リーリウム・ブラッド・ライン
黄鱗きいろ
吸血鬼カーミラ事件
第1話 三十路刑事と淫奔上司
この世には不可思議なものなど存在しない。刑事というものはそれを証明する職業だと俺は信じている。現場を検証し、資料を漁り、一見不可思議に見える事件を解き明かしていく職業。それが警察だ。だが――そんな俺の信念を、目の前の男はあっさりと覆してしまおうとしていた。
換気されていない室内には、濃い花の香りが充満している。それが一体何の花だったのかは俺には判別できなかった。ただその甘ったるい香りのせいで脳の奥が痺れてしまいそうになっているのだけは理解できて、俺は仰け反りそうになるのを必死にこらえて、香りの只中にいる男へと目を向けた。
男はこちらの全てを見透かしているかのようににんまりと笑った。
遡ること十分前、俺は仕事道具を詰めた段ボールを抱えて、捜査一課を後にしていた。向かうのは署の片隅にある「特課」と呼ばれる小部屋だ。
自分が捜査一課を追われるきっかけとなった事件は記憶に新しい。ほんの10日ほど前に俺は一課の捜査中、とある重大なミスをしでかした。その結果、俺は異動となり、事実上の閑職へと追いやられることになったというわけだ。
段ボールを抱え直し、大きくため息を吐く。この中に入っているのは、十年以上積み上げてきた刑事としての思い出ばかりだ。
とはいっても、捜査書類などは全て一課に置いてきてしまったが。
後悔はしていないが未練はある。謎を謎のまま残してしまったあの事件。その解決を見ることなく捜査を外されてしまったのは、本当に残念でならない。何よりあの事件は俺の――
もう一度大きく息を吐き、特課のドアの前に立つ。ノックはまあ必要ないだろう。一度荷物を床に下ろし、ドアノブに手をかけた。
その途端、漂って来たのは、甘ったるい花の香り。そして――ソファの上にいる二人の男性の姿が視界に入ってきた。
男が、男を、組み敷いている。下の男は白のシャツの前がすっかり開かれてしまっており、上に乗る男も制服を半分脱いでいる。
こういうことにはとんと縁のない俺でも分かる。ええとこれは、セックスというやつだ。
二人を見下ろす俺の顔はすさまじい形相をしていたのだと思う。俺は数秒固まった後、ゆっくりと元の通りにドアを閉めた。
何だったんだ今のは。だってここは警察署のはずで、あんな淫猥なことが起こるはずないのに。
混乱してぐるぐる回る思考のまま数歩後ずさり、俺はドアを見つめることしかできなかった。すると、ドアの向こうからは何やら騒がしい音が聞こえてきて、直後、服を着てはいるが着衣がやや乱れた男が勢いよくドアを開けて逃げ去っていった。
外側に開かれたままのドアを、閉めることもできないまま俺は見つめる。すると、部屋の中から一人の男が足音荒く現れ、開かれたドアを手の平で苛立たしげに叩いた。
「ああもう、いいところだったのに!」
男の容姿は、一言で言い表すならば途轍もない美形だった。金色の髪はふわふわの猫っ毛で、今は不機嫌そうに細められているまなこも、普段ならきっと大きく輝いているのだろう。肌は白く、体の線は細い。何より、自分より少し小さい彼のうなじ辺りから漂ってくる濃い香水らしき匂いに、俺はうっと呻きながら一歩後ずさってしまっていた。
「で。君、誰? 僕、誰かとヤる予定入れてたっけ」
下から覗きこむように金の目に睨みつけられ、俺は言葉を失って固まる。咄嗟に何も答えることができず口を開け閉めしながら目の前の男を見て、それからちらっと自分の持ってきた段ボールを見た。俺の視線を追った男は納得した様子で俺を見上げた。
「ああ、なるほど。新しい部下ね」
はいはい、とか言いながら男は部屋の中へと戻っていく。男は脱ぎ散らかしていた靴を拾い上げ、それを履きながら俺を振り返った。
「入りなよ。何いつまでそんなとこに突っ立ってんのさ」
その言葉に我に返った俺は、段ボールを持ち上げて慌てて部屋の中へと入った。部屋は狭く、デスクが二つとソファ、それからごちゃごちゃとした資料の山らしきものがあるだけの空間だった。
「君、名前は?」
自分のデスクに座った男は細長い足をドカッと机の上に乗せて組み、すぐに答えを返さなかった俺に、繰り返してきた。
「な・ま・え。早く答えろよ。僕は上司だぞ?」
二十代半ばほどの明らかに年下に見える相手に偉そうに凄まれ、俺は眉間にしわを寄せてから答えた。
「ブラッドだ。ブラッド・ハウンド」
「年齢は?」
「32だ」
「階級は?」
「巡査部長」
「キャリア? ノンキャリア?」
「学はない」
「あっそ」
自分で聞いたくせに興味なさそうに爪をいじりながら男は答える。その様子にだんだん腹が立ってきた俺は、ぎゅっと拳を握りしめ、上司であるらしい年下のこの男に対して声を荒げようとした。
しかしその直前、彼は俺をちらりと見ると俺の胸あたりを指さしてきた。そこには、胸ポケットに刺さりっぱなしになっていたペンがあった。
「ちょっとそのペン貸して」
「は?」
「いいから貸せ」
有無を言わせぬ口調に気圧された俺は、素直にペンを渡してしまう。男はペンを日の光にかざしては何度も裏返して観察しているようだった。
一体何をしているのか。それを問いかけようとしたその時、彼の「それ」は始まった。
「ブラッド・ハウンド、30歳、男性。巡査部長。住んでいるのはキール通り。階数は三階。下の部屋の住人は娼婦。上の部屋は掃除人。通勤方法は徒歩。銃の腕は良く、体力もある。自転車に乗れないくせにバイクには乗れる。警察官になった理由は十代のころに起きたとある事件の捜査をするため。……ふーん、なんか平凡だね」
すらすらと暗唱するように読み上げられた言葉は、全て俺の個人情報だった。
書類であらかじめ確認でもしていたのか。いや、それならこんなに細かいことまで言い当てられるはずもない。
それに、どうして昔のあの事件のことを知っているんだ。あの事件については限られた人間にしか話していないはずなのに。
「どうやってやったのかって顔だね。まあ教えてあげないけど」
男は足を下ろし、机に肘をついてにんまりと笑いかけてくる。俺はからからに乾いた喉をなんとか動かし、男に問いかけた。
「……あんたは」
「ん、僕の名前? リリィだよ。ただのリリィ」
リリィ。まるで女のような名前だ。あだ名なのだろうか。
そう考えながらも、俺は困惑から抜け出せず動けずにいた。リリィはしばらく微笑んでいたが、ふと立ち上がるとそんな俺の手に指を絡めてきた。
「でさ、これが一番大事なことなんだけど」
体をすり寄せられ、密着した状態でリリィは小首を傾げてくる。
「君さ、童貞?」
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