行きたい場所

「お邪魔しま……って、柊くん、その格好どうしたの!?」


 2月初めの、水曜の夜。

 俺の部屋の玄関を開けるなり、神岡は目を丸くした。

「どうですか……?」

 俺は、少し恥ずかしくてちょっと俯きつつそう訊く。


 いや、別に裸にエプロンとか……そういうのではない。

 その日、俺はリクルートスーツ一式を買った。深いネイビーのシンプルな形のスーツに、真っ白いワイシャツ。就活生のごく一般的なスタイルだ。

 ネクタイの結び方を神岡に教えて欲しくて、ついでにスーツの着こなしもチェックしてもらおうと思い、試着したままドアを開けたのだ。


「それって……柊くん、就職活動?」

「いえ、あの……そのことなんですが……食事の時に、改めて話してもいいですか?」

「そっか。了解。

 うん。すごくよく似合ってるよ。

 若い子は、そういう初々しいスーツがやっぱり一番だね。……とても新鮮だ」

 神岡は、少し目を細めるようにしながらそんなことをいう。

 ——少し照れてるのか?

 なんか俺もつられて照れる。

「ん、そういえば、ネクタイは?」

「実は、自分でやっても今ひとつうまく結べなくて。——あとで教えてもらえますか?」

「ああ、もちろん。——なら、それは食事の後にしようか。もう空腹で限界だ」

「ありがとうございます! 今日はもうほぼ料理も済んでますから、すぐに食べられますよ」

「じゃ、この後の夕食準備は僕がするから、君はそのままスーツ着ててよ。僕も君のその凛々しい姿をじっくり楽しめるのは嬉しい」

「え……なんかちょっと照れるけど——じゃ、汚さないように食べなきゃな」

「社会人になれば、その格好で食事も飲み会もこなさなきゃいけないからな。いい練習になる」

 彼は、そんなことを言って楽しげに微笑んだ。


 本日のメニューは、野菜たっぷりの煮込みハンバーグ、筑前煮、プチトマトのスープ、大根の柚子風味サラダ……である。煮込みハンバーグは、焼き過ぎで堅くなる心配なくふっくら仕上がる失敗知らずのレシピだ。

 ——ただ、ワイシャツなどにソースをうっかりつけられない、油断大敵なメニューでもある。


 料理をダイニングテーブルへ運びながら、神岡が言う。

「明日、休みを取ってるんだ。

 一緒にどこかへ出かけようか。……終日予定は何もないから」


「え……」

 俺は、思わず彼の顔を見た。


 そんな風に、一日中一緒に過ごしたことは、今までなかった。

 それは、恐らく——神岡はいつも、休日には美月さんと過ごす予定を必ず入れていたからだ。

 その予定が何もない、というのは……


「あの……美月さんは……?」

 最低限の言葉で、俺は彼に尋ねる。


 本当は——俺は今日、彼に何か問いただされるのではないかと思っていた。

 または、この関係を終わらせたい、と、彼が口にするのではないかと。


 美月が、先日ここであったことや、俺のことを何か神岡に話し……こういう関係でいることを激しく非難するのではないか。

 そんな不安がずっと心にあった。


「うん……美月さんに、何度も聞いたんだ……。

 けど、しばらく会わない時間を持ちたい、という話と……勝手でごめんなさい、と繰り返すばかりでね。

 ——言わないものを無理に聞き出そうとしたって、仕方ないだろ?」

 彼は、少し困ったような顔で微笑み、そう答える。


 この前のことも、俺のことも——彼女は、神岡に何も話していないのだ。


「……そうですか……」


「だからその分、今までよりも長く君といられる。——こうしてできた時間を、無駄にする気はないよ」


 彼はそう言い、美しく微笑む。

 ——複雑な思いを、隠すように。


 明日は、彼と一緒にいられる。

 ——彼女をひとり残して。


 返す言葉を探せないまま、俺も少しだけ微笑んだ。





✳︎





 俺の予想通り、神岡はテーブルの筑前煮をキラキラする瞳で口に運ぶ。

「んん〜〜〜、美味い。……柊くん天才だろ!?」

「お口に合ってよかったです。そんなに喜んでもらえると、照れます」

「最近ちょっと太ったんじゃないかと気になるくらいだ。今日は辛口の赤ワインを選んでみたが、この煮物のコクにちょうどいい」

 確かに、そんなにがっつり食べると太るぞ!?という彼へのツッコミを、これまでも何度も押し殺している。食べ盛りの少年のような幸せそうな顔に、ちょっと吹き出しそうになった。


「それで——さっき言ってた件だけど……僕に話って?」

 俺は、箸をテーブルに置き、改めて神岡を見る。

「神岡さんに、一つお願いがあるんですが……

 もし可能なら、神岡工務店の社内見学をさせてもらえないでしょうか?」

「ん……うちの会社を?」

「はい。……大学で自分の学んだ知識が、どんな風に実際に活かされるのか、すごく見てみたいんです」

「そうか。なるほど……それは僕も何だか嬉しいな。もちろん大歓迎だ。

 就活生も、これから動き出す時期だしな。OB訪問なんかもだんだん増えてくる。

 ……もしも、君みたいな優秀な子がウチに来てくれたら、どんなに——」


 そう言いかけて、彼は口をつぐんだ。

 俺も、視線を少し落とした。


 俺を神岡工務店に入れる、ということは——副社長の愛人を会社に採用するのと同じことだ。

 そんなことは、できるわけがない。

 よくわかっている。……神岡も、俺も。


「……なら、君の都合のいい日時を早めに教えて欲しい。それに合わせて、僕もスケジュールを調整するから」

「——ありがとうございます。よろしくお願いします」

 お互い、胸にある思いを飲み込み、会話を繋ぐ。


 だんだんと、明かせない思いが増えてくる。

 いつまでも、このままではいられない。そんな思いが、少しずつ息苦しさを増していくように。


 それでも——だからこそ、今こうしていられる時間は、よそ見などする暇はない。

 目の前のことしか、考えたくない。

 俺も、彼も——その思いは、同じだ。


 ワイシャツの袖をまくり、エプロンをかけて、何とかどこも汚さずに食後の片付けを終えた。

 着慣れないせいなのか、ワイシャツって結構肩がこる。この格好で手際良く料理をこなす神岡のすごさが、改めてよくわかる。


 エプロンを外した俺を、神岡が呼ぶ。

「さ、柊くん。ここにおいで。……ネクタイは、僕のでいいよね?」

 リビングのソファで長い脚を組み、自分のネクタイをするりと抜くと、彼は美しく微笑んだ。


 うあ……やばい……。

 その仕草が異常に美しく、かつエロい。

 あのネクタイで捕らえられる獲物になった気分が、一瞬背中を走る。

「ここ」

 指定されたのは、彼の膝の間だ。

「……え」

「向かい側からじゃ、教えにくい。僕が後ろから手を回すから」

 彼は、ごく淡々とそんなことを言う。

 ——そういうポジショニングが普通なのか??

 とりあえず、俺は教わる立場だ。言われた通り、恐る恐る指定の位置へ座った。

 俺の背を、彼がすっぽりと包む。


「襟の下にまず通して……左右のバランスを見てから。こう……指に巻くように」

 美しい指が、俺の胸元で滑らかにネクタイを結ぶ。

 すぐ耳元で響く艶のある声と、甘い香りと共に背後から抱き込まれる感覚に、ぐらぐらと脳を揺さぶられる。

「……じゃ、今の通りに、もう一度やってみて」

 集中するどころじゃない意識をなんとか呼び戻し、必死に指示の通りに指を動かす。

「……こうですか?」

「そうそう、上手い。形もちゃんと結べてる」

 彼に教わると、結び目もあっという間に形良く、手慣れた形に結ばれるようになった。

 精神を統一しつつ数度繰り返し、俺はそのスキルを完全にインプットした。


「——うん、これならもう完璧だ」

「ありがとうございます。

 じゃ、俺着替えてきます」

 レッスン終了と同時に、俺はそそくさと彼の腕から出ようとした。


「……待った」

「は?」

 彼は背後から両腕を回し、俺の肩をぐっと抱くと、耳元で囁く。

「そこは着替えちゃダメなとこだろ、柊くん」

「え……だって、スーツがシワに……」

「……随分KYだね。そういう色気のないこと、今言う?」


「……何がしたいんですか」

「ネクタイから脱がせたい」


「……何度も言うようですが、エロいですね」

「何度も言うが、僕をこういう気持ちにさせるのは君だ。僕は、男としてごく自然な反応をしてるだけだ。

 いつも気が強くて擦り寄ってこないくせに、たまらない匂いを撒き散らして。君はもう、それだけで卑怯だ。

 そんな君が、これから僕の腕で溶けようという時に——淡々としていられるか?」


 ……なんか今、とんでもなくぞわぞわすることを聞いたような。

 俺は発情期のメスか何かなのか?

 頼むから、そういうエロいことを客観的に述べないでほしい。恥ずかしくて死にそう。


 ——などと思いつつ、何一つ拒否できないアホな俺である。


 彼は俺の前にひざまずくと、美しい指で胸元のネクタイの結び目をゆっくりと解く。

「プレゼントのリボンを解くみたいだ」

「だから……もう……恥ずかしいって……」

「いいよ。もっと恥ずかしがって」


 この人、実はちょっとSだ。前からなんとなく思ってたが。

 そういうのに堪らなくくすぐられる俺は……

 もしや、プチMなのだろうか……?

 そんなよくわからない羞恥心が、心拍数を否応なく押し上げる。


「白くて、綺麗な肌……いい匂い」

 ワイシャツのボタンを一つずつ外して襟を開き、俺を閉じ込めるようにソファの背に肘をつくと、彼は首筋に鼻を寄せる。

 熱い息の刺激に肌が思わず震える。自分で自分の反応を制御することができない。

 もう……溶け出しそうだ。

「君の肌は、敏感だね。かわいい……自分でも気づかなかったろ?」

 そんなの気づくはずがない。

 感じやすいあちこちをこうして優しく刺激されることなど、これまでなかったのだから。

 そして……そういう耳元の囁きに、ものすごく興奮している自分がいる。


 首筋を離れた彼の唇が、俺の唇に柔らかく重なる。

 ゆっくりと啄ばむようなキスの後に——間近で視線を合わせ、彼は溶けるように低く囁く。

「君は甘えるのが下手くそなのに……君の唇は、随分甘え上手だ」

「————」

 思わず、頰がカッと熱くなる。


 やばい。

 これでは……やばい。

 言葉に、こんなに興奮するなんて……

 自分の知らないキャラが、また一つ顔を出しそうだ——


 やたらに赤面した俺をすいと抱えると、彼は軽々とベッドまで運ぶ。

 組み伏せられ、微妙にパニクっている俺をよそに、外されるボタンが次第に下へと降りる。

「セーターを捲り上げるよりも——ずっと綺麗だ」

 そんな囁きと同時に、開かれた胸の突起に彼の唇が微かに触れた。

「…………ん……っ!!」

 その囁きと繊細な刺激に、身体がビクッと跳ね上がる。抑えきれない声が、隠しようもなく漏れ出てしまう。

 激しい羞恥心に顔を被おうとする腕を掴まれ、ぐっとどかされた。

「……感じ方、すごいね。……頰も真っ赤だ。

 もしかして、君って言葉にも敏感?……その溶けそうなエロかわいい顔を、撮って見せてあげようか」

「……や……」

 両手首を押さえつけられ、どうしようもなく熱くなった顔を背ける以外にできない。

「……ああ、ダメだ、柊くん……たまらない」

 俺の反応は、どうやら彼を一層煽ったらしい。ワイシャツの肩をぐいっと引き下ろされ、むき出しになったその肌に柔らかく歯を立てられた。

「…………っ……!」

 思わず首が仰け反る。その首筋へも、甘噛みが追ってくる。

「——少し痛いの、好きだよね」

 そんな艶めいた囁きが、追い打ちをかけるように鼓膜を震わす。

 ベルトを外され、入ってきた指に確認され……優しく掴まれた。

「……柊くん……もうこんなに、僕を欲しがってくれるの?

 ああ、もう本当に——」

「…………」


 何も言い返せない。

 逸る身体を諌めることもできない。

 そんな羞恥心も——やがて、激しい快感に洗い流されてしまうのだ。


 俺は、この人に食われている。

 心も身体も、完全に。


 そして……こうやって、身体の奥まで散々に食い荒らされなければ、俺も気が済まない。


 ——お互いに尽き果てた満足を得るまでは、どうせお互いの身体を離すことなどできないのだから。





✳︎





 翌朝。

 部屋は、昇る朝日にやっと明るくなり始めた。


 瞼を開けると——俺のすぐ間近で、神岡は俺をじっと見つめていた。


 俺が目覚めたことに少し驚いたように、彼は淡く微笑んで呟く。

「おはよう、柊くん」


「——おはようございます……」

 意識がはっきりするにつれ、昨夜のややS気味に意地の悪い彼を思い出し……ちょっとむくれてそう返した。


「…………」

 すると、彼も何だか素っ気なくふいとそっぽを向く。


「……神岡さん?」

 むくれた俺が、気に入らなかったのだろうか。その様子が急に不安になり、思わず聞いた。


「——なんでもない」

「なんでもなくないでしょう?」

 顔を覗き込むようにして、彼の視界に無理やり入る。


 目が合った瞬間——彼はとんでもなく赤面した。


「……は?」


「いや……昨夜の柊くん……ちょっとエロかわいすぎて……

 いろんなシーンを思い出しちゃうから、直視できない」

 恥ずかしそうに、彼はそんなこともモゴモゴと呟く。


 堪えきれず、俺はプッと吹き出した。

「何?」

「いえ……朝は随分違う顔になるんですね、神岡さん」

「——そう言う君もな」

 同時に、ちょっと笑い合う。


「今日は、どこへ行きたい?——君の好きなところへ行こう」

 彼は俺の頭を自分の胸元へ優しく引き寄せ、そう囁く。


 ……不意に、目が勝手にじわっと潤んだ。


 ——どうして、こんな何気ない一言が……こんなにも温かく、かなしく響くのだろう。


 すぐに答えてしまったら、この時間がすぐに終わってしまう気がして……

 まだ眠いふりをして答える。


「——もう少し、考えてもいいですか」


「いいよ。……まだ眠ってもいい」


 本当は、行きたい場所は、もう決まっていた。


 その思いを胸に戻して——俺は、もう一度彼の胸元に額を寄せた。




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