「……う〜〜〜〜ん……」


 6月半ば、小雨の降り続く土曜の夜。

 俺は、苦し紛れの唸りを上げた。


 ヒマだ。

 いくら恋を失った悲しみの中にいても、ヒマはヒマなのだ。

 むしろ、そんな空白の時間が、一層その傷口を執拗にいじり回してくるようだ。


 GSのバイトは、週5回ほぼフルタイムで入れている。

 仕事している間は、作業に集中してるし、それなりに楽しい。

 しかし。

 しんと暗い部屋に戻り、ひとり美味くもない食事をし、小さなテレビ画面を覗き込み……自分宛の楽しい連絡など一本も届かないスマホに向き合う、その繰り返しは……思った以上の苦痛だ。


 あーー、くそっ!

 ドロついた何かが、胸にどんどん蓄積するっ!!

 どうにかしなきゃ、自分自身が荒れる一方だ!



 ふと、3月まで務めたGSが、ずっと昔のことのようにほんのり懐かしく思い出された。


 沢木店長の明るい笑顔や、父親みたいに暖かい言葉。

 ごつくて大きな手のひら。


 そんな温もりを思い出した途端……無性に、彼に会いたくなった。



 俺は彼から、たくさん力をもらった。

 あの部屋で、自分なりに精一杯の時間を過ごせたのは、全て彼のおかげだ。


 神岡に惹かれていることに気づいた俺を、彼が力づけてくれなければ……俺は、あの部屋からきっと逃げ出していた。


『——人を好きになるって、もうそれだけで、最高に素晴らしいことじゃないか?』


 俺にそう教えてくれた彼の穏やかな声が、耳に蘇る。


 確かに……そうだった。

 あの部屋での日々は、俺にとって、何にも代え難い時間だった。


 自分が想うひとに、想われる。

 強烈に——熱で身体が溶けるかと思うほどに。

 その幸せの大きさ。


 ……結局、自分の手の中に残ったものは何か。

 それは……よくわからない。


 けれど……

 普段経験のできない何かを味わってみたい——

 以前の俺が抱いていた、漠然とした願いは……確かに、満たされた。


 ひとつだけ、はっきりわかったことがある。

 俺は、何にも知らない馬鹿なガキだった、ということ。

 ジリジリと全身が焦げるようなものに手を伸ばして。

 こんなにも苦しい思いに自分自身を占領されるとは……これっぽっちも想像できなかった。


 ——ああ、そうか。

 俺が得たものは……これなのか。


 報われようと、そうでなかろうと——なりふり構わず、胸を搔きむしるほどに誰かを求め、愛する……その想い。


 ——全く、随分と苦しいものを手に入れてしまったものだ。


 これから先……これほどの強さで、誰かを想うことなど、あるのだろうか……



 このたまらない呼吸困難から、逃げ出したい。


 沢木さんの、あの父親のような……大きく包むような温かさを感じたい。

 ごつい手のひらに背を叩かれ、何とか息を吸い込みたい。


 ——心が弱った時に、会いたくてたまらなくなる人がいる。

 そんなことを、俺は初めて感じていた。



 あの部屋で過ごした間に関わった人たちとは、しばらくは距離を置くべきだ——そう決意を固めていたけれど。


 ブレーキをかけようとする心のコントロールも効かないまま、俺の指は沢木店長のアドレスを呼び出していた。


『おお、三崎くんか!? 久しぶりだなー元気にしてるのか!?』


 電話の奥から、どこか嬉しげな沢木さんの温かな声が響いた。

「お久しぶりです、沢木さん。……はい、まあ普通にやってます」

『はは、そうか。普通が何よりだ。連絡くれて、嬉しいよ』


 久しぶりに聞く大らかで優しい言葉に、思わずじわっと目が熱くなる。


「……何だか懐かしいです、沢木さんの声。……まだ、何か月も経っていないのに」


『……なあ、三崎くん。

 ほんとに元気でやってるのか?』


「……んー……。

 済みません。元気ではないです……正直言って」


『………君のことだから……また、外じゃ元気なふりしまくってるんだろ』

「…………」


『もし、できるなら……近いうち、どこかで会わないか?』


 彼の穏やかな声。

 甘えるのが下手な俺は……この人だけには、いつも弱い自分を晒してしまう。


「……今日は、俺……沢木さんの顔見たくて、我慢しきれず電話しちゃったんです、実は」

『お! 素直でいいぞ! 人間素直が大事だ。

 なら、久々にゆっくり酒でも飲むか。……って、三崎くんいまどこにいるの?』

「今は……千葉の片田舎でのんびりしてます。 母方の祖父母の家があった、海沿いの小さな街なんですが……会うとしたら、どの辺がいいか……」

『あ、そうだ。いいアイデアがある!

 僕がそっちへ遊びに行くよ!』

「えっ……でも、結構時間かかりますよ……それに、あまり夜遅いと日帰りは無理になっちゃうかもしれないし」

『いーんだよ、日帰りなんかじゃなくっても。娘達はもう独立しちゃってるし、家内からもたまにはどっか出かけてこいってウザがられてさー。むしろ海辺の街でのんびり一泊なんて最高だ。……あ、宿は自分で適当な所を取るから、心配しないでくれ。

 じゃ、そういうことで日程を早速調整してみるよ。うわ、こんな気ままな小旅行いつ振りかなー。楽しみだ!』

 沢木さんは、後半はもうウキウキと遠足前の子供のようだ。

 そんな浮き立つ気配に、俺もつられて笑ってしまう。


「……沢木さん。いつもありがとうございます……本当に」

『なんだ、他人行儀に。ほら、僕は君の第二の父親だからさ』


 彼のそんな優しい気遣いが、冷たい闇に火を灯したように明るく、暖かかった。





✳︎





 7月の初め。

 ここ数日は、もう夏のような暑さだ。


 そんな週末の夜、俺の住む街の小さい駅で沢木さんと待ち合わせた。


「お〜! 三崎くん久しぶり!……って、君、いつもそんなに可愛かったっけ??」

「久々に会って、一言目がそれですか?」

 沢木さんとのそんなとぼけた再会に、思わず笑いが漏れる。


「俺、バイトではいつもダサい服とメガネでいましたもんね。——こんな感じで、彼とは過ごしていたんです」

「……そうか。

 そういえば君、そんなこと言ってたよな。GSでは敢えてダサくして村上くんなんかにリア充がバレないようにしてるって」

 そんな風に言いながら、沢木さんはあははと明るく笑う。

「村上くんは、元気ですか?」

「ああ。相変わらず彼女ともラブラブみたいでな。でも、君が辞めて随分寂しそうだ」

「——そうですか。

 あ、ここから少し歩くと、海鮮料理が人気の居酒屋があるんです。そこでいいですか?」

「おお、この辺の魚介は新鮮でさぞうまいだろうな! 楽しみだ」


 片田舎の街でも、週末の駅前はそれなりに賑やかだ。

 俺と沢木さんは、そんな明るい街の灯に向かって歩いた。




 一目で新鮮なことがわかる色鮮やかな魚介の刺身や、こっくりした味わいの煮付けなどにひとしきり舌鼓を打ち、酔いも心地よく回ってきた頃、沢木さんがふと呟いた。


「三崎くん——君はちゃんと、自分自身の幸せのこと、考えてるか?」


「……え?」


 何となくぼんやり3杯目のジョッキを啜っていた俺は、不意に現実に引き戻されて沢木さんを見た。


「今さ、君はどんな風に毎日を過ごしてる?」


「……今は、GSのバイトをほぼフルタイムで入れてます、とりあえず。

 ここからすぐの海岸沿いに、沢木さんのGSと同系列の店舗があるんです。沢木さんのとこでの経験も役立って、そこの面接を受けて即採用してもらいました。


 ……ストレスのない方へ流れていることは、何となく気づいてます。自分でも。

 正直言って——大きなものに飛びついていく気力が、今はどうしても湧いてこないんです。

 身体の中の芯みたいなものが全部抜き取られて、手元に何も残ってない……そんな風にスカスカで。

 ほんと、風船みたいに。ただひたすら中に空気を送り込んで、ふわふわしてるだけ……それすらも辛くて、嫌になります」


「……そうか。

 でも——そんなことならば、彼を諦めない方がまだ良かったんじゃないのか?

 誰を敵に回してでも、しがみついて反撃したら良かったじゃないか。

 ——なぜ君は、そんなに大切な人から離れてここにきたんだ?」


 沢木さんは、冷酒のグラスをテーブルに置き、まっすぐに俺を見つめる。


「…………それをしても、何の意味もないと解っていたからです。

 俺には、あの状況を変える力はない。仮に俺が何か騒ぎ立てたら、それこそ彼を窮地に陥れるだけだ。

 ——どう考えても、結論は同じでした」


「……君らしい、冷静で聡明な考え方だな。

 君の頭脳で精一杯考えて、それしかなかったんなら……

 それが最善の方法だったのなら、自分でかけたその縄にがんじがらめにされたままでいてはいけない。——違うか?」


「————」


「大切なものを失った辛さを一瞬で忘れられる人間なんて、どこにもいない。

 けど……いつまでもそこから出ずに、君の将来が黒ずんでいくとしたら……君が彼に出会ったことは、不幸の始まりだった、ということになってしまう。そうだろう?


 彼といた時間が幸せだったなら……あの時があったからこそ、今がある。そんな風に振り返りたくないか?

 彼との出会いを、幸せな出来事にするのか。それとも、不幸な災難にしてしまうのか……それは、これからの君が決めることだよ」


 沢木さんの一言一言が、ぶよぶよとだらしなくたるんだ心に突き刺さった。


 その通りだ。


 自分が精一杯考えて、最善だと思ったならば——そのことはもう、それでいい。

 そう思わなきゃ、自分が苦しみ抜いて決断した意味がない。


 痛みばかり見つめることをやめて、ちゃんと前を見なくては。


 そして——

 あの出来事を、不幸な災難なんかには、絶対にしたくない。


 ——俺が望んだ通りに自分を深く想ってくれた、彼のためにも。


「————いっつも痛いんですよね……沢木さんの言葉」

「第二の父親の説教も、ちょっとは効いたか?」

 沢木さんは、茶目っ気たっぷりな目で俺に微笑む。


「——まあ、もしかしたら今頃君を連れ戻そうと血眼になってるかもしれないけどな、あの王子様も」


「…………は????」


 真剣に自分を省みている最中に飛んできた沢木さんのとんでもない一言に、俺はまたぐわぐわと翻弄される。


「——やめてくださいよ沢木さん、そういう冗談。笑えませんから」

 俺は本気でむすっとして、どこかニヤついている彼を睨んだ。


「いや、別に冗談のつもりじゃないけど……ごめん、変なこと言って悪かったな」

「……あ。

 念のため言っておきますけど。

 俺の居場所とか、絶対誰にも喋ったりしないでくださいよ?」

「もちろんだ」


 そんな返事をしつつ美味そうに冷酒のグラスを呷る沢木さんを、複雑な思いで見つめた。


 彼が、俺を必死に探す——

 そんなこと、あるわけないだろ。

 俺さえいなければ、全てがスムーズに片付くはずなのだから——状況的に、どう考えても。


 そして彼は、俺のことなんかよりもずっと重要な物を、既に幾つも抱えているのだ。


 ——神岡は……今、どうしているだろう?


 真剣な表情で自分を探す彼の姿が、一瞬脳をよぎり——俺は、その有り得ない妄想を乱暴にかき消した。




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