新生活
新居へ引っ越して、一週間が経った。
居心地ははっきりいって最高にいい。変にでかすぎたり、豪華できらびやかでないところが心和む。神岡のセンスの良さがその辺にも感じられる。
とりあえず、こんなふうに「大事に」されているからには、彼との契約は完璧にこなそうと意気込んでいる訳だが……
神岡も相当に忙しい人間のようだ。大企業の副社長なのだから、当然といえば当然だ。
彼からはまだ特に何の連絡もなく、目下この快適な新居で自由気ままに過ごしている。
このままなんにもしなくても、経済的には何の不安もない。
だからといって、完全に神岡のペットと化す気もない。そんなんじゃ、ほんとに囲われたみたいで気持ち悪い。
そんなわけで、GSのバイトは継続することにしたのだ。
冬の初めの金曜の朝。吐く息が少し白くなる。
「おはようございまーす」
「おはよー三崎君。神岡さんのアシスタントは順調かな?」
店に入ってマフラーを取る俺に、いつもの明るさで沢木店長が声をかけてくれる。
神岡との契約について、店長には「神岡の仕事のアシスタント」と話した。あんな怪しい契約内容を正直に話せる訳がない。
「まあ……いまのところ、暇ですけどね」
「暇でお金がもらえるバイトなんてずいぶんオイシイね? 彼はさぞ冷たくて厳しい上司なんじゃないかと心配したけど」
「いえいえ、そんなことは全然」
「キミが辞めずにいてくれて助かったよ。こんなに仕事ができるバイトくん、手放したくないからね〜」
「でも、三崎君、最近ちょっと雰囲気変わったよね? 髪もいきなり綺麗に手入れされてるし……メガネ外せばもっとイケてるのに」
バイトの村上君も、ちょっと不思議そうにそんなことを言う。
GSでのバイトの際は、以前から着ていた安い服に愛用のダサいメガネをかけてきている。髪も極力ボサボサにして前のイメージを保っているつもりだ。急に見かけが変わって怪しまれるのも面倒だからだ。
「髪くらいちゃんとしようかと思っただけだよ。さ〜仕事しよ!」
やっぱり仕事はいい。自分がちゃんと自分でいられる気がする。
昼休み、コンビニの弁当を開けようとすると、スマホの通知音が鳴った。
『今夜君の部屋に行くから、夕飯は食べずに待っていてほしい』
おおお!! 来たぞ初めての仕事の依頼が!
んん……しかし……。
どういう意味だ?
夕食は食べずに……でも、用意しておけ、という意味か?
別に料理は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。一通りのメニューは作れる。……が。
……副社長なんだからもうちょっと解りやすい指示を出してほしい。
と。
『食材は僕が揃えて行く』
追加のメッセージだ。
うん。ならわかった。とりあえず料理はしないで待機すればいい訳だ。
『了解です』
一言返す。
……なんか寂しいだろうか。
たまに使う、猫がOKと言っているスタンプを追加してみた。
『これかわいいな!』
即座に返信が来た。
どうやら喜んでもらえたようだ。初任務は上出来だ。
GSのバイトは18時に上がる。
新居までの距離は自転車で15分ほどだ。
部屋に戻り、着ていた服を洗濯機に入れ、洗い始める。シャワーを浴びて例の上等な服に着替える。今日は……黒のハイネックの柔らかなセーターとシンプルな細身のジーンズ……にしてみるか。髪もしっかり整え直す。ガソリン臭くちゃ観賞用ペットとして問題だ。
よし、完成。なかなかいいぞ。
夕飯か……うーん。米くらい炊いた方がいいのか?
とりあえず風呂は準備すべきじゃないか?
コーヒーはまず必須だろう。味には割と自信がある。
そんなことを考えつつ、自分で持参したワインカラーのカフェエプロンをかけた。
そこへ呼び鈴が鳴った。
準備の時間がいささか不足したが、まあ仕方ない。
玄関を開ける。任務開始だ。
「お疲れさまです」
びしっとしたスーツに買い物のレジ袋を下げた、近寄り難い美貌の男が立っている。
「お邪魔します」
仕事モードの神岡の顔がふわりと崩れた。まるで友達の家に遊びに来た小学生のようだ。
思わず笑ってしまった。
「食材は買っていただけると連絡がありましたが……これから作りますので。今日のメニューはどうしますか?」
「ん? いや、今日は僕が作るつもりで来たんだ。それまで適当に待っててくれる?——そのエプロン、君によく似合うな」
楽しそうに、神岡がそう言う。
……ん?
夕食も、待ってればいいのか?
それは嬉しいけど……俺の仕事ないじゃん?
「あの……」
「一度誰かに作ってみたかったんだ。でも、そういう場所がどこにもなくてさ。——君には、後片付けを頼むよ」
彼は子どもみたいに素直な笑顔で微笑んだ。
——そういうことか。
このひと、そういえば、自分のやりたいことを今まで何もやれなかった……って言ってたっけ。
つまり、美味そうに食べるのが今夜の俺の仕事らしい。
じゃ、ワクワクして待つことにしよう。
そうだ、じゃ俺はその間に風呂の準備と。
こういう生活、ほんと初めてだ。でもまあ、いいんじゃないか。
浴槽を洗ってお湯張りボタンをセットし、リビングに戻るともうすごくいい匂いがしている。
んん……やった! 肉じゃん♡ 最高にいい音と匂い。絶対上等なヤツだこれ!!
腹が正直にぐうう〜〜と鳴る。
キッチンを覗くと、スーツの上着を脱いだワイシャツ姿にきりりと黒のエプロンをかけ、楽しそうに神岡が料理している。
「お腹空いたかい? もう少しだよ」
俺に気づき、彼はそう言って微笑む。
う〜〜〜ん……女子が見たら、絶対「ぎゃー! 萌え死ぬ!!!!」って卒倒するヤツじゃないか?
神岡副社長のこの姿、そう誰もが拝めるもんじゃなかろう。ちょっとした優越感だ。
「何か手伝います」
「そう? じゃ、ダイニングテーブルに、適当に食器なんか出してもらおうかな……あ、それと、今日はちょっと美味いワイン買ってみたから、ワイングラスがいいな。……あ、お酒は飲めるよね?」
「ええ、とりあえず何でも好きです。あんまり強くはないですが」
「じゃよかった」
セレブなご主人のペット……結構いい。いや、すごくいい。
リビングを片付けようとしてふと見ると、スーツの上着が無造作にソファに放られている。
あー、シワになっちゃうじゃん。
クローゼットからハンガーを取り出し、壁際にかけておく。
ワイングラス……肉だから、多分赤ワインだろう。口の大きくて腰の張ったグラスがいい。
箸か? フォーク&ナイフか?……とりあえず両方。
「柊くん、料理を盛りつける大皿をいくつか取ってくれる? 君の好きなのでいいよ」
キッチンから神岡がそう呼ぶ。
皿もいろいろあって迷うなー……ステーキだけど、ガッツリ洋風じゃつまらない。和な陶器にしてみるか。
神岡が見事な手際で作ったのは、芳ばしい香りの和風ソースの添えられたステーキとシーザーサラダ、鯛のカルパッチョとシンプルなベジタブルスープ。……どれもすげー美味そう。ほんとにスペック高すぎだこのひと。
「これはミスジっていう、肩甲骨の内側の最高にレアで美味い部分だ。もちろん男子はライスだよね? 僕はまずワイン楽しんでからにするけど……いいかな?」
「はい、それはもう」
「正直だね柊くんは」
どうやら幸せが顔に出てるようだ。神岡は可笑しそうに笑う。
「さすが建築学科卒だね。美的感覚がしっかりしてる。選ぶ皿で料理も美味そうに見えるものだよね。
——じゃ、乾杯」
「ん、美味しいですね、このワイン」
「ボルドー産の人気の赤ワインだよ。ちょっと濃いめかもしれないけどね」
どれも最高に美味い。空腹も手伝い、しばしひたすら食べることに集中してしまった。
はっと気づくと、神岡が頬杖をつきながら、幸せそうに俺のがっつく様子を見ている。
「美味しいかい、柊くん?」
「あ……はい、とても……
済みません、ろくに口も聞かずがっついちゃって」
「いいんだ。そうやって美味そうに食べる顔が見たいんだから」
そう言って、彼は微笑む。
んー……なんだろうこの感じ。
すごく甘やかされてる、この感じ。
何だか混乱する……。
……いや、忘れるな。とにかく俺はペットだ。彼の愛する犬ネコになりきれ!!
ド変人の雇い主に雇われると、今後もしょっちゅう混乱させられそうだが……。
空腹に勢いよく強めのワインを飲んだせいか、次第に気分がふわふわとしてくる。
俺の正面で何気なくグラスを傾ける神岡の姿が、あまりにも自然で美しい。
「——あの、神岡さん」
「ん?」
「料理、上手なんですね」
「料理はね、昔の恋人に教わったんだ——大学時代のね。やってみたら楽しくてさ。その人の影響で、すっかり料理が趣味になった」
「素敵な彼女だったんですね……」
「ん……彼女じゃなく、彼だけどね」
「……へ?」
いきなり、随分ディープなとこに突っ込んでしまったようだった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます