刺激
2月半ばの火曜、朝10時。神岡工務店のエントランス。
俺は、リクルートだと一目でわかるスーツ姿で、そのソファに背を埋めていた。
その空間は言うまでもなく広く、天井は高く。壁一面を取り払ったような大きな窓から差し込む明るい日差しに、白い床も壁も磨かれたように光る。
一流企業ならではのときめくようなハイソな空気が、そこに満ちていた。
「三崎様……ですね? お待たせいたしました」
品の良い足取りで俺に近づき、澄んだ声で話しかける美しい女性。
「私は、神岡工務店副社長秘書の、菱木さくらと申します。本日は、私が当社のご案内をさせていただきます。どうぞよろしく」
彼女は、乱れのない美しい言葉でそう言うと、俺に丁寧に会釈をする。
「——三崎柊と申します。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
俺も、椅子から慌てて立ち上がると、就活の本で急いで仕込んだ会釈を返した。
綺麗な人だ。すらっとメリハリのある長身に、中性的な凛々しさのある顔立ち。活動的なショートの髪に、聡明な瞳と引きしまった口元。
「神岡副社長の大学時代のご後輩でいらっしゃるんですね」
そんな切れ味の良い外見ながら、柔らかく微笑んで話すその口調には、どこか親しみと信頼の置ける安らかさが漂う。
さすが、神岡工務店副社長の秘書だ。そうそうどこにでもいる女性じゃない。——っていうか、彼はこんな魅力的な女性と毎日仕事をして、特に何ということもない……のだろうか。
……ないんだろうな。だって彼、相当変人だもん。やっぱり。
「え……と、はい。そうですね」
神岡の大学の後輩。そうだった。シミュレーションしつつ来たと言うのに、余計なことを考えてたせいで変な応答になる。
「……もしかして、副社長のお皿洗いをされてる後輩さん……かしら?」
そんなふうに控えめに呟き、彼女はクスッと綺麗な笑顔を見せる。
一瞬、ドキッと心臓が跳ね上がった。
「……え……あの……ご存知なんですか?」
「いえ……以前に、上質なゴム手袋を探したい、と副社長からご相談を受けたことがあって。たくさんお皿洗いをする大学の後輩に贈るんだ、と仰ってましたので」
「——あ、あの……神岡さんにはしょっちゅう差し入れなんかしていただいてて……そのくらいしかお礼できないんです……」
そんな即席の言い訳をモゴモゴと呟きながら、顔が赤くなりそうなのをぐっと抑え込む。
「そうなんですね——でも、思ってた以上に可愛い方で、驚きました」
そう言うと、菱木はにっこりと美しく微笑んだ。
この人、勘もすごく良さそうだ。心の動きまで見透かされそうな——変な感情をいちいち顔に出したりするなよ俺!!
「では、設計部門へご案内いたします。どうぞこちらへ」
彼女の後について、俺は上質なしつらえのエレベーターに乗り込んだ。
「ご存知の通り、当社は住宅建設・販売を全国に展開するハウスメーカーです。免震・耐震技術の水準の高さには定評があり、またローコストで良質な商品を提供するための努力を積極的に行っている点でも、高い評価を得ています。——ここが設計部門です。どうぞ」
オフィスは広々として、たくさんの社員が熱を持った空気で動き回っている。
整然とした中に、引き締まった活気が溢れ——それは、俺にとって初めて触れる、刺激的な空間だった。
「求められているものを的確に捉え、商品のコンセプトや構造、設備面全般にきめ細かく反映させる——この部門は、お客様の希望を丹念に掬い上げ、形にする、会社の『心』とも言える重要な場所です」
「——会社の『心』……」
菱木の言葉が、深く脳に刻まれる。
地形図のパネルや建築模型を前に、其処此処で打ち合わせをする社員たち。その眼は皆真剣に、生き生きと輝いている。
人生の大切な時間を過ごす、「家」を創る。それは、その人の「人生そのものを創る」と言い換えてもいいのかもしれない。
顧客の思いに寄り添う心地よい居場所を創れるかどうかは、この設計技術者たちの「心」と「腕」にかかっているのだ。
「……いい仕事ですね。やっぱり」
「でしょ?——本当に、素晴らしい仕事です」
俺の呟きに、菱木は嬉しそうに瞳を輝かせる。
「目下当社が力を入れているのは、二世帯住宅です。
高齢化が進み、一人暮らしを余儀なくされている高齢者は増える一方です。子供が親を引き取りたい、そう考えても、二世帯となればコストもかかります。その辺の問題を少しでも解消できる商品が開発できれば、喜んでくださるお客様がきっといる、という判断です」
「なるほど……」
用意してきた手帳に、メモを取る。
そうしながら——俺の脳内で、さまざまなことが音を立てて組み上がっていくような感覚があった。
フロアを後にし、廊下に出る。
高揚したような引き締まった心と身体が、なんとも心地よい。
社会に出るというのは、こんな風に——自分以外の人の生活や人生を考え、それを実現するために力を尽くす場所なんだ。
そして、俺が学んできたことも——思ったよりも、ちゃんと役に立ちそうだ。
そんなことを改めて感じながら菱木について廊下を歩いていると、向かい側から二人の社員が近づいて来た。
——神岡だ。
それと、少し年配の男性……部長とか、そんなクラスだろうか?
彼らは、何か真剣に言葉を交わしながら歩いてくる。
——神岡のその表情や姿は、いつも見ている彼とは全く違う空気を纏っていた。
脳をフル作動させていることがありありと伝わってくる鋭い視線。余計な感情の一切入らない、厳しい口元。
鋭利なオーラが、颯爽とその空間を切っていく。
上質なスーツが、柔らかな照明に光沢を放つ。
簡単に声などかけられない、研ぎ澄まされた気配がそこに満ちている。
これが、ここでの彼の姿。
見てみたいと、ずっと思っていたが——
彼は、想像より遥かに鋭い剣捌きで、自分とはかけ離れた世界を戦っていた。
菱木に合わせて、その二人に会釈をする。
彼は、きっと——俺には気づかないだろう。
全く違う人間のような佇まいの彼が、自分の方へよそ見などするはずがない。
だが、すれ違う瞬間——
彼は、僅かに流すような視線で一瞬だけ俺を捉え……口元を微かにクッと引き上げた。
完璧に武装した戦士が、鎧の隙間から僅かに熱を漏らしたかのようなその微笑は……例えようもなく官能的な、ゾクゾクとする美しさで俺のど真ん中を突き刺した。
うわ…………
やばい。
やられた……。
なんで、こんなにも一緒に過ごしてるのに……今頃改めて、ハートに矢が……??
順序が違うだろーがっ!!??
今更ひとを射殺すな神岡樹!!!
「かっこいいでしょ? ウチの副社長。
……もしかして、三崎さんもあまり見たことがない姿かしら?」
そんな菱木の囁きに、はっと我に帰る。
「あ……そ、そうですね……」
完全にドギマギしつつそう返す。
「あんなふうに颯爽として、涼やかな顔で山のような仕事をこなし、社員への気遣いも厚くて……本当に完璧な方です、彼は。
でも……あまりにも冷たい無表情で、どこにも隙がない彼が、時に不思議で、怖くもありました。——以前はね。
それが最近、少しだけ変わったように、私には見えるんです。
楽しげな顔や、苛立ちや……そんな人間らしい心の動きが垣間見える瞬間が時々あって、はっとします。……ゴム手袋をネットで探していた、あの頃からかしら?
私への気遣いも、以前より温かく、優しく感じられます。
——もしかして、誰か素敵な方と恋をしているのかな?なんて、ちょっとだけ想像したり。……だって、あんなに魅力的な方なんですもの、気になっても仕方ないですよね?
……あ、ごめんなさい。なんだか三崎さんの空気、安心してしまって。……副社長には、どうか秘密にしてくださいね」
菱木はお茶目な笑顔を見せると、少し目を細めるようにして続けた。
「でも、あなたの前では、彼はここで絶対に見せない顔をたくさん見せてるんだろうなあ……そう思うと、とても羨ましいです」
「……そう、でしょうか……」
いろいろ感づかれないように曖昧に答え、必死に感情を押し殺す。
そうしながら、俺は複雑な気持ちになる。
——本当の神岡は……
いつも明るくて、無邪気に笑って。
男子高校生並みによく食べて、ちゃんとエロくて。
誰よりも細やかに、温かくて。
——そんな、ごく普通の男としての彼を、あの部屋以外では一切見せることもできずに。
自分の知っている彼のことを全部、菱木に打ち明けたい。
そんな衝動に駆られたが……ぐっと堪えた。
そんなことをしても、彼を現状から救い出せるわけじゃない。
そして——彼を救うのは、俺じゃない。
それは恐らく菱木でもなく……
ならば。
この先、彼は——どこで、どうやって幸せを掴むんだろう?
そんな苦い疑問がまるで宙吊りになったように、俺の中でぐらぐらと揺れた。
「菱木さん、本日は貴重なお時間を頂き、ありがとうございました。大変勉強になりました」
「いいえ、私も楽しかったです。……また、お会いできたらいいですね」
帰り際のエントランスで深く礼を伝える俺に、彼女はそんなことを言って美しく微笑んだ。
午後の陽射しに輝くビルを出る。
すごく刺激的な時間だった。
部屋に戻って、今日得た情報を早速まとめてみよう。
——そんなことを考えていると、スマホに神岡からメッセージが届いた。
『柊くん、今日はお疲れ様。
今夜、時間を作ってそちらに行きたいが……都合は大丈夫?
いや、是非とも都合をつけてほしい』
予定は、この後は特にないけど。
何かすごい熱意を感じる。
『今日は勉強になりました。ありがとうございました。
この後は、特に予定はないので、大丈夫です』
そう送ると、すぐに返信が来た。
『ならよかった。じゃ仕事が終わり次第向かうよ。
今日は、夕食は僕に作らせて。食材も揃えて行くから』
『了解です。お待ちしてます』
……うーん。
今日の見学の感想を早く聞きたいのだろうか?
それとも……?
照れ隠しに眉間に皺を寄せ、そんなことを思う。
……さっきすれ違った、剣のように鋭く人を寄せ付けない美しい男が——忙しい時間を割いて、自分に会いにくる。
他の誰でもなく、自分に。
そんな奇妙な嬉しさが、心の底に込み上げる。
彼と過ごす時間は、先のことは考えないと決めた。
この喜びが、やがて手からこぼれてしまうものだとしても——今目の前に確かにある幸せを、悲しみで打ち消すことは、絶対にしたくない。
既に何度も呟いたその言葉を、心で繰り返す。
そして、彼の戦う美しいビルを、俺はもう一度眩しく振り返った。
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