準備

 3月の上旬。

 空には、微かに春の柔らかな気配が漂い出している。

 それでも風はまだ冷たく、本格的な春はもう少し先だと実感する。


 3月から4月の年度の切り替え時期は、おそらくどんな職場も、一年で一番の繁忙期だ。

 神岡工務店も、その例外ではなく……神岡自身も、仕事以外の時間的余裕はほぼ持てないようだ。


『毎年年度末は仕事が恐ろしく立て込んでね。なかなか君のところへも行けなくてごめん』

 少し前に、そんなメッセージが届いた。

『大丈夫です。俺も、少しやることがあるので』

 そう返事をした。


 やることがある……それは、本当のことだ。

 大学院時代の自分の研究内容を、もう一度まとめ直してみよう。——神岡工務店の見学をして以降、俺はずっとそのことを考えていた。


 俺が取り組んでいたテーマは、建築物の形状によりいかに建築コストを抑えられるか、というものだった。

 潤沢な予算がある場合はさておき、決まった予算内で必要な条件を整えた建築物を作るには、スリム化できる部分はできる限り削らなければならない。

 スリム化の方法のひとつとして、外観や屋根の形などを工夫すれば、内装の条件を変えることなく、ある程度のコストダウンをすることが可能だ。

 その場合に、具体的にどのような形状の工夫で、どれだけのコスト削減ができるかを研究したものである。


 会社見学の日、社内を案内してくれた菱木さんの説明が、俺の脳を刺激した。

『——目下当社が力を入れているのは、二世帯住宅です。

 高齢化が進み、一人暮らしを余儀なくされている高齢者は増える一方です。子供が親を引き取りたい、そう考えても、二世帯となればコストもかかります。その辺の問題を少しでも解消できる商品が開発できれば、喜んでくださるお客様がきっといる、という判断です——』


 俺の研究データが、何か役に立つかもしれない——。


 俺が大学院で研究結果をまとめた時点では、俺の試したアイデアはまだどこも採用していない新しい視点のものだと、研究室の教授は大いに興味を示していた。


 結局何にも利用できないままPCの中で眠っていた研究データが、神岡の役に立つのなら——。

 そう思った。


 そして、仮にそれが実用化に結びつかないとしても……

 それでも——俺は、自分自身のために、そうしたかった。


 自分がいたことを、何かの形で神岡の手に残したかった。

 跡形もなく消えるのは、嫌だった。

 時には……ほんの一瞬でもいいから、思い出して欲しい。

 俺がここにいたことを。


 ——そう思った。


 データを整理し、神岡に渡すこと。

 それは、俺がここを去る前に、どうしてもしておきたい準備だった。


 ふと、時計を見た。

 午後3時少し前。

 3時に、美容室『カルテット』へ予約を入れていた。

 そろそろ、家を出なければ。









「何だか久しぶりだね、三崎くん」

 鏡の前に座った俺に、宮田は相変わらず美しい営業スマイルで話しかけた。


「……」


「まあ、喋ってもらえなくても仕方ないね。

 嫌がらせも散々したし、あんなふうに君の部屋に押しかけて酷いことしたし」


「……」


「——今まで、悪かった」


 突然真剣な声で謝られ、俺は思わず鏡越しに宮田の顔を見つめた。


「今更謝っても、何もならないのかもしれないけれど……できるならば、どうか許してほしい。


 ……僕は、近づけるはずのない雲の上の人に真剣に惚れて、想いが叶わないイラつきを全部君にぶつけた。

 恋心が叶わないなんてこと、今までなかったし……これほど真剣に人を想ったこともなかった。

 おもしろおかしい軽い遊びみたいな恋しか知らなかったから。

 ——あんなに、身体がジリジリと灼けるほど苦しいなんてね」


 そう言うと、宮田は鏡越しの俺にふっと笑った。


「叶わない恋なんて、するもんじゃないな。

 ……君のおかげで、目が覚めた」


 俺は、なんだか変に居心地が悪くてむすっと返した。

「……別に、あんたの目を覚ますようなことは何もしてない」


 俺の言葉に、宮田は呆れたというような顔で俺を見る。

「何もしてないどころか。——三崎くん、もしかして自覚ないの?

 僕たちが、君の部屋へ押しかけたあの時——君は、美月さんに言ったよな。『彼を幸せにすると約束しろ』……って。

 全く、どれだけ本気の愛の告白だよ? もう当てられちゃってさ。

 あんなふうに捨て身で誰かを想うなんて、普通するか? しかも、絶対に自分のものにならない相手のことをさ。

 しつこい僕も、さすがにイチ抜けた!って言いたくなった」


「————」


 ……本気の愛の告白……?

 あの時は、俺なりにただ必死でやったことなのだが……

 あれって……そんなにすごい愛の告白……だったのか?


 何だかとんでもなく恥ずかしくなり、じわっと顔が熱くなる。


「だからさ……君に約束させたあの期限も、もうなかったことにしようかと思って」


「……は?」

「人の恋路を邪魔する奴は……っていう、アレさ。君と神岡さんの間を裂いても、もう特に面白くもないし。

 だから……君があの部屋にいる期限を今月末までって決めた件も、御破算ってことで……どう?」


「……それは嬉しいな」

「だろ? まあお幸せに」


「だが……悪いが、その申し出は辞退する。

 ——あの約束は守る」


 宮田は、驚いた顔で俺を見た。

「辞退って……なぜ」


「神岡に、今後もずっと愛人を抱えさせたりはしたくない」


「——」

「そんな関係を続けても、多分幸せになれないだろ。

 ……彼も、俺も」


「……なら……

 来月から、君は……どうするんだ」

「秘密だ」


 宮田は、しばらく何か考えるような顔をして……ふと諦めたように微笑んだ。

「強情な君のことだ。その決心は、変わらないんだろう?」

「まあな」


「——君って、変なヤツだな」

「昔からよく言われる」

「やっぱりね。

 ……でも、嫌いじゃない」

「惚れたとか、絶対言うなよ」

「あはは。僕にはもうかわいい恋人がいるから安心してよ」

「……そうなのか」

「少し前から、告白されててさ。……顔立ちなんか、ちょっと君に似てるかもな」

「は? やめてくれ、気持ち悪い」

「そう言うなって」


 彼は面白そうに笑って、続けた。

「……まあ、君がこの先どうするのかは、もう聞かないけどさ。

 君は、自分自身が幸せになることも、ちょっとは考えたらいいと思うけどね」


「——あんたらしくない台詞だな」

「ん、そういえばそうだ……でも、最後くらいはね。

 じゃ……とりあえず、元気で」


 宮田も俺も、何か重たい物を片付けたように——その後は、何も言葉を交わさなかった。









「少し時間かかっちゃったけど——ちゃんと焼けたわ、クッキー」


 美月は、二階堂商事近くのカフェで、野田と会っていた。

 窮屈そうに膨らんだラッピングバッグを、恥ずかしそうに野田に差し出す。


「こんなにたくさん——本当に焼いてくださったんですね。

 ありがとうございます。ウチの奴ら、みんな喜びます」

「最初は失敗ばっかりだったけど、慣れてくると楽しいの。一回焼くと、いっぱいできちゃうのよ。……でも、喜んでもらえて嬉しいわ」

 美月は、そう言って少し照れくさそうな顔をする。


 ——随分柔らかい表情になった。

 野田は、久々に会う美月の纏う空気に、そんなことを感じていた。


「こうしてカフェで飲むコーヒーも、何だか久しぶり」

 そう呟きながら微笑み、美月はカップから立ち上る湯気をふうと吹いた。


 これまでに見たことのない、純真な少女のような美月が、目の前にいる。


 ——今の彼女なら。

 愛する人を幸せにすることも、できるかもしれない——。

 多少たどたどしく、不器用かもしれないが。


「野田さん——

 あの時……三崎さんの言ったこと、覚えてる?」


「……」

 美月の唐突な問いかけに、コーヒーカップを取ろうとする野田の手がふと止まる。


「彼……

 3月末で、あの部屋を出るって……

 確か、そう言ってたわよね」


「——そうでしたね。私も覚えています」


 あの一件以来、美月は一度も樹に会っていない。

 外出すること自体、めっきり減った。送迎の回数からして、それは明らかだ。

 三崎と樹の関係の深さが、彼女を大きく傷つけ、混乱させたことは間違いない。


 けれど——

 それだけではない気がする。


 樹と会わずにいた間……美月はもっとたくさんの何かを、彼女なりに考えていたのではないだろうか。


「——三崎さんがあの部屋を出ることは……

 あなたにとっても、喜ばしいことですよね?」


 野田は、美月の様子を内心注意深く窺いながら、そう問いかけた。


「ええ……そうね」

 美月は変わらぬ美しい微笑をこぼす。

 だが、その心の内は固く覆われ、野田には何も読み取ることができない。


 やがて——言葉を繋ぐこともなく、美月は静かに窓の外へ目を移した。

 春の気配が近づく淡く明るい空が、その瞳に映る。


 野田は、黙ってその横顔を見つめた。



 ……この先に。


 彼らのこの先には、何が待っているのだろう。


 彼らには、どんな春が訪れるのだろう——


 そんな漠然とした思いが胸に浮かぶのを感じながら……野田もただ、窓の外の空を見上げるだけだった。




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