契約

「……さて」


 彼のベンツは、近くの公園の人気のない駐車場で止まった。


「……ここで話すんですか?」

「わざわざ面接場所を探すこともないかと思ってね。——ここでは不満かな?」

 そう言って、神岡は淡々と微笑む。


「……いいえ」

 俺は、小さくそう答えた。


 俺は、半端じゃなく緊張していた。

 村上君も店長も口を揃えて言っていた、冷たく近寄り難い雲の上の大企業副社長が……一体俺にどんな話をするのだろうか。


「改めて、自己紹介しよう。僕は神岡工務店社長の息子で副社長の、神岡樹といいます。歳は29。どうぞよろしく」

「……三崎柊です」

「僕の用件を話す前に、少しだけ質問をさせてもらってもいい?」

 神岡は、履歴書に目を通しながら俺に問う。

「……はあ……」

「沢木店長も言ってた通り、文句のつけようのない履歴書だね……そんな秀才クンが、なんでフリーターしてるの?」

「別に秀才じゃないです。……普通に就職する意味が、よくわからなくなっただけです。何か、経験したこともない世界を見てみたいような……漠然とそんな気持ちで」

「なるほどね。それ、よくわかる」


 俺は、少し驚いて彼を見た。

 俺の行動について「よくわかる」という評価を、初めて聞いたからだ。


「……ところで、君は掃除や洗濯、普通にできる?」

「……まあ、一人暮らししてますし普通にやりますけど」

「料理は?」

「無難に作りますよ。どっちかといえば好きかな」

「彼女は?」

「俺がフリーターやることにしたと同時に別れを切り出され……って……コレ何の質問ですか!?」

 ますますわけが解らない。混乱したまま、そう問い返した。

「最後にひとつだけ——キミ、男にも恋しちゃうタイプ?」

「いい加減にしてください! 生まれてこのかた一度もないですよ!!」

「うん、合格。完璧だ。

 ——いろいろヘンなこと聞いて悪かったね。じゃ僕の用件を話そう」

 彼は居住まいを正してまっすぐ俺を見た。


「三崎君——僕の愛人になってくれませんか?

 あのGSで働くキミを見て、一目惚れしました」

 堂々とそう言ってのけると、彼はいきなり無邪気さを全開にした笑顔で美しく微笑んだ。


 …………はい……?


 今までのクールで冷たく人を寄せ付けない雲の上のあの空気……は一体どこいったんだ??


 ——やばいぞ。

 コイツ、こんなにキレイな顔をして……さては変人か!!?


「——あのぉ……大変聞きづらいんですが……あなた、もしかして、ゲイな方ですか……?」

「うーん、多分ゲイではない。ただ、女の子も好きだけど、かわいい男の子も大好きなのは間違いない」

「えーーっと、せっかくのスカウトですが今すぐ辞退します! 降ります降りますっ!!」

 俺はじたばたとベンツからの脱出を図った。

「まあまあ、落ち着いて。僕の条件を全部聞いてからでも遅くはないよ? キミが辞退しても僕は少しも困らない。希望者はいくらでもいるだろうからね」

 彼は平然とした笑顔で言う。

「——だって、愛人って、ベッドの相手してお金もらう……ってアレですよね??」

 俺は助手席のドアから飛び出る身構えで、恐る恐る尋ねる。

「んー、一般的にはね。でも、僕が探してるのは、ちょっと違うな。

 僕が求めてるのは、敢えて言えば『観賞用』って感じ。ハウスキーピングを普通にやれるかわいいコを側で眺めたい、っていうのかな」


 ……やっぱ意味わかんねー。

 とにかく半端じゃない変人のようだ、この人。


「……っていうか、そもそも俺のどこが観賞用なんです? 視覚異常でもあるんじゃないですか?」

「隠したってわかる。……ちょっと失礼」

 そう言うと、彼は俺の顔に手を伸ばすと、メガネを静かに外し、俺のボサボサ髪を手際よく整えた。

「ほら。予想通りだ。……キミ、敢えてカモフラージュしてるの? 色白いし、顔立ちもはっきりしてるし、涼しい黒眼がちで……こんな可愛い子、そうそういない」

「知りませんよそんなこと。自分の顔がかわいいとか全然興味ないし!」

「それに、顔だけじゃない。キミの仕事ぶりや客への対応は、他のスタッフとは一線を画すものがあった。だてに応募者の最終面接に立ち会ってないからね。

 キミなら、きっと居心地のいい場所を作ってくれそうだと思った。

 僕としては、ぜひキミを採用したい。で、契約の条件なんだけど……月収は、これでどう?」

 彼がスマホで表示してみせた金額は……俺の年頃の一般的サラリーマンの恐らく倍はある。

「……こんなに?」

「そう。ただ、条件がある」

「条件?」

「簡単だ。まず、常に僕好みの服装や身なりでいてほしいこと。髪のスタイリングも、僕指定の美容室の専属スタイリストに限る。キミの部屋は僕が借りる。部屋の内装や食器類も服も、すぐに暮らせるよう全て揃えておくから、キミは必要最小限の私物だけ持ってくればいい」

「あの——

 身体の関係は……業務に含まれないんですか……?

 俺、男には惚れないし、夜の相手とか不可能ですから」

「だから適任なんだ。そういう感情抜きでやってほしい仕事だからね。もちろん身体の関係なんて必要ない。今言った条件を守る以外は、キミは普段通り過ごしてくれればいい。そして、キミがこの仕事を辞めたくなったら、一言申し出てくれればすぐに契約を解除する」


 ……なるほど。

 つまり、コイツ好みの観賞用ペットになる……ってことか。ざっくり要約すれば。


 でも……まあ、いいんじゃないか。

 俺は、想像したこともない未知の経験がしたかったんだから。それこそ自分の望み通りだろう。

 条件は悪くない。……むしろ、この上なく興味深い仕事が転がり込んだと言ってもいい。


「——じゃ、俺からも質問させてください」

「何でもどうぞ」

「あなたはどうして、こんな奇妙な相手探しをしてるんですか? 奥さんとかそういう人、いるんですよね?」

「婚約者は一応いるよ。親が決めた、ね。でも、彼女を愛してるとかそういうのじゃない」

 神岡は、表情ひとつ変えないままそんな言い方をする。


「……僕も、キミと一緒だ。親が決めた通りの道を歩いて、このまま結婚して会社を継いで——それが面白いのか?と……ある日、思ってしまった」

 初めて見る静かな眼差しで、彼はそう呟いた。

「自分が好きなことやしたいことなんて、結局一度もやったことがなかったんだなぁ、って気づいたら——急にいたずら小僧みたいな気分がムズムズしてきてね。

 ……そんなとき、キミを見つけた。笑顔がかわいくて、必要な場面ではしっかりと頼りがいがある。『この子がいい!』ってビビッときたんだ」

「GSをペットショップかなんかと勘違いしてません?」

「人聞きの悪いこと言わないでほしいな。——でも、キミの考えていることと、ちょっと似てるだろ?」

 彼はそう言うと、子どものように微笑んだ。


 この契約そのものは、確かに相当怪しげだ。

 でも……俺も、彼の気持ちがよくわかる。

 どこか俺と通じるものが、この男にはある気がする。


「——分かりました。……この契約、お引き受けします。

ただ、自分で言うのもあれですけど、俺、相当な変わりモンですよ。それだけはご承知置きください」

「そうか! それは嬉しいな。

 キミが変わり者なことくらい分かる。この話を引き受けた段階で充分にね。——僕も変人だし、丁度いい」

 あー、このひとも自分のヘンジンっぷり自覚してるのね。

「あ、それから、表向きは、キミは僕の大学の後輩で、リストラされて衣食住に困って僕を頼って来たヘタレくん、ということにするのはどうかと思うんだけどね」

 気持ちいいほどの酷い言いっぷりで眩しい笑みをこぼす。

「————いいんじゃないですか」

 まあ、こんな変わった男の話に乗った俺も大概だから、もうなんでもいい気がしてきた。

「あのー、ぶっちゃけた話、これって『愛人契約』じゃないですよね? なんかヘンな違和感ありすぎるんですけど?……『ペット契約』とかのほうがしっくり来るんじゃないですか?」

「そうかな? だってキミはペットじゃない。僕にとって重要な契約相手だ。

 ——君のことは、大事にする」

 そう微笑んで俺を見る彼の瞳が、一瞬誠実な色を湛えたように見えたのは——気のせいだな、多分。


「じゃ、契約成立だ。契約書は改めてちゃんと渡すよ。部屋の住所などはまた知らせるから、連絡先を交換しよう。

 これからよろしくね、三崎君」

「よろしくお願いします……」


 ……勢いに任せて引き受けてしまったが。

 考えれば考えるほど尋常でないこの話に、簡単に応じて大丈夫か俺?

 まとまらない思考をぐるぐるさせながら、俺はこの奇妙極まりない契約を無事済ませたのだった。


「じゃ、戻ろう。時間を取らせて悪かったね。沢木店長にも謝らなきゃな」


 美しいベンツが走り出す。

 丁寧な運転が心地いい。ホワイトムスクが静かに香る。


 こうやって黙って運転する彼の横顔は、この上なくハイクラスなオーラを放っているのに——。

「じゃ、これから君のことは柊くんって呼んでもいいかな? 柊くんか……かわいいなぁ」

 とか勝手に呟くヘンジンっぷりとあまりにギャップがありすぎて——ちょっと笑える。

「……なら、俺はこれからあなたをいっくんと呼びます」

「え、いっくん!? 嬉しいけどやめてくれ! なんか身体がむずがゆい!……まあ、それ以外なら好きに呼んでいいから」

 彼はそう言って笑う。

 面白い人だ。


 ——とりあえずは、この美貌の変人を信じてみようか。


 なんだか、これから面白いことが始まるんじゃないか。

 何となく、そう思った。




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