戒め

 自室のベッドの上。

 俺の上に覆いかぶさり、唇を重ねようとする宮田を、俺は必死に避けた。


「…………」

「——キスは嫌?」


 さっきまでとはどこか違う宮田の気配に、俺は違和感を覚えた。


「三崎くん。……ボク、今日ここにきて、いろいろ考えたんだ。

 神岡さんは、いずれ諦めなきゃならない人だ。そうだろ?

 しかも彼には、ああいう婚約者がいる。敵に回したら怖い女だ。

 ……君が強情を張っても、彼女やその周囲の怒りを買うだけだ」


 そう言いながら、宮田は俺の耳元に唇を寄せる。


「——ボクのところにおいでよ」


「…………」


「ボクが君を憎いと思うのは、君があまりにも深く神岡に寄り添うからだ。

 それが飛びきり魅力的な子だから、余計に憎い。……わかるだろ?

 彼から離れてくれさえしたら……ボクは本気で君を大切にするよ。

 無理に就職なんかしなくても、君を養う分くらいはボクも稼いでるしね」


「……変な冗談は……」

「冗談じゃない。

 ボクも君も、いずれ神岡さんを諦めなきゃいけない。そして、ボクは君が欲しい。美月さんは君を追い払いたい。

 ——君がボクの言う通りにすれば、全て丸く収まる。……悪くない話だろ?」


 宮田の言う事は、正論だ。

 俺は、間もなく神岡から離れなければならない。

 そして、俺がいるせいで、あの婚約者の心もこんなふうに煩わせている。


 けれど……


 俺も、神岡も——

 お互いを必要としている。

 例えそれが、どんなに短い時間だとしても。


 そして、どんなに真剣に請われても、俺は宮田のものになる気はない。


「……断る」


「——だろうね。

 答え次第では、思い切り優しくしてあげるのに……馬鹿だね」


 それと同時に、セーターの中に乱暴に指が入って来た。

 躊躇うこともなくぐっと腹部を捲り上げる。

「ずっと想像してたんだ、どんなに美味しそうかなあって。……思った通り、滑らかで白い肌に乗ったスイーツみたいだ」

 そんな卑猥な言葉とともに、露わになった胸の突起に乱暴に吸い付かれた。

 執拗に突起を責め立てる彼の舌に、思わず声が漏れそうになる。身体が小刻みに震えずにいられない。

「……もしかして、もう彼としちゃった?

 ——さぞよかっただろ」

 唸るようにそう呟きながら、宮田は突起にぎゅっと歯を立てる。

 俺は、抑え難い喘ぎを必死に押し殺しながら返した。

「——だったらどうなんだ」


「君も知っての通り、ボクは彼みたいな紳士じゃない。——覚悟した方がいいよ。

 こんなにもボクの神経を逆なでするかわいい君が、やっと手の中にいるんだ。

 ……もう、彼のところには戻れないようにしてやるよ」

 宮田は、獲物を組み敷いた獣のようにぎらつく眼で俺を見下ろすと、獰猛に微笑んだ。


 ——その瞬間、俺の中の恐怖が激しく煽られた。


 何をされるのか。

 こいつは、本当に——俺を彼のところへ戻さないつもりかも知れない。

 そのためなら、肉体的に何か大きなダメージを加えることだって……こいつなら、平然とやりかねない。

 俺が想像すらつかない、冷酷な方法で——。


 それは、絶対に嫌だ——。


 うまくいくだろうか?

 一か八かだ。やってみるしかない。


 宮田に組み敷かれたまま、俺は首を反らせて窓へ顔を向けると、渾身の叫びを上げた。


「——野田さん、助けてください!!

 野田さん——っ!!」


 この部屋は、玄関に一番近い。窓の向こうはすぐ外だ。

 敢えてこの部屋を選んだのは、野田という男に助けを求める最終手段が頭をよぎったからだ。

 彼がどんな男かなど、全くわからない。ドアの外に待機しているかもわからない。

 けれど俺は、彼に一縷の望みを託した。


 突然大声で叫び出した俺に、宮田は怯んだ。

「おいっ、よせ……っ!」

 宮田は咄嗟に俺の口を力尽くで塞ぐ。全力で抵抗するが、彼の腕力に押さえ込まれてうまく逃れることができない。


 その時——

 玄関のドアが勢いよく開く音がして、同時にバタバタと大きな足音が近づいてきた。


 バン!と部屋のドアが開き……

 険しい形相で、大きな男が飛び込んできた。

 俺の上の宮田が振り返って叫ぶ。

「おい、あんた美月さんの部下だろ! 余計な手出しすんじゃねぇよ!!」

「——その人から、離れなさい」

 野田は静かに宮田を睨み据えると、すっと構えた。


「離れないなら……引き剝がす以外ありません」


 尋常でない威圧感と共に、野田は宮田ににじり寄る。

「……っ、くそっ……!」

 宮田は悔しげに野田の言葉に従い、俺にかけていた手を離した。


 この騒ぎに駆けつけた美月は、その光景に言葉もなくドアの入り口で立ち竦んでいる。

 その美月を振り返り、野田は低い声で呻いた。

「美月さん……あなたは、犯罪者になるつもりですか」

「犯罪……そんな……」

「なんだよ! 3人の話し合いでこうなったんだから、何も悪くないだろ!」

「違います……俺は、脅迫されました。この部屋を出て行くか、この男に犯されるか選べ、と」

 俺はベッドから立ち上がり、ふらつきを堪えて呟く。


 俺の言葉を聞いた野田は苦しげに表情を歪めると、静かに言った。

「とにかく……ふたりとも、今すぐここから出て、車で待っていなさい」

 野田の低く通る声は、有無を言わさぬ力を持って響く。


 そして彼は、俺に向けて深く頭を下げた。

「——三崎さん、ですね?

 私は、二階堂商事の社員で美月さんの運転手をしております、野田と申します。

 今回は、大変ご迷惑をおかけしました。どうか、お許しください……

 あなたには、本当に申し訳ないことをしてしまいました。そして、神岡副社長にも……」


「いいえ……俺こそ、ありがとうございました。

 彼女が俺に怒りを感じても、仕方ありません。……それに、何か大ごとが起こった訳ではないですし……」


 野田は顔を上げると、真剣な眼で俺に訴える。

「もしも、可能ならば……今回の件は、どうか穏便に済ませてはいただけないでしょうか。

 彼女には、今後このような事が二度とないよう、強く戒めておきますので……」


 俺は、野田を見つめて答えた。

「今回のことを、騒ぎ立てたりする気はありません。

 だって……こうなったのは、俺のせいでもあるから。

 ただ——

 人を愛したり、幸せにしたりする、そんな方法を……誰か、彼女に教えてあげられたらいいと……」


「……え?」

「彼女、言ってたんです。——人を幸せにする方法など知らない、と」


「——そうですか……」

 野田は、寂しそうな眼をして俯く。


「彼女のご両親がどんな人で、彼女がどんな環境で育ったのか……俺には分かりません。

 けれど——あなたなら、そんなことを美月さんに教えてあげられるんじゃないですか?彼女のお父さんみたいに。

 ——なんだか、そんな気がします」

 この男に、俺は深く信頼できる何かを感じていた。


「——ありがとうございます。三崎さん」

 野田は、救われたように微かな微笑みを浮かべ、俺を見た。





✳︎





 宮田と美月の待つ車へ戻ると、野田は静かに呟いた。

「宮田さん、でしたね。——三崎さんから伝言です。

 今後は、二度とこのようなことのないようにと。

 ——今後、もしあなたが彼に害を加えた時には、私も彼のために動きます。ご了承ください。

 ……ただ、あの部屋にいる期限は、あなたと約束した通りにすると……彼は、そう言っていました」

「……ふん」

 宮田は悔しげに俯く。

「——期限?」

 野田の言葉を、美月は弱々しく聞き返す。

「そうですよ。彼は3月までであの部屋を出る、と僕に約束してますから。もう1月も半ばだし。どちらにしても、間もなく彼はいなくなるんだ——あなたの話はわかりましたよ、野田さん。じゃ、美月さんも」

 宮田は苦虫を嚙みつぶしたような顔でそう言い残すと、乱暴に車を降りていった。




 自宅へ向けて走る車内。

 夕暮れに点り出した街の光が、輝きながら後ろに流れていく。


 野田は、静かに美月に告げる。

「今回だけは——このことは、誰にも報告しません。

 今後は、決してこのような行動はとらないでください。次は、全てを社長に報告しますので」


 美月は黙ったまま窓の外を眺めている。

 その様子を、野田はミラー越しに窺う。


 ——泣いているのだろうか。


 外の景色を追いながら、美月は細い声でポツリと呟いた。


「彼は——

 あんなふうに、樹さんを幸せにしているのね」


 その呟きに、野田は答える。

「——素敵な方ですね、三崎さんは」


「……彼と樹さんは、お互いに大切な存在なんだって……はっきりと見せつけられたわ。私が入る隙なんて、どこにもないほどに。

 これまでずっと、私に夢中にならない男なんて、一人もいなかったのに……。

 ——こんなに悔しい気持ち、今までで初めてよ」

 彼女の瞳が、新たに潤む。


 忙しい合間を縫って三崎に会いに行く神岡。

 脅迫まがいのことをされてもなお、神岡の側にいようとする三崎。

 彼らは、お互いに想い合っている……どんな壁も、それを遮れないほどに。

 そういう関係なのだ。


 野田は、これまで思い至らなかったそのことに、ようやく辿り着いた気がした。


 そして、美月は——初めて自分の方を見ない男に出会い、自分の心の欠陥に気づいた……そういうことなのかもしれない。



 しばらく、沈黙が続いた。


「美月さん、この婚約は……」

「その話はしないで」

 言いかけた言葉を、美月に鋭く遮られた。

「今は、何も考えられない。

 でも……ちゃんと考えたい。

 親の意見でも、誰の意見でもなく——私は、どうしたいのか」


 美月は、思いつめた瞳で、頑なに窓の外を見つめ続ける。

 これほど深刻に何かと向き合う彼女の姿は、初めてだった。


 野田も、それ以降は口をつぐんだ。


 そのまま、車は夜の街を静かに走り続けた。


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