来訪者(2)

「……おかしいな」

 樹は、首をかしげた。


 午後になって柊へ送ったメッセージの返信が、返ってこない。

 GSのアルバイトのない日は、大抵程なく返事が来るのに——今日は、いつまで経っても既読がつかない。

 夜にそちらへ行く、と今朝メッセージを送った時には、終日特に何の予定もないと言っていたはずだったが——


 営業部門とのミーティングを終え、自室へ戻る。

「菱木さん、特に僕宛の電話などはなかった?」

 秘書の菱木さくらは、顔を上げると爽やかな声で答える。

「はい、伝達事項等は特にございません」

「……そう。ありがとう」


 ——何か、あったんだろうか。

 静かな空間で、既読すらつかないそのメッセージ画面を見つめるうちに、樹は微かに胸のざわつきを覚えた。


 彼に連絡をしてみよう。

 番号を呼び出し、通話ボタンを押そうとした時——ドアをノックする音が響く。

 菱木が連絡事項を伝えに来たのだ。

「失礼いたします。副社長、社長がお呼びです。先ほどのミーティングの内容を急ぎ確認したいとのことです」


 こういう時に——

「わかったから。少しだけ待ってくれ」

 いつになく苛立たしげな樹の様子に、菱木は驚いたようだ。

「……あの、副社長……?

 何か、ございましたか?」

「あ、いや……いいんだ。何でもない。すぐ行く」

 樹は一瞬漏れ出た苛立ちを抑え込み、ミーティング資料を手早く揃える。


 慌ただしく部屋を後にする樹の姿を、菱木はじっと見送った。


 ——あんなに、感情を露わにした彼を見るのは、初めてだ。

 彼女には、なぜかそれがとても新鮮に思えた。



「失礼します」

「急に呼び出して悪いな、樹。営業部門とのミーティングの情報をできるだけ早く欲しくてね」

 神岡工務店社長であり、樹の父であるみつるは、手元の資料から顔を上げると静かに微笑んだ。


「今月から打ち出した、新しいコンセプトの二世帯住宅についてなのだが……営業部門では、どんな評価をしている?」


「———」

 ソファに着いた樹は、まるで聞こえていないかのように無言で資料をテーブルへ並べ続ける。


「……樹?」

 その呼びかけに我に返ったように、樹は充を見た。

「——あ……。

 申し訳ありません。——今、何と?」

 初めて見る樹の上の空な様子に、充は目を丸くした。

「……どうしたんだ? お前らしくないな。何かあったか?」

「あ、いいえ……大したことでは……」

 樹は慌てたように自分の感情を押し隠す。

「そうか。——ならば、今は目の前の業務に集中しなさい。お前は副社長だ。個人的な事柄にいちいち気を取られていてどうする?」

「——申し訳ありません」


 そう謝罪しながらも、資料を見つめる瞳やページを捲る指先からは、明らかな焦燥が漂う。


 ——いい表情だ。

 いつから、そんな顔をするようになったんだ?

 これまでは、ただ与えられた仕事に無表情で専念するばかりだったお前が……。 


 樹のその様子をちらりと窺いながら、充はそんなことを感じていた。





✳︎





 俺は、黙って美月の話を聞いていた。


「樹さんが、最近とても幸せそうな笑顔をするの。

 それを見ているうちに……私、何だか不思議になってきて。

 樹さん、何かいいことでもあったんじゃないかしら、なんて思ってたのだけれど……やっぱり、私の勘は外れてなかったみたい」


 震え出しそうな指で何とか淹れたコーヒーを一口飲み、美月は俺の向かい側のソファでそう微笑む。

 宮田は美月の隣でその話を不愉快そうに聞きながら、コーヒーをずずっと啜った。


 ……そうなのか。

 最近の神岡が……そんなにも、幸せそうな笑顔を。


「樹さんが変わったのは……あなたのせいよね?」

 美月の鋭く刺さるような語調に、俺ははっと顔を上げた。


「いえ……

 俺のせいなんて……ないはずです」

「そうかしら?……私、びっくりしたわ。この部屋にいる若い男の子って、どんな子かしらとずっと想像してたけど……こんなに可愛らしくて、しかもしっかりと賢そうで。

 ……あなたみたいな魅力的な子の待ってる部屋なら、彼が通い詰めたくなるのもわかるわ」


 美月の目の奥が、鋭く光った。


「しかも——

 あなたは、彼のことが、好きなんですってね……?」


 その瞬間、宮田がクッとニヤついた。

 よく考えれば、当然の展開だ。

 昨年末、俺は宮田にはっきりと宣言してしまったのだから。

 ——神岡が好きだ、と。

 負けず嫌いな自分自身がつくづく悔やまれる。


「——大学の後輩として先輩を慕うのは、そんなに不自然なことでしょうか?」

 俺は、極力平静を装ってそう返す。

「あら、あなたが思ってるよりも、女は勘がいいのよ?

 彼の幸せそうな顔と、あなたの彼への思いと——ぴったりと合致してしまうのだもの。ただの先輩と後輩の関係で、あんなふうに満たされるなんて、あり得ないでしょう?——もう、誤魔化しようがないんじゃなくて?

 ……スクランブルエッグを褒められて、嬉しそうだったわよ、彼」

 美月は、冷ややかに口元を引き上げる。


 俺は、思わず言葉に詰まった。


 あの朝だ——

 彼に抱かれた、あの翌朝……スクランブルエッグがとても美味しい、と、俺は彼に言ったのだ。


 彼女は、彼の言動の端々から、それを感じ取ったに違いない。


 ——嫌な女だ。

 自分のことは棚に上げ——他人の言動ばかりを疑い、執拗に観察し、そうして掴んだ弱みに付け込んでくる。


 俺は、勇気を奮い起こして美月の顔を真っ直ぐに見つめた。

「……あなたに不快な思いをさせたならば、申し訳ありません。

 けれど——

 彼に疑いや不満を感じているならば……あなたが直接彼に言ったらいいでしょう?

 もっと自分の方を向いてほしい、と。

 あなたは——彼を笑顔にするような努力を、何かしてますか?

 彼が幸せを感じるような時間を作ろうと、少しでも努力してるんですか?」


「——他人の婚約者に手を出しておいて、随分偉そうね」

 美月の笑みが、冷たく残酷なものに変わる。

「私がどんなに腹立たしい思いでここにいるか、わかってるのかしら?

 こんなに馬鹿にされたのは初めてだわ——ちょっかい出したのが若い女ならともかく、男だなんて。全く、信じられない。

 なのに、ろくな謝罪もなしに、逆に喧嘩を売るなんて。……小生意気で、思わず泣かせたくなるっていう宮田さんの気持ち、よくわかるわ」

「……生意気だったら、何なんですか」

「あなたが女なら、今頃思い切りあなたを張り倒してる。掴み合いの喧嘩ができなくて、とても残念だわ。男相手じゃさすがに敵わないもの。

 ……だから、宮田さんに私の代理をお願いしようかしら、なんて思うんだけど……どう?

 この人も、あなたが可愛くて仕方ないらしいから。ちょうどいいでしょ?

 ただ——あなたがここからすぐにいなくなるって約束するなら、話は別だけど」

 宮田も軽薄な笑みを浮かべながら、強く彼女に同意する。

「そうだよ、三崎くん。今すぐどっちか選べよ。神岡さんの婚約者の美月さんがそう言ってるんだから、仕方ないだろ? ボクはどっちでもいいけどね……君が消えるならボクも安らぐし、ここに残るならば今から君と楽しいことができる」



 ……どうする……


 ———どうしたらいい?


 奥歯をぎりっと噛み、俺は湧き出してくる思いを呟く。

「美月さん——

 あなたが、これから変わるなら……

 あなたが、彼を幸せにするために変わる、と言うのなら……俺、すぐここから出て行きます。

 あなたが今のまま、何も変わらずにいるつもりならば、俺は、彼の側にいる。

 俺をここから消したいならば——彼を幸せにすると、今ここで約束してください」


 美月の表情が一層険しく歪み、腹立たしげに喚く。


「何言ってるのよ、この子!?

 人を幸せにする方法なんか、知らないわ!——私は愛されて当然な女よ、違うの?……何よ、まだ子供みたいな顔して偉そうに!」

「なら……俺、ここから出て行きませんよ」

「イラつかせるわね! 自分が痛い目見るのよ?……それでいいって言うなら、話はもうこれでおしまい。宮田さんにたっぷり可愛がってもらったらいいわ」

 そんな展開に、宮田の表情が楽しげにギラつき始める。

「え、いいの、三崎くん?——これって、ボクに抱かれるの同意したことになっちゃうよ? 君はさあ、本当に強情だよねえ。それが君のたまらなくいいとこだけどさ」


 ——そうするしかないのか?


 俯いていた俺は、静かに顔を上げた。

「……好きにしたらいい。

 ただ——床の上はごめんだ。抱くなら俺のベッドルームにしてくれ」

「へえ、随分素直だね? うあ、もう待ちきれないなあ」


「………あなた……本当に、それでいいの……?」

 美月が、震えるような声で俺に問う。

「そちらが提示した条件でしょう?

 ——あなたは、ここで待っていてください」


 暗い目つきで狼狽えている美月にそう言い残すと、俺は宮田を伴ってベッドルームへと向かった。



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