繋ぐもの

「おはようございます、店長……」

「おはよ……あれ? 三崎くん、今日はシフト入ってないはず……って、なんか目の下すごいクマできてるよ!?」

 翌日、土曜の朝。

 沢木店長は驚いたように俺の顔を覗き込んだ。


 結局、昨夜は一晩中ろくに眠れなかった。

 ダストボックスのテディベアもストレスだが、今はもっとずっと重大なことが俺の中で発生している。あのクマはしばらくあそこに放っておいても、宮田からそれに関して何か言ってこられるはずもないだろう。


 どうにもたまらず、俺は、バイト先のGSへ逃げ込んでいた。

 仕事はなかった。だが、何もせずに部屋で過ごしていると、頭がパニックになりそうだった。


 昨夜、神岡と交わしたキスが——頭の中を占領し尽くしていた。


 俺は——彼に惹かれている。

 どうしようもなく。


 自分自身の思いが、否定のしようもなくはっきりと目の前に突きつけられた。


 あの後——俺と彼は、ほとんど言葉を交わさなかった。

 俺が自分の部屋へ戻り、寝付いた頃を見計らって、彼は静かに帰っていった。

 実際には、俺はほとんど眠れていなかったのだが。


 全く整理のつかない混乱した思いを、どうにかしたくて……気づけば、沢木店長の明るい笑顔が心に浮かんでいた。


「何かさせてください……お金とかはいいんで」

「あのさ、三崎くん……なんかあったの?

 もしかして、例の掛け持ちしてるバイトで上司とトラブル、とか?」

 何気なく図星をついてくるその言葉に、俺の肩が情けなくピクっと反応する。

「——」

「あー、まあいいや細かいことは。年末年始はとにかく混むし、来てくれて助かるよ。仕事入ってくれた分はちゃんとお給料に入れるからさ」

 沢木店長はそんな風に明るく言うと、快活にワハハと笑った。


「そうだ。もし都合良ければ、仕事上がったらちょっと飲みにでも行くか? 少し待たせちゃうけどな。

 ウチは娘ばっかだからさ、君みたいな息子と一度飲んでみたかったんだよ〜」

 この人の大らかな温かさに、俺はいつも救われる。



 仕事を終えた沢木さんが連れていってくれたのは、彼の行きつけの居酒屋だった。小さな店だが、焼き鳥が美味いと隠れた人気店らしい。

「三崎くん、思ったより勢いよく飲むねえ? ちょっとハイペースで心配なくらいだ。ほら、一緒に焼き鳥でも食わなきゃ、一気に酔いが回るぞ」

 普段はこんな風には飲まない。

 自分ひとりでは多分耐えきれないこの混乱を、酒の力でも借りなければとても切り出せない気がした。

 そんな苦しい思いも、アルコールのおかげでなんとなく腹が据わってくる。ありがたいものだ。

 沢木さんも、敢えて何を聞き出そうともしない。俺の脳内を察するように、つくねをかじりながら時々ジョッキを静かに呷る。


「沢木さん……

 あの……ここだけの話にしてもらえますか?」

 意を決して、俺はぼつぼつ話し出す。

「もちろんだ」


「あの——俺。

 掛け持ちのバイト先の上司に、どうやら惚れちゃったみたいで……」

 俺は情けないほどの不明瞭な声でボソボソと呟く。


「お、そうか! それは良かったじゃないか。そっちは一流企業だし、美形な上司が揃ってそうだもんな。あの超イケメン副社長の他に、セクシー美女の課長にでも出会ったか」

「いえ……」

「ん?……さては、その彼女が家庭持ちだったとか?」

「そうじゃなくて……実は、神岡副社長に……」

「あー、それがあの副社長にバレて大目玉食らったってやつだな?」

「そうじゃないんです!

 ——俺、神岡副社長に惚れたみたいなんです!!」

 思わず、はっきりとした語調で言い放ってしまった。


 一瞬、空気が固まった。

 沢木さんは、聞き違いでもしたような顔で俺を見たが——俺の真剣な表情に、冗談でないことを悟ったようだ。


「……変な話で、済みません」

「——いや。変じゃないさ、少しも。

 ……僕だって、うっかりすれば惚れちまいそうな男だからな、彼は」

「……」


「魅力的な人間に惚れる。それのどこが間違ってる?」

 そう言って、彼は大らかに笑った。


 俺は、これまでのことを、包み隠さず沢木さんに話した。

 彼も、届いたハイボールには手をつけないまま、黙って話を聞いてくれる。


「混乱して、よくわからないんです……自分の中で、何が起きたのか……

 これから俺、どうしたらいいのか……」


「んー……かもな……。

 だが……そんなに難しいことか?

 人を好きになるって、もうそれだけで、最高に素晴らしいことじゃないか?」


 そう言って微笑む沢木さんを、俺は思わずじっと見つめた。


 もやのかかったように薄暗い視界が、急にふっと開けたような気がした。


 そう思っても——いいのだろうか。

 そうやって、自分のこの思いを受け入れても、いいのだろうか……。


 自分自身の気持ちだけではない。

 神岡の気持ちも——自分の心と同じくらい、わからない。


 ただ単に、俺が彼に近づき過ぎたせいなのだとしたら。

 彼にとっては「うっかりミスを犯した」に過ぎないとしたら……。


 彼は、昨夜のことをどう思っているのだろう?


「それに、彼も……もしかしたら今頃動揺しているかもしれないな。——君と同じように」

 俺の考えを見透かしたかのように、沢木さんはそんなことを呟く。


「彼だって、自分が新たに誰かと恋ができる状況かどうかは、充分わかっていたはずだ。

 それにも関わらず……君に触れてしまった。

 ——君が、彼に触れずにはいられなかったのと、きっと一緒だよな。溢れそうな思いを、理性や理屈で綺麗に処理なんかできるわけがない」

 沢木さんは、そう言ってハイボールをマドラーでくるりと回す。


「今までは、単なる雇い主と従業員だったのかもしれない。

 だが……二人の間に、お互いを繋ぐ何かが生まれたんなら……これからは、それぞれが悩むんじゃなくて、二人で一緒に考えなきゃいけない。二人ともしっかりした知性と人間性を持っているんだから……一緒に考えれば、必ず最善の道が見つかるさ。

 それが、お互いにとって幸せな結末になるのかどうかまでは、わからなくてもね……」


 幸せな結末。

 それは、つまり何だろう。


 少なくとも……

 俺の本心を叶える結末は——恐らく、訪れない。


 大企業の次期社長で。しかるべき家柄の婚約者がいて。こなすべき責務が途切れることなく降り注ぐ。

 そんな、雲の上の人。

 そして——俺があの部屋にいられる時間も、あとほんの僅かだ。


 いずれ、彼から離れなければならない時が、必ずやってくる。


 彼への思いが強まれば強まるほど、その時が辛くなるだろう。

 そんなことは、よくわかっている。


 ならば……俺は、これからどうしたらいい?


 いや……

 俺は、どうしたい?


 ——それでも。

 今は……彼の傍にいたい。

 この先が、例えどうなっているとしても。


 彼がそれを許してくれるなら。

 時間の許す限り、彼の傍にいたい——。


 人を好きになることは、最高に素晴らしい。

 沢木さんの言葉が、その場にうずくまりそうな俺の心を支えてくれている気がした。



 沢木さんと別れ、部屋に着いた俺のスマホにメッセージが届いた。


『こんばんは。気分はどう? 何も変わったことはない?』


 神岡からだ。

 昨日の俺の様子を見て、気遣ってくれているようだ。


『ありがとうございます。いつも通り、大丈夫です』

『なら安心した。

 これからは僕の方も年末年始の予定が立て込んでくるから、君と契約した業務については、今年はこれで仕事納めだ。いろいろお世話になったね。本当にありがとう』


『俺こそ、何から何まで、お世話になりました』

 変に緊張して、堅苦しいメッセージしか返せない。


 少し間を置いて、再び通知音が鳴る。

『この契約についてだが……来年は、継続する希望がある?』


 彼の表情も、感情も——画面からは感じ取ることはできない。

 返信の指が止まる。


「希望する」と答えたら、どうなるのか。

「希望しない」と答えたら——どうなるのか。


 俺は、どうしたいのか。

 ——彼は、どちらを望んでいるのだろう?


『神岡さんに不都合がなければ……継続を希望します』

 考えあぐねた末——そう答えた。


『了解。じゃ、来年もよろしくね。良いお年を』

 何の不自然さもない返信が届く。


 何も感じ取れない。

 俺の答えで、よかったのか、悪かったのか——それすらもわからない。


『神岡さんも、よいお年を』


 ——会いたい。

 顔を見たい。声が聞きたい。


 そう言いたかった。

 心から、そう思った。


 言えるわけもないそんな思いが——出口もないままに、俺の中でぐるぐると回った。


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