と同じ構図。黒森が美術部一年生のグループに囲まれ、壁際まで追い詰められている。一年生たちはみな黒森を責めるような視線を向けているが、肝心の黒森の方はどこ吹く風というような、平然とした表情だ。


「黒森さんと……宮野さん? 何やってるんだろ?」


「しっ……美里奈、ちょっと静かにしててくれ。取り込み中みたいだ」


「……? うん、わかった。何かかくれんぼみたいでワクワクだね!」


 俺の言葉に素直に頷いて、美里奈も両手で口を押えながら階段上の状況を見守る。どうやら何かの遊びと思ってくれたらしいが、この際好都合だった。


 注意深く身を隠しながら、俺は階上の会話に耳をそばだてる。


「今日はそっちから呼び出すなんて、いい度胸だよね。何? やっと謝る気にでもなったってわけ?」


「わかってる? あんたのせいで、私たち美術部にも顔出せなくなったんだよ? あんたが気持ち悪いグロ絵描いてるのが悪いのに」


 高圧的な調子で口々に責め立てる女子たち。やはり、副部長である俺にイジメの事実が露見したことを逆恨みしているようだった。


「…………」


 一方の黒森は、ただじっと黙り込んだまま、彼女らを見つめている。その態度がさらに宮野たちを苛立たせているのは明らかだった。


 その態度に一番前に立っている女子たちのリーダー――宮野が舌打ちした。


「そっちから呼び出しといてだんまり? 何とか言えって。何の用?」


「もちろん、謝罪のためですよ。ただし、私じゃなくてあなたたちの――ですけど」


「はぁ?」


「謝ってください。今まで私にしたことを。スケッチブックに落書きしたり、ゴミ箱に捨てたり、放課後に呼び出して罵詈雑言を浴びせたりしたこと――今ここで、土下座しながら詫びてください」


 黒森の言葉に、宮野たちは呆気に取られたように目を見開いている。それは物陰から見ている俺も同様だった。


 何故連中を挑発するような真似を? そんなことを言ったところで、素直に謝るような連中じゃない。


 黒森の方が悪で、自分たちが正しい――そう心の底から信じ切っているのだから。『自分たちが悪いかも』なんていう考え自体最初から頭に無い。


「ふっ――ふざけないで!」


 案の定というべきか、宮野は顔を怒りに歪め、黒森へと詰め寄る。そして、猛烈な剣幕でまくし立てた。


「あんたが悪いんじゃない! あんたが気持ち悪い絵ばっかり描くから、捨ててやったんだよ! あんな絵、ゴミ扱いされて当然でしょ? あんたさ、自分でわかんないの? 周りに迷惑かけてるってこと。生きてるだけで気持ち悪いんだよ!」


 もはや堰の壊れたダムのように、彼女の口からは罵詈雑言が溢れ出る。そんな中、黒森は相変わらず顔色を変えずに相手をただ見つめていた。


「死ね! さっさと死んでよ、このグロ子。あんたのせいで私ら美術部に顔出せなくなったのに、何で謝らなきゃいけないわけ? こっちが被害者じゃん。謝れっていうなら、そっちこそ死んで詫びろよッ」


 薄暗い踊り場に、怒声が響き渡る。ありったけの憎悪をぶちまけた後、宮野は荒い呼吸に肩を上下させていた。


 それでも、黒森はただ冷然とした目で宮野を見つめるだけだった。そして、無言のまま手を制服のポケットへとやり、そこから何かを取り出した。


 それは一台のスマートフォンだった。怪訝そうな目で見つめる宮野たちの前で、黒森は画面を一度タップする。すると、そこからたった今聞いたばかりの音声が流れ出てきた。


『あんたが悪いんじゃない! あんたが気持ち悪い絵ばっかり描くから、捨ててやったんだよ! あんな絵、ゴミ扱いされて当然でしょ? …………』


「なっ……!」


 宮野は一瞬呆気に取られていた様子だったが、すぐにそれが自分の声を録音したものだとわかると、見るからに狼狽を表し始めた。


 唇をわなわなと震わせながら、憎悪に満ちた目で黒森を睨みつける。


「あなたの言葉――確かに録音しておきました。今後、あなたたちの誰かが私に危害を加えれば、この音声を学校に暴露します」


「……あんた、脅迫する気?」


 黒森の言葉に、宮野だけでなく、取り囲んでいた女子たちの顔色が青ざめた。


「脅迫? 自分の立場を弁えてください。これでも譲歩してるんですよ。本当だったら、すぐにこの音声を学校に知らせてももいいんです。それをしないのはただ面倒だから……それだけですよ」


 気だるげに嘆息し、黒森は続ける。


「今まであなたたちのくだらない遊びに付き合ってきたのも。でも、これ以上付きまとわれるのも時間の無駄ですから。これからはお互いに無視して過ごしましょう。それがお互いのためだと思いますが?」


「ふ、ふざけるなって言ってんでしょ……!」


 宮野は怒りに顔を歪め、スマートフォンを奪い取ろうと手を伸ばす。だが、すぐに黒森は手を払い除け、淡々とした口調で告げた。


「言っておきますけど、このスマホを壊しても無駄ですよ? もうクラウド上に同期されてますから。データは消えません」


「……っ!」


 黒森の言葉に、宮野は言葉を失い、その手を止めた。そして、苦虫を噛み潰したような眼で目の前の女子生徒を見るのだった。周囲の取り巻きも、どうしていいかわからない様子でただ黙り込んだまま互いに視線を交わし合っている。


『死ね! さっさと死んでよ、このグロ子。あんたのせいで私ら美術部に顔出せなくなったのに、何で謝らなきゃいけないわけ?』


 その間にも、スマートフォンからは宮野が放った暴言が流れ出ていた。自分たちの所業を客観的に聞くというのはどんな気分だろうか。


 階上の様子を見ながら、俺は内心胸を撫で下ろす。一時はどうなることかと思ったが、まったく用意周到なことだ。


 宮野を怒らせるようなことを言ったのもわざとだろう。決定的なイジメの自白を得るためにあえて挑発したというわけだ。


 きっと、この手を使おうと思えばすぐにでも実行に移していたに違いない。それなのにやらなかったのは、本当にただ面倒くさかったから。ただそれだけの理由だ。絵を描く作業はもうアトリエでやっているのだから、学校でどれだけ妨害されようが関係ない。だから、どうでもよかった。


 真実掛け値無しに、俺の気分が悪いと言ったから実行に移しただけのこと。


 この一部始終を見ると、俺の心配も杞憂だったらしい。わざわざ様子を見に来るほどのことも無かったか。そう思って、内心安堵する。


「では、用件はそれだけです。お時間を取らせてすみませんでした。私はこれで」


 慇懃に頭を下げると、黒森は踵を返して階段へと向かって歩いていく。


 だが、その時――


「この……調子に乗るなッ!」


「え――」


 宮野が上げた怒鳴り声に、黒森は振り返る。


 そして、そこへ突進してきた宮野の手に押され、後ろ向きに階段へと思い切り突き飛ばされる。


 黒森の髪が宙に広がる。その背中が空中に投げ出され、徐々に大きくなりながらゆっくりと落下する。


 視界に映るあらゆる動きがひどく遅く見えた。突き飛ばした宮野の腕も、それを見て驚愕する取り巻きたちの顔も。


 突然のことに思考の一切が停止する。だが、そのまま落下すれば、黒森は後頭部を強く床に叩きつけられることになる。その光景が俺の脳裏によぎった。


 体だけがとっさに動く。次の瞬間には俺は無意識のままに廊下の曲がり角から飛び出していた。


「黒森ッ!」


 伸ばした腕に感じる、人体一人分の重量。黒森の身体はひどく軽く、その身が病に侵されていることをありありと感じるほど。ただ、それでも衝撃で腕が痺れ、骨まで震えるようだった。


 だが、とにかく。


 間一髪、俺は黒森の身体を抱き止めていた。


 細く、華奢なその肢体。あのまま落ちていれば、たとえ頭を打たずとも大怪我は免れなかっただろう。少なくとも一目見た限りでは怪我がないのを確かめると、俺は安堵の息をつく。


 しかし、黒森の方はというと、俺の顔を見て目を丸くしていた。


「良一先輩……? どうしてここに……?」


「様子を見に来たんだよ。心配だったからな」


「……私が、自分で片を付けるって言ったのに。本当に心配性ですね」


「どうやら、来て正解だったみたいだけどな」


「ええ……それは認めます。おかげで助かったようです。ありがとうございます」


 腕の中で素直に礼を言う黒森。まさか、宮野がこんな暴挙に打って出るとはさすがに予想していなかったのだろう。


 俺は未だ階上に立つ宮野たちへと視線を向ける。


「度が過ぎるんじゃないのか? 一歩間違えれば死ぬところだった」


 俺が咎めると宮野は顔をさらに怒りで歪める。その憎悪の視線は今や俺にまで注がれていた。


「副部長……またあなたですか。どうしてそいつを庇うんですか? みんなそいつのことなんて大嫌いなのに……! みんな、消えてほしいって思ってるのに!」


 自分のしたことを反省するどころか、ヒステリックにがなりたてる宮野。黒森を指さしながら、ますます逆上した様子で宮野は階段へと一歩降りようとする。どうやら完全に頭に血が上っているらしい。


 黒森に近付けさせるのはまずいな――


 だが、宮野は憎悪を目に宿し、怨嗟の言葉を吐きながら降りてくる。一方で、黒森は驚きで力が抜けたのか、まだ立てない様子だった。


 だが、その時、不意に俺たちの前に、小さな背中が現れた。


 両手を広げ、宮野の前に立ち塞がって黒森を守るかのように。


「綾乃ちゃんに触らないで」


 美里奈は静かにそう言った。決して声を荒げてはいない。しかし、その毅然とした声ははっきりと踊り場に響きわたる。突然の闖入者に、宮野は驚いた様子で足を止めた。


「美里奈……?」


 俺も、そして俺の腕に抱かれている黒森も、美里奈の行動に呆気に取られる。


 美里奈が身を挺して他人を守ろうとする――そんなことは初めてのことだ。


 人は自分が痛みを感じることで、他人にもまた痛覚が存在することを知る。


 自分と同じように他人も膝を擦りむけば痛いし、風邪を引いたら苦しい。直接は認識できない他人の感覚を、自らの経験と照らし合わせて類推していく。


 だが、生まれた時からあらゆる『痛み』という感覚が欠落している美里奈は自分が傷付けられても、苦にも思わない。思うことができない。それは即ち、他人の痛みを想像することができないということ。どれだけ他者が苦しんでいても痛がっていても、美里奈はその苦痛を実感として受け止めることができない。


 だからこそ、俺は眼前の出来事が信じられなかった。美里奈が他人を助けようとするなど、絶対に有り得ない。冷血であると言っているのではなく、他人が苦しんでいること、即ち『助けを必要としている』ということ自体を認識できないはず。


 そのはずなのに――


「私は綾乃ちゃんのこと好きだよ。消えてほしいなんて、思ってない。だから、触らないで」


 淡々としたその声。後ろ姿からは、美里奈の表情は窺い知れない。ただ、その言葉には固い意思が込められていた。


「う……」


 美里奈を前にして、あれほど激昂していた宮野もたじろいだ。


 既にその顔からは怒りが失われ、ただ狂熱が去った後の狼狽だけが浮かんでいる。


 そして、その時黒森が俺の腕の中に抱かれたまま、スマートフォンをこれ見よがしに翳して宮野に言った。


「用件は済んだと言ったはずですよ。もう話すことはありません。頭が冷えたなら、さっさと消えてください」


「…………」


 宮野は苦渋の表情を浮かべながらそれを一瞥する。


 そして、無言のまま取り巻きの女子たちを引き連れて階段を降り、俺たちの横を通り過ぎていった。その間、美里奈の視線を避けるようにしながら。


 宮野たちが立ち去ったことで、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、静寂が訪れる。そして、美里奈はゆっくりと振り向いて、黒森を見た。


「大丈夫? 綾乃ちゃん?」


「え、ええ……ありがとうございます」


 黒森は礼を言いながら、なおも驚愕の冷めやらない様子で美里奈を見つめる。それは俺もまた同じだった。


「……? どうしたの、二人とも?」


 肝心の美里奈本人は、どうして俺たちが驚いているのか不思議がっている様子で、首を傾げていた。自分でも、たった今した行動の異常さに気付いていないらしい。


「美里奈、おまえ――」


「う……」


 俺が問いかけようとしたその時、俺の腕の中で黒森が身じろぎをした。


「ああ、悪い、黒森。今離す」


 最初はいつまでも黒森の身体を抱いていることに抗議したのかと思った。


 だが、すぐにそれが勘違いだと気付く。黒森の様子を見れば、その表情は苦しみに歪み、胸を両手で押さえていた。


「うぅ……っ」


「黒森? どうしたんだ!?」


「いえ……心配要りません。ちょっと驚いて、疲れただけです」


「疲れただけって――」


 黒森の様子は、ただ疲れただけとは思えないほどぐったりとしていた。先ほどの出来事で、心臓に負担をかけたのだろうか。


 危ぶむと同時に、俺はもっと悪い可能性を考える。


 黒森が突き飛ばされた瞬間、宮野の怒鳴り声に驚いて、振り向いた黒森。そして、真正面から手で押されて、突き飛ばされた。俺が抱き留めたことで、床に頭を打つことだけは避けられた。


 だが、あの時乱暴に押された箇所は、ちょうど胸――心臓の辺りではなかったか。そんな不安が胸中に雲となって立ち込める。


「おい、大丈夫なのか?」


「はい。ちょっと痛むだけです……ありがとうございます」


 そう言って、黒森は俺の肩を支えにして、ゆっくりと自力で立ち上がろうとする。


 だが、腕に力が入らず思うように立てない様子だ。動こうとするだけで、口から疲労のため息が漏れる。


「動くな、黒森。じっとしてろ」


「え……? あ、ちょっと……!」


 見るに見かねて、俺は黒森の背中と足を視点にして両腕で抱き上げる。皮肉なことに、黒森が疲れ切って脱力しているのも幸いして、その細い身体は簡単に持ち上げることができた。


 腕に感じる黒森の身体は想像以上に軽い。力を込めれば簡単に折れてしまう小枝のように。その軽さはまるで黒森の命の希薄さを表しているようで、なおさら俺の不安を駆り立てた。


「じ、自分で立てます……! 下ろしてください!」


「その顔色で言われても、まるで説得力が無いな。保健室まで連れてってやるから、任せろ」


「……本当に、心配性な人なんですから。お節介もほどほどにしてください」


 顔を赤らめて、黒森はぷいと向こうを向く。だが、諦めた様子で俺へと身体を預けた。あるいは、抵抗する体力さえ無いのかもしれないが。


「そっちこそ、強情もほどほどにしとけよ。少しは頼れ」


 黒森の減らず口に少しだけ安堵する。そんな言葉が吐けるということは、少なくとも致命的な発作が起きているわけではないらしい。


 だが、すぐにでも休ませないとどうなるかはわからない。すぐにベッドで横にさせないと。


 その時、ふと黒森のことを不思議そうに見ている美里奈に気付いた。


「どうしたの、綾乃ちゃん? どこか悪いの?」


 不思議そうに、どこか好奇心いっぱいの目で黒森を見つめる美里奈。その様子は、いつもと変わらないように見える。


 だが、確かに美里奈は黒森を助けた。身を挺して、加害者たちから庇った。あれは確かに夢でも幻でもない。


 この態度もあるいは黒森が心臓病であることを知らないからというだけのものかもしれない。


「……いえ、何でもありません。ちょっと疲れただけです。保健室で休めば、きっと治ります」


 黒森は消え入りそうな声で、しかし気丈に笑顔を作りながら。そう答えた。すると、美里奈も笑顔を返す。


「そっか。じゃあ私もついてくね!」


 無邪気にそう言う美里奈。つい先ほど、妹が見せたほんのわずかな変化。


 それも気がかりだったが、だが、そのことについては後回しだ。


 俺は黒森の身体を抱えながら、保健室を目指して歩き出したのだった――

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