霊能力者ショーン事件
第10話 新たな事件
――誰かの手を引いていた。
眩しいほどの太陽が照りつけてくる夏の日、太陽光が地面から跳ねかえり全身が焼かれていくあの感覚。そう、あれは確か十二、三歳の時の出来事のはずだ。
誰かの手を引いて走っていた。俺は彼女を失いたくなくて、彼女の小さな手をぎゅっと握りしめながら、息を切らせて走っていた。
雑踏のざわめきも、車の走行音も、どこか遠くに聞こえた。そこにあったのは俺たちの息遣いと足音だけだった。
「―――――」
背後の彼女が何かを言う。だけど振り返っている暇はない。俺たちは走り続けなければいけないのだから。
だけど突然、俺の手から彼女の手の感触は、するりと消えてしまった。
立ち止まり振り返る。彼女の姿はどこにもなかった。そして、俺は彼女が誰だったのか分からなくなっていた。
声を上げようとした。名前を呼ぼうとした。だけど言葉は出てこない。
たった今まで彼女のことばかりを考えていたのに、どうしても彼女を救いたかったのに、彼女と誰から逃げていたのか、そして彼女が誰だったのか、俺には思い出せなくなっていた。
俺は誰かを失ったのだという事実だけを抱えて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
照りつける陽光、アスファルトが焼ける匂い、どうしても忘れたくないあの日の――
目を開けると、そこには白い天井があった。
「え」
間抜けな声を上げて何度かまばたきをする。何が起きたのか混乱していると、寝かせられていた俺に歩み寄ってくる人物がいた。
「あ、刑事さんおはようございます。気分はどうですか?」
近づいてきた看護師にそう問われ、俺はまだ事態が呑み込めずに視線で彼女に問いかける。看護師は心配そうなまなざしを俺に向けて、それからベッドわきの点滴を指した。
「署で倒れたんですよ。酷い貧血だったので、こうして輸血を」
吊るされていた輸血パックはちょうど中身がなくなったところのようで、看護師は俺の腕から点滴針を引き抜いてガーゼで押さえた。
気絶していたということは、さっきのあれは夢だったらしい。まるでついさっきまで走っていたかのようにまだ跳ね回る心臓を、シャツの上から押さえて息を整える。
「立ち上がれるようであれば帰宅していただいても大丈夫ですよ。ただし」
ぐっと顔を近づけて看護師は凄んできた。
「絶っ対に自宅で安静にしていてくださいね」
看護士が去った後、立ち上がって数歩歩いてみる。まだふわふわとした浮遊感はあるが、なんとか歩けそうだ。これならば家にも帰れるだろう。窓の外を見ると、まだ昼間だった。腹の減り具合を見るに、きっと昼飯時なのかもしれない。
俺は若干めまいが残る目頭をぎゅっと押さえ、少し立ち止まった後に、ジャケットを着て帰ろうとした。――だが、ベッドの近くにはどこにもジャケットは置かれていなかった。
「すまない、俺のジャケットは……」
「ああ、ここに運ばれてきた時は着ていなかったので、署にお忘れになったんじゃないですか?」
部屋の近くにいた看護師を捕まえて聞いてみるも、どうやら俺の予想は当たっていたらしい。
「まいったな……」
何か買って帰ろうにも、財布はジャケットの中だ。幸い、ここは警察病院のようで治療費を請求されなかったことだけはよかったが、このままでは明日までの食べ物もままならない。
仕方ない。署に取りに行くか。
警察病院は当然ではあるが中央署の徒歩圏内にある。照りつけてくる白い陽光に目を細めながら大通りの信号待ちをし、人波に流されるがままに駅の方へと。そして駅を通り過ぎてもう少し歩けば中央署にたどり着く。
いつも通りに署の奥にある特課の部屋へとふらふらと向かい、ドアノブをひねって戸を開けると、そこにはいつも通りのリリィの姿があった。
「あれっ!? ワンちゃんなんで来てるの!? 貧血起こして自宅療養のはずじゃなかったっけ!?」
「忘れ物だ。……で、なんでお前は昼間っからここで盛ってるんだ」
ワントーン低くした声で凄んでやると、仰向けになった男の上で腰を動かそうとしていたリリィは、立ち上がって俺に食ってかかってきた。
「日課みたいなもんじゃん! 見逃してよ!」
「そんなもの日課にされてたまるか! 出てけ!!」
ソファの上の男につばを飛ばす。男は慌てて服を着て逃げ去っていった。また新しい顔だ。どれだけの人数を引っかけているんだこいつは。
感動にも似た呆れを抱きながらリリィを見ると、リリィは服を着てどこかに行こうとしているところだった。
「おい、どこに行くんだ」
「トイレだよ! えっち!!」
そう言い放つとリリィは頰を膨らませながら足音荒く部屋の外へと歩いていってしまった。それと入れ違いにひょっこりと入口から顔を覗かせたのは、鑑識のヒューガだ。
「ああー。またやってたんですかあ。ていうかブラッドさん、安静にしてないと駄目じゃないですか」
「忘れ物だ。仕方ないだろう」
むっとしながら返すと、なら仕方ないですねえとか言いながら、ヒューガはリリィの机に書類を置きに行ってしまった。その席に座っているべき人物を思って、俺は大きく息を吐き出す。
「全くあいつは……なんであんなにビッチなんだ……」
「まあまあ、理由なしにやってることなわけでもないんですよ」
「……は?」
思わず間抜けな返答をしてしまったが、ヒューガは俺の反応には構わず話を続けた。
「リリィさんがサイコメトラーだっていうのはブラッドさんもご存知ですよね?」
「ああ、……正直まだ半信半疑だがそうみたいだな」
「そろそろ信じてくださいって。で、リリィさんのサイコメトリーなんですが、無限に使えるわけじゃないんです」
意外な一言に俺は疑問の眼差しをヒューガに向ける。リリィはそんなことは一言も言っていなかったはずだ。ヒューガはいつもより真剣な顔で説明を始めた。
「リリィさんのサイコメトリーは、ものや死体に残された情報を読み取るというよりは追体験をしているんですね。過去の出来事を自分のことのように体験できるわけです」
「追体験……」
ものがそれまでに触れたものや目の前にあった景色を見るということだろうか。ヒューガは深刻そうに眉をひそめながら、ずいっと俺に一歩近づいてきた。
「で、これが問題なんですが、そんなリリィさんが死体に触れたらどうなると思います?」
「どうって、死体の追体験だから……」
顎に手を置いて考え込む。死体の追体験。死体が受けた行為や感覚を共有する。それはつまり――
「まさか自分が殺されるのを体験する……!?」
「そういうことです。かなりの負担になるようですよ、何しろ自分が擬似的に殺されてるんですから」
怖い顔のままヒューガは言う。俺はその迫力に一歩ひいてしまいそうになった。
「で、この負担を軽減するのがキスを始めとする性行為なんですねえ。リリィさんいわく、自分を『死』から『生』に引き戻すために精力を搾り取っているとかいないとか……精力っていうのは生命力みたいなものだとか……まあその辺りは科学的に説明できるものでもないので、リリィさんの証言によるところしかないんですがねえ」
次々と告げられる新事実に、俺はうまくそれを飲み込みきれないまま固まることしかできなかった。そんな俺を見ていたヒューガはふっといつも通りのにこにこ顔に戻る。
「じゃあ自分は戻りますねえ」
スキップでもしそうな足取りで部屋を出ていこうとしたヒューガだったが、ふとドアを出る直前に立ち止まり、仕方なさそうに眉を下げた。
「二人とも、同じ職場の同僚なんですから喧嘩もほどほどにしてくださいね?」
じゃあ失礼しまあす、とか言いながらヒューガは特課の部屋から去っていった。嵐のようだった二人が出ていった部屋の中で俺は一人考え込む。
リリィの能力のこと、その代償のこと。そして今までリリィに対して接してきた自分の態度のこと。
ぐるぐると回る思考をまとめようと腕を組んだあたりで、部屋のドアは乱暴に開き、不機嫌そうなリリィが大股で自分の机へと向かっていった。
いつも通り偉そうに椅子に座ったリリィを見て、もう少しだけ考えた後、俺はリリィへと向き直った。
「リリィ」
「何!?」
「その……悪かった。性行為がお前に必要なものだということをさっき知った。お前、ただ淫乱なだけじゃなかったんだな」
俺の言葉にリリィは一度目を見開いた後、警戒するような眼差しをこちらに向けてきた。
「どこまで聞いたの」
「どこって……キスや性行為がお前の能力に必要だってことぐらいだが」
「……そう」
リリィはいつもとは正反対の薄暗い、だけどほっとした顔をした。その意図が掴めず重ねて尋ねようとした直前、リリィは胸を張って俺に言い放った。
「その通りだよ。僕はたまに性行為をしないと駄目になっちゃう体質なんだ」
あまりにあんまりな言い方だが、きっとそれは正しい認識なのだろう。俺はそれを聞いて納得しかけ――とあることに気付いて動きを止めた。
「待て、リリィ」
「なぁに、ワンちゃん?」
「お前、それをここでやる意味はあるのか」
「……それって?」
「言わせるな。……性行為のことだ」
大声で口に出したくなくて、ぼそぼそと口の中で言うと、リリィはにんまりと笑って俺を指さして煽ってきた。
「ちゃんとセックスっていいなよ! 僕、童貞くんの口からセックスって言葉が聞きたいなあ!」
「うるさい黙れ! ――で、どうなんだ」
椅子に座ったままのリリィを、上から睨みつける。リリィは一度目を泳がせた後、俺を見上げて可愛らしく小首を傾げてみせた。
「……えへ?」
その仕草が意味するところが理解できない俺ではなかった。俺は大口を開けてリリィを叱りつけようとしたが、その直前にリリィは素早く立ち上がると、部屋の外へと逃げていった。
「この、待てリリィ!!」
思わずその後ろを追いかけて、リリィを捕まえようと手を伸ばす。しかしリリィは俺の追撃をひらりひらりとかわして、署内を逃げ回っていった。
「きゃー助けてー!」
棒読みではあるがかなりの大声でわめきながら、何度も人にぶつかりつつもリリィは俺から逃げ続ける。
「犯されるぅーレイプされるぅー!」
「う、うる、うるさい! デタラメ言うな!」
「デタラメじゃないもん! このケダモノ!」
「待てこの馬鹿! クソっ、意外と足が速い!」
長い足を存分に活かしたその速度に苛立ちながらも、リリィが踏み荒らした廊下を俺は走っていく。――と、その時、俺は急にバランスを崩して、床に倒れ込んでしまった。
すぐに立ち上がろうとしたが、うまく体が動かない。後方で這いつくばっている俺を見て、リリィは心底心配した表情で俺に駆け寄ってきた。
「え、ワンちゃん、大丈夫?」
「頭がいたい……くらくらする……」
そういえばついさっきまで輸血を受けていたほどの貧血なのだった。それを忘れて全力疾走してしまった俺の馬鹿さ加減に辟易しながらも、頭を押さえてなんとか体を起こす。リリィはそれを聞いて一気に顔色を悪くした。
「ご、ごめん! 病み上がりだったよね……」
反省した様子のリリィに、まるで子供のようだという感想を抱く。こいつは俺をおちょくりたいのか、それとも俺を大事にしようとしているのか、本当に分かりかねる。もしかしたら両方なのかもしれないが。
その時、俺たちの背後から不機嫌そうな声が降ってきた。
「じゃれているところ悪いがね」
俺たちは二人して、顔を上げて振り返る。そこには道中でリリィがひっくり返した書類を背景に、レナート警部が仁王立ちをしていた。
「仕事だ、特課諸君」
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