彼女

「スーツのズボンとかは脱衣所のカラーボックスにでも適当に置いといてください。シワにならないうちにハンガーかけときます。ワイシャツとか洗い物は洗濯カゴにお願いします。俺適当に洗っとくんで」


「ん、ありがとう。助かるよ」

 神岡はそう言うと、凝った肩を回すような仕草でバスルームに向かう。


 コンスタントに鍛えているのだろうか。シャープな逆三角形の背中にワイシャツがよく映える。

 つい目がいく引き締まった後ろ姿が、まただるそうに肩を揉む。ちょっとおじさん臭くて笑える。

 でも、副社長だもんなー。毎日ストレスに晒されて、そりゃ疲れるだろう。


 完成間近の料理の火加減を弱め、リビングのソファに無造作に投げ出されたコートとスーツをハンガーにかける。

 ふと、上等な仕立てのジャケットの内側から、ほのかな香りが立った。爽やかで、甘い……ホワイトムスクの香りだ。彼の車内でも同じ香りが漂っていた。

 きっとお気に入りなのだろう。彼にとてもよく似合う。


 ——彼は、会社で、どんなふうに仕事してるんだろう。

 クールな面持ちで颯爽と歩くスーツからこんな香りがしたら……女子はそれだけで目眩がするんじゃないか。

 仕事もサクサク完璧にこなしそうだ。だからあんなに若くて副社長なんだし。

 ここではいろいろと面白いド変人なんだけどなー。


 スーツやコートは全部ハンガーにビシッとかけた。ダイニングテーブルにも、食器とグラスと……全部揃った。

 あとは最後の味の調整だけだ。豚汁を少し器にすくい、味を見る。

「ん〜〜……少し薄いかな〜……」

「僕も味見しようか」

「あ、じゃお願いします……うわっ!!?」

 背後からの声に振り向いて、思わず叫んだ。

 首からタオルを一枚かけただけで、上半身何も着ないままの神岡が味見用の小皿を胸の前に差し出し、嬉しげに立っている。

 まるで尻尾をわさわさ振ってオアズケ解除を待っている犬のようだ。

「ちょっとっ!!! なんで何も着てないんですかっ!!?」

「いや、すごくいい匂いしてるからさ。もう空腹に堪えきれず。それにほら、下はちゃんとルームウェア履いてるよ?」

「下履いてなきゃ変態ですよ!!」

 俺は思わず赤面しそうなのを必死にごまかす。

「なんだよ〜〜厳しいなあ。その辺一番のびのびやりたいのに」

「そんなとこのびのびしないでください! その他のことは好きにしていいですから、服だけは着てください! ほら、髪もまだ濡れてるじゃないですか……ちゃんと着て、髪も乾かしたら味見させてあげます!」

「ちぇ〜。はいはい。作ってる人には逆らえないなぁ」

 彼はそんなことをブツブツ言いながら引き返していく。


 はあ……。まだ心臓がどっどっとうるさい。

 ——あんなに綺麗な身体で、濡れた髪で……側に寄られちゃたまらない。本当に。

 大体あの男は自分自身の美貌や色気に無自覚過ぎる! どんだけ天真爛漫なんだ!?

 ……そして俺は、なんでこんなとこでヘンな消耗しなきゃならんのだ??





✳︎





「いただきます!!」

「乾杯〜」

 やっとこぎつけた夕食である。

「う〜〜〜ん。美味い……飴色の大根が溶けるようだ」

 神岡は感慨深げに斜め上を見つめながらぶり大根を味わっている。

「お口に合いますか? ならよかった」

「すごく上手なんだね、料理」

「俺も料理好きな方だから。コツつかめれば、そんなに難しくないですよね?」

「うーん、そこはセンスだろうねー。美味くて食べすぎそうだ」

 珍しく、酒もそこそこに料理にがっついている。普段あまり食べないんだろうか? こういう献立。


 俺はしばらく、その幸せそうな様子を頬杖をついて眺める。作った者にとって、美味しそうに料理を食べてくれる姿を見るのはこの上ない喜びなのだ。……そういや、この前神岡も同じようにがっつく俺を見てたっけ。

 そんな様子を見ているうちに、どうしても聞きたい質問がひとつ……。

 直球でぶつけてみた。

「……婚約者の方とは、こういう時間過ごさないんですか?」

 普通、この場面の相手はどう考えても彼女だろう。それをなぜ、犬ネコの俺なのか。

「——彼女は、料理が下手なんだ」

 彼は素っ気なくそう答えると、くいとビールのグラスを呷る。


「彼女は商社のお嬢様でね。料理も一通りは習ってると思うんだが、どうにも不味い。味オンチなのか、真剣に作る気がないのか」

「商社のお嬢様……?」

「そう。二階堂美月さんというひとだ」

 二階堂……あの二階堂商事の。

「……すごいですね」

「すごいって、何が?……ああ、確かにすごい美人だけどね。でも、それだけだ」

 うあー、冷たい。美人なお嬢様にこの言い草。まあこの男だからできるヤツだ。

「彼女……美月さんが料理下手だったら、たまにはあなたが作ってあげたりすればいいんじゃないですか? それなりに楽しく過ごせそうじゃないですか」

「相手は老舗のお嬢様だぞ。家事は女の仕事です、全部私がやります!とか言って融通が一向にきかない。そのくせ料理が下手だから、なんだかんだ言ってほとんどの食事は外食かレンジでチンだ。……この気持ち、わかるか?」

「……そうなんですか……」

 それは切ないなあ。彼が美月さんと過ごす時間を避けたいのもちょっとわかる。窮屈でなんだか盛り下がりそうだ。

「……でも、そこまで料理下手って、ちょっと不思議ですよね。愛情がこもれば、料理はそれなりに美味しくなるもんですけどね——?」


 そう言いかけると同時に、彼の動きがピクッと止まった。


 ——あ。

 なんか口が滑った。

 やばい。地雷踏んだか!!?


「——君は、やっぱり鋭いな。

 そう。僕は彼女を愛していない。そして、彼女もまた僕を愛していない。

 そういうことだ」


 神岡は、怒り出すわけでもなく……淡々とそんなことを呟くと、さらりと微笑んだ。


「——すみません。立ち入ったこと聞いたりして」

「いや、いいんだ。むしろありがたい。こんな本音を全部吐き出せるのは君くらいしかいないからさ。

 ——ここでの話を、君は他人に漏らしたりしないって信頼した上で話してるんだけどね?」

 そんなふうに言って、神岡は悪戯っぽい目で俺を見る。

「当然です。——なんでも話してください。俺でよければ」

「君は信頼できて、頼りになる。感覚も言葉も的確だ。ここに来ると僕は一切身構えなくていいんだって思えるよ」

 そう言って、彼は少し酔いを含んだ眼で俺に微笑む。


 あなたが、そんなふうに俺に心を許すなら——

 そういう眼は、他のヤツには向けないで欲しい。


 そんな思いが、酔いでふわつく俺の脳を不意に占領する。


 ——その思いは一体何なんだ、お前?

 ——知らねーよ。


 説明のできない不可解な感情を自分自身に無理やり説明するのも、いい加減疲れてきたような——。


「そうそう、僕明日は休暇入れてるんだ。たらふく食べてすっかり気持ちよくなってしまったし……今日はここに泊まっていこうかなと思うんだけどね。

 ——いいかな、柊くん?」

 彼は柔らかな口調でそう言うと、酔いで少し染まった頬をくたりと右の掌で支えた。

 傾いた額に前髪がさらりとかかり、俺に向けられた視線が一瞬遮られる。


 ほんとにきれいだなぁ、この人。

 なんだか溶けそうだ。


 ん、今夜泊まってく?

 それはもちろん、喜んで——。


 ふわふわしつつそう答えかけて、ふと考える。


 ……ちょっと待て。

 ここには、確か俺用の部屋しかないですよね……? この部屋契約したの、あなたですよ?


 つまり、ベッドはひとつだけなんですけど……。






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