残り時間
「おっはよー。ねえ三崎くん、奢るから今日飲みにいかない?」
1月下旬。
GSのバイトに出ると、朝一で満面の笑みの村上くんに声をかけられた。
「ん? 朝からテンション高いね、村上くん。なんかいいことでもあった?」
「えへへっ。三崎くん、やっぱり勘がいいよね〜」
「だって、普段は奢るどころかめちゃくちゃ出したがらないからさ」
「仕方ないだろー、貧しい若者なんだから。まあでも、今日はそんなのは気にしないでさっ」
「そうだなー……仕方ないから、村上くんの幸せバナシに付き合ってやるか」
俺たちの話を聞き、沢木店長も寄ってきた。
「おはよう。なんか楽しそうな話だね?……そうだ、今日の二人の分は僕が奢るからさ、もしよければ僕も混ぜてくれないかな?」
「え、店長、いいんですか?」
「おーー、やった! 今の俺には幸運の女神がついてるぜ!!」
そんなわけで、その夜は結局3人で飲みに行くことになった。
仕事を終え、沢木さん行きつけの居酒屋へと向かう。
昨年末、俺が彼に神岡のことを相談した時にも連れて来てもらった店だ。
「じゃ、とりあえずお疲れさま!」
冷えたビールのジョッキを合わせる。冬でも仕事上がりのビールというのはやはり格別だ。
「沢木店長。ここ、なんかいいですね。俺、初めて来ました」
「だろ? 穴場な美味い店の情報はおじさんの方が良く知ってるさ。いろいろ話すにもちょうどいい雰囲気だしな。
……ところで村上くん。僕たちにどうしてもしたい話って?」
「えへへー、実はですね……とうとうできたんですっ! 最愛の彼女が!!」
彼は、我慢していた喜びをやっとぶちまけられたような笑顔でそう告白する。
「おお、そうか! おめでとう!」
「まじか? 彼女何年ぶり?」
「ん〜、もう3年以上ぶりかなあ〜……って、その辺は聞かないでよ三崎くん。
掛け持ちしてるコンビニのバイトで、同じ時間帯に入る子。少し前から気になってたんだけど……思い切って告白したら、なんとOKだったんっすよ!!
美人とか、そういうのじゃ全然ないけど……優しくって、笑顔が可愛くて、色白で手触りふわふわで」
その視線は、もうキラキラと空中を彷徨いっぱなしだ。顔の筋肉も完全に緩み切っている。
「……村上くん、口元。もう少し締めなきゃ」
沢木さんが苦笑いしながら注意する。
「あっすみません!」
村上くんと、その彼女が微笑み合う姿を想像してみた。
笑顔のかわいい、ふんわり優しそうな女の子。
そんな子が相手なら、彼は間違いなく幸せだろう。
寄り添う相手は、優しくて笑顔が明るければ、それだけでもう充分だ。
——最近、いろいろ尋常じゃない体験をしたせいだろうか。そんなことが身にしみる。
村上くんは、注意しても一向に戻らない口元で、頬を赤らめ小声になりつつ続ける。
「で……先週末、とうとう、……したんです、彼女と。
俺、彼女しかいない!って確信したんですよね、その時に。
……あったかくて、柔らかくて。包み込むように優しかった。俺、本当に大切に思ってもらえてる気がした。
最初は何の意識もしてなかった平凡な子が、こんなに愛おしい人になるなんて……なんか不思議だけど。
——そしてやっぱり男は、好きな女の子と身体を重ねる瞬間が何といっても最高に幸せだよなっ、三崎くん!」
「…………」
俺と沢木さんは、口元は笑いつつ微妙に沈黙した。
沢木さんは、俺のことを知っている。
——俺が、神岡を好きだということを。
昨年末、俺は沢木さんにそのことを打ち明けたのだ。
女の子と身体を重ねる……言われてみれば、そんなこともすっかり忘れていた。
好きな人と身体を重ねる。それは、間違いなく何よりも幸せな瞬間だ。
だが——俺について言えば。
俺は今、好きな人を抱く方ではない。
好きな人に抱かれる方だ。
身体も意識も、溶けるほどに。
全身に快感を施され、堪え難い喘ぎ声を相手に聞かせる側になろうとは……ついこの間まで、一瞬たりとも想像しなかったことだ。
そう考えると、なんとも複雑な気分ではあるが……
強烈に溶けるようなあの快感は、恐らく女の子を抱いても決して得られないもので……
そんなことを思ううちに、俄かに顔が熱くなる。
「……三崎くん? なんか顔真っ赤だよ、どしたの?」
村上くんの声にはっと慌てる。
「あ、いや……なんでもないよ」
「ん? もしかして、今の話でなんかいろいろ想像しちゃった? 三崎くん、ウブっぽくてかわいいなぁ」
何を想像していたか話したら、彼はきっとひっくり返るだろう。絶対に言わないけど。
沢木さんが、何となく助け舟を出してくれた。
「まあ、何はともあれ、よかったな村上くん。そんないい子に巡り会えて。
これでもうリア充爆ぜろ!とか叫ばなくて済むな」
「ありがとうございます!……三崎くん悪いね、なんだか先に非リア充卒業しちゃって」
「それは俺に対する嫌味にしか聞こえないよ? 村上くん」
「あっそれはごめん!
……でも、彼女とかできると、俺もしっかりしなくちゃ!とかって、急に思うよなあ……いつまでも呑気な顔していられない気がしてきた」
いつになく男臭い顔をして、村上くんはそんなことを呟きつつジョッキを呷った。
ひとしきり幸せそうに話をすると、村上くんは先に帰っていった。
「明日、彼女と会う予定とかもあって。すみません、お先失礼します。沢木さん、今日はごちそうさまでした。じゃ三崎くん、お疲れ!」
彼が帰ると、席は急に静かになった。村上くんがどれだけ一人で喋っていたかがよくわかる。
そんな空気の中、沢木さんがおもむろに俺に呟いた。
「——君の方は、どうだい? 三崎くん。
……でも、もし話したくなかったら、無理しなくていいよ」
俺は、目の前のハイボールの中の氷を見つめ、答える。
「沢木さん。
……多分俺、今、幸せです。
——というか、今まで生きてきた中で、きっと一番幸せです。
好きな人と思いが通じ合うって、こんなに深い意味を持っている……それを、今みたいに感じたことはなかった気がします」
「そうか……それは良かった」
沢木さんは、静かに微笑んだ。
——ここで誰かに宣言すれば、きっと自分の心もしっかりと固まる。
そんな思いで、俺は勇気を奮い立たせて彼に告げた。
「でも——あと2ヶ月で、終わりにしよう……そう思っています」
「……え?」
沢木さんは、驚いたような表情で俺を見た。
「以前にも沢木さんにお話ししましたが……彼には、然るべき婚約者がいます。
そして……彼にはかつて、心から愛した男性がいて……その人と別れた理由も知りました。
あの会社を引き継ぐ立場の自分は、自由に人を愛する訳にはいかない——彼は、そんな苦い思いを背負っていました。
それでも、俺も彼も、どうしようもなかった。ストップなんて、できなかった。
俺たちが結んだ関わりは、本当に一瞬だけのもの……お互いに、それを知ってて選んだんです。
だから——どれだけ幸せでも、いつまでも続けていいものじゃない。……これだけは、誰にも変えられない」
そう言いながら、俺は俯いた。
誰にも見せなかった自分の本心が、沢木さんの前では抑え難く流れ出す。
「本当は——ずっと、このまま変わらずにいたい。彼と。
言っても仕方のないことなのに。
…………済みません、なんだか情けなくて」
沢木さんは、俯いた俺の頭にぽんぽんと手を置く。
そして、父親が息子にするように、少しだけ俺の頭を引き寄せた。
暖かくて、大きな掌。
「……それは、辛いな。
だが——君は、真っ直ぐに物事を考えられる子だ。
君が一番いいと思う方法を選べばいい。君が真剣に選ぶ道ならば、きっと間違いない。僕はそう思う。
ただ、我慢はしすぎるなよ。本心をあまり抑え込むな。
時にはこうやって、ぶちまけたらいい。……僕にでも、彼にでもな」
「——ありがとうございます、沢木さん」
俺は、滲みそうになる涙を必死に堪える。
そして、気持ちを切り替えるように、敢えて明るい口調で彼に伝えた。
「俺、3月末で、GSのバイトも辞めようと思ってます。
ここにいては、俺も彼も、結局同じ場所へ戻ってしまうことは目に見えてますから。
ここを去ることも、行き先も、誰にも言わずに——自分だけで決めた場所へ行きたいんです。
だから、この話は、どうか沢木さんの中だけに伏せておいてください」
俺の決意を、何か痛みでも堪えるように聞いて……沢木さんは、少し寂しそうに笑った。
「——わかった。
君がそう決めているなら、僕は何も言わない。
君みたいな優秀な人材を失うのは、僕も辛いが……仕方ないな」
「……済みません」
「いや、君はいずれここから飛び立っていく子だと思ってたさ。——あと少しだが、よろしくな」
新たに湧いてきそうな涙を、なんとか笑って引っ込めた。
沢木さんの温かさが、身にしみて嬉しかった。
店を出て、沢木さんと別れた。
なぜか、気持ちがキュッと引き締まった気がした。
彼に、自分の情けない本心を晒し、暖かく受け止めてもらったせいだろうか。
微かに星の見える夜空を仰ぐ。
吐く息が外気に冷やされ、濃い煙になって上へと登る。
残りは、2か月。
俺が、今の幸せの中にいられるのは、もうそれだけだ。
でも——嘆いていても、いいことは何もない。
俺が神岡の側にいることは——不安定な立場を、彼に続けさせるだけなのだ。
それでは、彼が揺るぎない幸せを掴むことは、決してできない。
そして、そう決めなければ……俺もきっと、この状況を断ち切ることができない。
この時間で、俺がやるべきこと。
自分のために。そして、彼のために。
あまり時間がない。
——しっかり、見定めなきゃいけない。
そう考えながら、俺は冷えた夜の空気をいっぱいに吸い込んだ。
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