告白
柊を突然失ってから、樹は機械のように、ただ仕事に打ち込んだ。
朝も夜も、曜日も……何の感覚もなくなっていた。
——感じる必要がなかった。
その様子の変化に、樹の秘書である菱木さくらはすぐに気づいた。
「副社長……そのような細かな仕事は、私にお任せください。
あまり全てを抱えられては……お身体に障ります」
「いいんだ。やらせてくれ」
この数カ月の間に随分和らいだように見えた表情は、気づけば以前より一層硬い冷たさに覆われ……今は、誰の言葉も彼の心に届いてはいないように見えた。
蕾が少しずつ開くように微かに変わり始めた彼に、さくらもつられて微笑むことが増え……その度に、彼を支える何かが背後にあることを感じた。
その何かを愛おしむ空気が、確かにそこにあった。
その気配が、急に消えたのだ。
柔らかく灯った明かりが掻き消えたように。
もしかしたら——
失ってしまったのだろうか。
彼を包み、温めていた、大切な存在を。
何かから逃れるように仕事に没頭する背中に、かける言葉もなく——
さくらの胸は、酷く痛んだ。
樹の胸に何の感情も湧くことなく、春が深まった。
5月の半ば。
樹のスマホに、美月からのメッセージが届いた。
『樹さん、お久しぶりです。
ご都合の良い時に、お会いしたいと思っています。
連絡待ってます』
樹には、自分の身に起こる全てを流れに任せる以外、思い浮かぶことなどなかった。
副社長という立場も、婚約者がいる状況も……彼をがんじがらめに縛り付けたまま、頑として動かない。
いっそ誰かに、自分のことを全て決めて欲しい。
何がいいも、悪いも……
自分にはもう、何もない。
都合のつきそうな日時を美月に伝えると、樹はスマホをソファに放った。
*
——来週の土曜、樹さんに会う。
美月は、その日自分が樹に伝えたいことを、繰り返し心に刻んでいた。
その日は、大切なスタートの日にしたい。
私にとっても、彼にとっても。
しっかりして、私。
——私の言葉が、私と彼の人生を左右するのは、間違いないのだから。
窓から流れ込む風を深く吸い込みながら、美月はラベンダー色に暮れる夕空を見上げた。
*
約束の土曜日。
二人は一緒に夕食を取った後、美月のお気に入りのカクテルバーに来ていた。
こじんまりとした、静かなバーだ。
久しぶりに、樹の車で郊外をドライブし、半日を一緒に過ごした。
会わずにいた間に、その姿を何度も思い返した——その彼が、今日は目の前にいる。
静かに微笑んでグラスを傾ける樹の変わらぬ美しい横顔を、美月は見つめる。
——あなたに、会いたかった。
一人でいる間に、気づいた。
痛いほど思った。
あなたのことが、好きなんだと。
あなたに、本当の笑顔を向けて欲しい。
あなたが向けてくれる暖かさに、包まれたい。
あなたの冷たい微笑を見ながら——私はいつも心のどこかで、そう求めていた。
この気持ちを、ちゃんと伝えなければ——私は、この先に進めない。
「樹さん、ありがとう。今日はとても楽しかったわ」
「そうですね。僕も楽しかった」
美月の言葉に、樹は穏やかに答える。
以前と違って……今日のあなたの瞳は、私のことをちゃんと見ている。
こんな風に、優しく見つめ合えるのは——きっと、寂しいから。
あなたも、私も。
優しくて——
でも、その奥に暗い海のような色を沈めた、あなたの寂しい瞳。
私が今、この人のために、できること。
「——樹さん」
「何ですか?」
「——私と、結婚してください」
美月の突然の告白に、グラスを取ろうとした樹の動きが止まった。
「——私、全力であなたを幸せにする。
あなたが、感情のない笑顔を私に見せる度に、私も同じ笑顔を返しながら、今まで過ごしてきた。
私も、ずっとその笑顔で生きてきたから……そんなこと、以前は何でもなかったの。
けど……それは違った。
その場しのぎの仮面みたいな笑顔が、どんなに相手を孤独な気持ちにさせるか……
そのことに、今になってはっきり気づいた。
あなたと、本気で笑ったり、喧嘩したり、泣いたりしたい。
いつもあなたを満足させられるかは、わからないけど——
あなたに、心の底から微笑んでもらいたい。
——そのために生きることが、私の幸せだわ。
今は、はっきりと、そう感じる。
だから——私と結婚してください、樹さん」
樹の瞳に、一瞬……複雑な色がよぎった。
今日は、美月といて、純粋に楽しかった。
何も言わず、ただ自分の心に静かに寄り添ってくれる今日の美月の暖かさが、身にしみて嬉しかった。
樹の耳に——あの夜の、柊の言葉が蘇った。
『あなたのことを心から愛したいと願う女性——そして、あなたもその人を愛したいと思わずにはいられない、そんな女性が——きっといるはずです』
静かに……でも必死に思いを伝えようとした、彼の声。
こんな時にさえ、自分は彼に支えられている。
——彼の言葉を、信じる。
今の自分には、それしかできない。
ざわざわと激しく波立つような瞳の色が通り過ぎ——
樹は、優しく微笑んだ。
「嬉しいです。
美月さん。——僕こそ、よろしくお願いします」
「……樹さん。
あなたって——酷い人ね」
美月は、さっきまでの真摯な表情を消し去り、静かにそう呟いた。
「——え?」
「私は、心の中の気持ちを全部かき集めて、あなたに届けたのに——
あなたは、こんな大事な時にさえ、本心を見せてくれずに……これからも、そうやって一生私を騙し続けるつもりなの?」
「美月さん、一体……」
「今のあなたの瞳——はっきり、こう言っていたわ。
『僕には、心から愛する人がいる。
自分の中にはもう、その人しかいない。
けれど、こうするより仕方ない』——と。
どうして、本当のことを話してくれないの?
そんな気持ちで私と結婚して——幸せになれると思う?……あなたも、私も」
「——美月さん——それは……」
「どうして、彼を手放したの?
そんなにも想い合っている彼を——なぜ?」
樹は一瞬ぎくりと固まり——そして、ゆっくりと美月を見据えた。
「…………どうして、それを……」
「彼の——三崎さんの部屋へ、行ったのよ。……1月だったわ。
あなたの様子が、それまでとどこか違うから……あなたのことを調べさせて、彼の存在を突き止めた。
3月までであの部屋を去るって……その時に、彼からそう聞いたの。
だから今日、ここへ来たのよ。
——彼と離れて、あなたはこれからどうするのか、知りたくて」
理解が追いつかない表情で、樹は呆然と呟く。
「済みません……今まで、何も話さなくて」
「もういいわ。
私もつくづく馬鹿なことをしたし……おあいこよ」
美月は、長い髪をかき上げ、俯き気味にそう呟く。
「——わからないの。あなたの考えてることが。
どんな事情かは知らないけど……私に隠して可愛がった彼のことまで、こうして手放して……
あなたの本当に大切なものは、一体何?」
「美月さん——それは、違います……
放り出されたのは、僕の方だ……。
自分自身さえしっかり支えられない僕は……彼にも、見限られたんです。
突然、何も言わずにいなくなった——行き先も、何も。
これまで使っていた携帯も、気づいた時には解約されていた。
あなたの言うことが本当なら……
彼は——3月であの部屋を出ると、以前から決めていた……つまり、そういうことか?」
「樹さん……そのこと、知らなかったの?」
美月は、その事実に目を見開く。
「あの時……確か。
あの美容室の……宮田さん……と、そう約束したって」
「宮田くんと……?」
「宮田さんも、三崎さんに随分執着してたみたい……何か、二人の様子、険悪だった」
「……そういえば——
彼の様子がおかしいことは、何度かあった。
ひどく動揺してて……何かあったんじゃないかと心配したことが、時々あった。
けど……彼は、何も話してくれなかった」
「心配をかけたくなかったんじゃないのかしら……忙しいあなたに。
私が突然押しかけたことも、全部あなたに話してしまっても良かったのに……彼は、それもしなかった。
こんな風にいなくなったのだって——あなたを見限ったんじゃない。
あなたの結婚を邪魔しないために決まってるわ。
自分の想いに区切りをつけたくて……そして、あなたがもう自分を探さないように……全部断ち切った。
あんな変な子、どこにもいない。
あなたが彼を深く愛するのは、当たり前だわ」
「…………」
一層深い痛みに打ち拉がれる樹の様子に、美月は新たなため息を漏らした。
「彼の行き先がわからないなら——探したらいいじゃない。見つかるまで」
美月は、言葉に強い力を込めて樹に問いかける。
「なぜあなたは、彼を諦めることしか考えないの?
彼を失わずに済む方法は……本当に、何もないの?」
考えもしなかった言葉を初めて聞いたように顔を上げ、樹は美月の瞳を見つめた。
「……彼を、失わずに済む方法……?」
「そうよ。
あなたは、この先を彼と一緒に歩いていきたいんでしょう?……違うの?」
そうだ。
自分の望みは、ただそれだけだ——。
「……しかし——
それに、あなたは……?」
「……これは、あなたへのプレゼント。
——私との婚約を、解消して欲しいの」
「…………」
「ほら……探しに行ったら?
あなたには、彼が必要なのよ。わかるでしょ?——それくらい、自分でちゃんと気づきなさいよ。
——惨めになるから、謝ったりしないで。
早く行って。……私は、自分で帰れるわ。
それほど彼が必要なら……迷うのをやめて。
諦めるんじゃなくて、彼を幸せにする方法を考えて。
そして……必ず、彼を見つけてあげて」
二人の間に、沈黙が流れた。
樹は、眉間を強く寄せ、暫くじっと何かを考えたが——
やがて、その瞳に強い力が籠った。
「美月さん——ありがとう」
樹は、決意を固めたように立ち上がった。
そして、心から湧き出すような笑顔を美月に零すと、足早に店を出て行った。
ほんとに、残酷な人。
別れ際にだけ、あんな顔を見せるなんて……
「あ〜あ」
一人になったカウンターで、美月は椅子の背にもたれて天井を仰ぐと、ふっと微笑んだ。
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