溶け合う

 俺は、混乱してまとまらない思考のまま、シャワーに打たれていた。


 初めて会った、神岡の婚約者。

 朗らかさや温かさを感じさせない、冷たい無表情。自己中心的で、人との関わり方を知らない言動。

 彼と結婚する女性の、人としての寂しさ——それが、俺の心を息苦しく圧迫する。


 神岡は——俺の前で思わず表面化した、彼女のあの本当の姿を、知っているのだろうか?


 でも……

 それがどうであっても——俺には、どうすることもできない。


 シャワーの飛沫が、宮田に歯を立てられた左胸の突起にピリピリとしみる。

 痛みだけではない苦い思いが、俺の頭の中を占領していた。


 身体の芯は、まだ抜けきらない緊張感で冷え、震えている。

 その身体を温め、なんとか活気づけたくて、俺はシャワーの栓をひねって湯の温度を少し上げた。


 シャワールームを出て着替え、髪の水分を拭き取ると、憂鬱な重苦しさは少しだけ遠のき、脳が動き出した。

 気づくと、もう夜7時を回っている。


 やばい。

 彼、もうすぐ来ちゃうぞ。

 買い出しも、何もできていない。


 それに、出かけるためにリュックに突っ込んだままのスマホも、全くチェックできていなかった。

 急いで取り出して確認する。


 ——神岡からのメッセージと不在着信が、繰り返し何件もついている。

 ああ、まずい……。


 さっきのことは、彼には絶対に話せないのに。

 どうやって取り繕ったらいいか……


 散らかった思考を持て余している最中に、インターホンが鳴る。


「——はい」


『……柊くん——!?』

 不安と動揺が入り混じり、切羽詰まったように息を切らした神岡の声が耳に響く。


「今、開けますので」

 何一つ準備ができていないまま急いで玄関へ向かい、ドアを開ける。


「あの……」


「————」


 飛び込んで来た神岡は、一瞬じっと俺を見つめ……何も言えずにいる俺を無言で抱き締めた。


 その腕の力の強さと、温かさ。甘い香り。

 言いようのない安堵感に、自分の中の固く冷えた緊張が溶けていく。


「——心配した。

 疲れた顔してる……柊くん」

 抱きしめた腕を緩めないまま、彼は耳元で呟く。


「すみません。ご心配をおかけして。

 でも、大丈夫です……いい加減25の男ですよ、俺」

 俺は、彼の胸から顔を離せないまま、小さく返す。


「——柊くん」

 彼の腕に、一層力がこもる。


「それが、今の君の気持ち?」


 その言葉に、抑え込んでいた自分の本心が溢れ出した。


「……来るの、遅いです」


「——ごめん」


 自分の腕が彼の背に回り、力一杯抱き返す。


 そうして——俺たちは玄関に立ち尽くした。





✳︎





「——済みません……」

 とりあえず二人でキッチンへ入ったものの、まともな準備は全くできていない。

 改めて、微妙な沈黙が流れる。


「ねえ。今あるもので、何か作ろうか?」

 神岡が、俺の顔を覗くようにして明るく言う。


「あ……俺急いで何か作るので、神岡さんは待っててください。準備できなかった俺がいけないんだし」

「そうだ。なら一緒に作ろうよ。ひとりでやるより能率がいいし、楽しいしね。

 ……そうだな。今ある材料なら、肉じゃがができそうだ。それから……大根の味噌汁と、スペイン風オムレツ。トマトのサラダ」

 メニューを聞いたとたん、思わず俺の腹がぐううっと音を立てた。

 赤面する俺を見て、神岡が楽しそうにクスクス笑う。

「お腹すいたんだね、柊くん」

「……そうみたいです……」

「よかった、食欲ありそうで。

 じゃ早速取り掛かろう。君には肉じゃがと味噌汁を任せるよ。僕は米を炊くのと、その他を作る」

「了解です。……よし」


 気合いを入れながらエプロンを締め、腕まくりをすると、さっきの打ち沈んだ気持ちがみるみる晴れていく。


 神岡は安心したようにちらりと俺を見ると、手際よく準備を始めた。


 ——こうやって、いつもこの人は、俺の心をしっかりと受け止めてくれる。


 料理をする手を動かしながら……俺はそんな気持ちに満たされていた。




✳︎




 夕食は、いつになく手早く仕上がった。

 神岡の手際の良さと料理の腕はやはり見事で、どれも本当に美味い。

「神岡さん、マジで美味いです……サラダも、オムレツも。最高です」

 空腹を思い出したようにがっつく俺を、彼は俺の向かいでビールを傾けつつ、幸せそうに眺める。

「君の肉じゃがこそ、何とも上品で絶妙な仕上がりだな。ちょっとした料亭で食べている気分だ。……うーん、なんかコツでもあるの?」

「いや、いつもそんな感じです」

「随分説明が大雑把だな。料理は緻密なのに」

 彼はそれが面白かったのか、クックッと楽しげに笑う。


 食事で腹が満たされ、酒も少し効いて、ふわりと心が和らいだ。

 食器やグラスを片づけながら、神岡は自然な笑顔で言う。

「……じゃ、僕はシャワー浴びてこようかな」

「はい。後は俺片づけときますから」



 片付けを進めながら、俺は考えていた。


 神岡は、何も言わないけれど……


 彼が聞きたいこと。

 それは、よくわかっている。


 このまま、何も言わなくて、済むのだろうか?

 だが……そうすれば、今日のことは後々神岡の心の中に残り続けるかもしれない。

 もしも、俺への疑いや不信感に変わっていくとしたら——


 それは、嫌だった。


 この話は……俺から切り出さなきゃいけない。


 ネクタイを外し、リビングの窓から街の夜景を見下ろしていた神岡に、声をかけた。


「……神岡さん」


「ん?」

 彼は、ゆっくり振り返ると、俺を見た。


「今日あったこと——

 何も話さなくても、いいですか?」


「それは——言えないことなの?」

 真剣な眼で、彼は俺に尋ねる。


 俺は、黙って頷く。


「……僕は、君の雇用主だ。君が快適に働ける環境を作るのは、僕の義務だ」

 表情を少し固くして、彼は呟く。


「それならば——

もし、引き続き俺を雇いたいと思ってくれるのなら——今日のことは、どうか聞かずにおいてください。お願いします」


 野田の真剣な眼差しを思い出す。

 誠実な彼の願いを、裏切ることはできない。

「……この仕事と、あなたに対する思いは、今までと全く変わりません。——俺を、信じてください」

 俺は、困惑の色を浮かべる神岡の瞳を見つめた。


 俺の表情にため息をつき、少し諦めたような声で、彼が訊く。

「なら……一つだけ、聞かせて欲しい。

 嘘はつかないでくれ。

 ——ここにいることは、君にとって苦痛ではない?」


「……この部屋で過ごす時間が、今の俺の一番の幸せです」


 ここにいられるなら——

 あなたの側ならば。

 どんなことが身に降りかかろうが、平気だ。


「——本当に?」

「本当です」


「……君は少しも僕に甘えないし、ちょいちょいかわいげがないけど……こういうところで、嘘はつかない。

 ——君のこと、少しはわかってきただろ?」

「……そうですね」

 彼のそんな明るく茶化すような言い方に、つられて微笑む。


「何か重たいものを、君に抱えさせてしまったのは——僕のせいだ。

 ……ごめん」

「俺、自分から選んでここにいるんです。そうでしょう?

 そんなふうには、もう考えないでください」


「ああ……そうだね。

 もう、考えるのは止そう。

 こうして、君が目の前にいるのに——」


 彼が、両手を伸ばす。

 その掌が俺の両頰を包み、引き寄せる。

 親指で、俺の唇をなぞり……静かに、唇が重ねられた。


「君に、もう会えなかったら……ずっと、そんなことばかり考えた。

 ——早く、こうしたくてたまらなかった」

「——」


 言葉の代わりに——彼のワイシャツの胸を、俺の指が無意識に掴み、引き寄せる。

 啄ばむように——そして次第に深くなるキスに、脳が勝手に溶け出そうとする。


「ここにいる時は……僕は、君のことだけを考える」


 彼はそう囁くと、その胸にしがみつく俺の身体を掬うように抱き上げた。

 ベッドに投げ出され、すぐに彼の重みが覆いかぶさる。


「——君が好きだ」

 すぐ耳元の彼の囁きが、脳の奥深くを震わせる。


「俺も……あなたが好きです」


 ひとつになりたいという思い。

 決して叶わなくても——そんな強烈な願望が、互いの身体を激しく求め、駆り立てる。


 身につけたものなど、全部取り払い——

 お互いの中へ深く埋もれてしまいたいという、例えようもなく甘い欲求。


 俺の背に、彼の体温と滑らかな肌の起伏が触れる。

 手の甲に彼の掌が重なり、指が絡み合う。

 うなじに、柔らかなキスが何度も落ちる。


「——この前は、ごめん……乱暴にして、君に辛い思いをさせた気がする」

 彼は俺の耳元で掠れたように囁く。


 「……あの時は……もう意識がめちゃくちゃに混乱して、よくわからなかった……」

「今日は、もっとずっと気持ちよくしてあげる」

 獲物にのしかかる動物のように、彼は首筋に熱い息を落とす。

「……エロいですね」

「今の言葉、そっくり君に返すよ。……僕をこんなふうにさせる君が悪い。

 ——上品な紳士の振りをしたほうがいい?」

「——いえ。いいです、そのままで」

「……なら」

 そんな艶めいた囁きとともに、熱く大きなものが押し当てられる。

 同時に俺の全身に迫る、大きな圧迫感と——強い痛み。


 そして——僅かずつ起こり始める彼の揺れで、痛みの奥に疼くような甘さが微かに起こる。


 この前は混乱して取り乱すばかりだった感覚が、今日はその甘さを貪欲に追い求めようとする。

 ——そこへ意識を向けた途端、身体の中の疼きが強烈に膨れ上がった。


 次第に大きくなる振動が、その疼きを躊躇なく刺激する。

 自分の身体が嗅ぎつけた——痛みの奥に渦巻く、溶けるような快感。


 ——それでは足りない。

 もっと……力ずくで、それを暴き出して欲しい。

 もっと深く。どうしようもなく甘いその奥を探し当て、力一杯突き立てて欲しい——。


「……ん……うっ……あ………あっ…………!!」

 次第に高揚していく俺の変化に、彼も気づいたのだろう。

 俺を抱く彼の腕に、一層力がこもる。

「……感じる……?」

「……っ……はぁ……っ……」

 言葉も出ない俺の熱い顎を、彼の指がぐっと捉え、激しく唇を合わせる。

 ——そして、彼の加える力は全開になった。


 限界を超えて溢れそうな快感の波に翻弄され、自分のあげている声すらもはや聞こえない。

 耳元に熱く暴れる呼吸。

 恐らく、彼に肩先を何度も噛まれている。そして、きっと俺はその度に、溶けるような悲鳴を上げている。

 その刺激は、俺の中の熱をますます膨らませるばかりだ。


 下に、そして上になり、肌と唇を求め合い……繰り返し訪れる絶頂。

 波の頂点に飲み込まれ、通り過ぎ——またすぐに次の波が訪れる。


 喘ぐ声も、痛みに上げる悲鳴も。

 突き上げ、解放される快感がもたらす恍惚も。

 汗を散らし、熱に浮かされたように我を忘れた表情も、呼吸も——


 どちらがどうという境界は遥かに越えて——全ての感覚が混じり合う。

 全てを共有したい。強烈に溶け合うその甘さを、一緒に味わいたい。

 ただひたすら、それだけの時間——。



  寝息に変わり始めた彼の肩に、静かに額を寄せる。


  俺は、このひとを愛している。

  ——そう思った。




 翌朝。

 身支度を終え、玄関を出ようとする神岡のスマホに、メッセージの着信音が鳴った。


 その画面を確認し、神岡は少し複雑な顔をする。

 玄関先まで彼を送ろうとした俺も、その表情の変化に気づいた。


「……どうしたんですか?」

「ん……いや、美月さんでね……

しばらく、会わない期間を持ちたいらしい……」


 俺は、彼の言葉に思わず反応しそうになる自分の表情を咄嗟に隠した。


「まあ……後で、電話してみるよ。

 じゃ柊くん、またね」

 彼は、いろいろな思いの入り混じったような顔で浅く微笑むと、玄関を出ていった。


 ——彼女は今、何を思っているのだろう。


 一人残った廊下で、俺はそんなことを考え続けた。



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