第9話 百合の血

 ブレーカーに手をかけながら、リリィは辺りを油断なく見回す。人影はない。だがいつ誰が来るとも分からない。

 配電盤にリリィが辿りついてから十五分が経とうとしていた。いまだにブラッドからの合図は来ない。通信機を睨みつけ、苛立ちから爪先をとんとんと鳴らす。

 もう五分合図が来なければ戻ってしまおう。そう決めたその時、通信機は控えめな着信音を響かせた。リリィは即座にそれを取ると、通信機に向かって怒鳴った。

「ちょっとワンちゃん! いつまで待たせるの――」

「こんにちは、リリィちゃん。この前ぶりね?」

 ブラッドの代わりに聞こえた声に、リリィは通信機を取り落としそうになってなんとか留まった。

「大事な大事な部下の命が惜しければ、舞台までおいでなさい。とびっきりの歓迎をしてあげるわ」

 ねっとりとまとわりつくようなその言葉に、リリィは暫し立ち尽くした後、通信機を投げ捨てて駆け出した。

 やられた。罠だって分かっていたのに。あれだけ言ったのに、ワンちゃんはあいつの罠にかかったのか。でももっといい作戦もあったはずだ。どうして僕はそれを思いつけなかったのか。

 ブラッドへの苛立ちと自分への不甲斐なさに押しつぶされそうになりながらリリィは息を切らせながら舞台裏を走り、舞台そでへと続くドアを蹴り開けた。

「あら、意外と速かったのね」

 肩で息をしながらリリィは照明に照らされた舞台へと歩み出る。舞台上には折り重なった女性の死体、客席には興奮した様子の観客、そしてリリィの目の前にはアシュレイ・ビヤンドと、彼女の前に膝をついてぐったりと座り込むブラッドの姿があった。

「そいつに何したの」

「ちょっと血をいただいただけよ。普段は生娘しか飲まないのだけど、童貞ってのもなかなかおつなものね」

 身構えながら尋ねると、アシュレイは唇に指を当ててうっとりと言った。

 本当ならばすぐにでも駆け寄って安否を確かめたい。だがそれを阻むように、前方と後方の舞台そでからは数人の武装した男たちが姿を現してきていた。

「安心して、大丈夫よ」

 アシュレイは手袋をした手で、うなだれて座り込むブラッドの髪の毛を掴んで持ち上げた。ブラッドの目はうつろでほとんど意識がないようだ。

「この子はかなり吸ったから失血死寸前。だけどあなたが私に従ってくれればこの子は病院に連れていってあげる」

 見せつけるように顔を上向かせた後、アシュレイはブラッドの肩を突き飛ばした。ごとんと音を立ててブラッドの体は床に倒れ込む。拘束は全くされていないというのに、その手足はぴくりとも動こうとはしなかった。

 そんなブラッドをちらりと見てから、リリィはアシュレイを見据える。

「何が望みなの」

「あなたの血が欲しいの。最後の一滴までね」

 アシュレイは真っ赤な唇に牙を光らせながらリリィに手を伸ばす。リリィはぎゅっと顔をしかめた。

「馬鹿だね、そんなことしたら僕、死んじゃうじゃないか」

「そうね、死なせたくはないのだけど、死んでしまうなら仕方ないわね」

 精一杯の皮肉を言ってやったが相手はにやにやと笑いながらそう返すだけだ。

 話が通じない。

 リリィは大きく舌打ちをした後、両手をゆっくりと握って開いた。

 そちらがそのつもりなら、こちらも手を使わせてもらおう。――策ならある。

「いいよ、その条件飲もうじゃないか」

 顎を突き出して相手を見下すような姿勢でリリィがそう言うと、アシュレイはにんまりと笑い、周囲の黒服たちに合図をした。

 拘束しようとしているのだろう。黒服の内の一人の手に結束バンドが握られているのを見たリリィは、その男の手を素早く掴んでをしようとした。しかし、握ったはずの手の感触は、ゴム手袋のそれだった。

 しまった。手袋をされてたら――

「うぐっ……!」

 逆に手を掴まえられ、腕をひねりあげられる。痛みに気を取られているうちに、リリィはろくに抵抗も出来ないまま後ろ手に拘束されてしまった。

「ふふ、知ってるのよ。あなたが触れた相手から精気を吸い取れることぐらい」

 踵を鳴らしながらアシュレイはリリィに近付いていく。

「逆に言えば触れられないようにすれば、あなたの能力なんて怖くはない。……狙いが外れて残念だったわねぇ、リリィちゃん?」

 手袋をしたままの指で、アシュレイは拘束されたリリィの顎を持ち上げる。

「私もあなたも、相手の精力を吸い取る能力者」

 余裕綽々の表情で見下ろしてくるアシュレイの指に、リリィは大きく口を開けて噛みつこうとした。しかしその直前に後頭部の髪を掴まれ、顔を床に押し付けられる。

「ぐっ……」

「諦めなさい。私の能力とあなたの能力は絶望的に相性が悪かったのよ」

 最初リリィは暴れようと身をよじっていたが、どうしようもないことを知ると脱力して大人しくなった。拘束していた男たちはそんなリリィを無理矢理に立たせて、舞台の中央にある台へと押しやろうとした。

「ねえ、アシュレイ・ビヤンド」

 リリィは立ち止まり、アシュレイに懇願するような目を向けた。

「最後にワンちゃんにキスしてもいい?」

 諦め切った表情で、弱々しくそんなことを言い出すリリィに少しは同情したのか、それともただの気まぐれなのかアシュレイはふんと鼻を鳴らした。

「ふうん、あなたたちやっぱりそういう関係だったのね。いいわよ、最後のお別れをするといいわ」

 アシュレイはブラッドの体を足で転がし、リリィも後ろで拘束されたままブラッドの前に膝をついた。

 ぼんやりと目を開いたブラッドに顔を寄せる。薄い唇には血の気はなく、そこから吐き出される息もか細い。リリィは縛られて見張られたままの姿勢で顔をさらに近づけ、ブラッドの唇に自分の唇を重ねた。

 舌を入れることはしなかった。何の反応も返ってこないことは分かっていたからだ。ただ唇と唇を合わせ――リリィはブラッドの内側へと自分の精力を送り込んでいた。

 精力を吐き出すごとに、体がだるくなり、瞼も落ちそうになっていく。だけど止めるわけにはいかない。こうしなければきっと彼はこのまま死んでしまうから。

 五秒、十秒――それ以上の時間が経った頃、リリィはようやくブラッドから顔を離した。焦点のあいかけたブラッドの目と目が合った気がした。

 これで彼はすぐに死ぬことはなくなった。そうすればきっと生き延びられるはず。たとえこいつらが病院に連れていくという約束を反故にしたとしても――

「もういいでしょ。さ、生贄の台に上りなさい」

「うぐっ……」

 無理矢理に立ちあがらせられ、舞台の中央に置かれた台の上へと乗せられる。仰向けになったリリィのシャツを、その上にのしかかったアシュレイは引き裂いた。

 露わになったのは白い肌、腹に巻かれた包帯、そして特徴的な痣。

「……えっち」

 されるがままになりながら、リリィはアシュレイを見上げる。彼女はリリィの腹や痣に指を這わせ、満足そうに笑った。

「ふふ、あなた……百合の血の一族リーリウムブラッドラインね。情報通り」

 情報。その言葉にひっかかりながらも、リリィはアシュレイの一挙一動を気を張ってその瞬間を待った。

 アシュレイは手袋をはめた手でリリィの顔を傾かせ、噛みつきやすいように首筋を持ち上げさせる。

 そう、血を媒介にしている以上、精気を吸引する時に、どうしてもこちらに触れなければいけないがある。

 アシュレイは勝ち誇った笑みを浮かべながらリリィの首筋に顔を寄せ、大きく口を開いてリリィに

 ――今だ。

 リリィは吸血のために触れた牙と唇を伝って、アシュレイの精気を吸い上げはじめた。アシュレイは最初何が起きているのか分かっていないようだったが、数秒後、自分が逆に精力を吸われていることに気づき、リリィから距離を取ろうとした。

 だがその時にはもう遅い。リリィに精気を吸い取られすぎたアシュレイは、見る見るうちに全身の力が抜け、肌からは張りがなくなり、やがてリリィから口を離して完全に気絶した。

「ふん、僕の能力と君の能力、絶望的に相性が悪かったみたいだね」

 無残な姿になったアシュレイをリリィは鼻で笑う。その頃になって異変に気付いた黒服たちが銃を構えてこちらに駆けよってきた。だが今のリリィは精力を人一人分も吸い取った状態だ。

 リリィは素早くアシュレイの下から出て立ち上がると、こちらに向かって銃を向けてくる黒服に向かって足を振り上げた。

「なめんな!」

 リリィの足が黒服の銃を蹴り飛ばし、その勢いで彼に回し蹴りをくらわせた。吹き飛ばされた銃は宙を舞ってリリィの足元に落ちてくる。リリィはそれを彼らの手の届かないところへと蹴り飛ばした。からからと転がっていった銃はぴくりとも動かないままのブラッドの体に当たる。

「ただ長いだけの足じゃないんだよ!」

 もし手が拘束されていなければ、間違いなく中指を立てていたであろう声色でリリィは黒服たちを威嚇する。黒服は一瞬怯んだ後、リリィに向かって銃口を向けてきた。リリィはそれよりも先に黒服に近付くと、黒服の股間を思い切り蹴りつけた。

 くぐもった声を上げて黒服は床に沈む。彼の持っていた銃も蹴り飛ばしながらリリィは振り返る。まだあと一人いたはずだ。

 そんなリリィから五メートルは離れた位置に最後の黒服は立っていた。黒服はすでにこちらにぴたりと銃口を向けており、あとはもう引き金が引かれるのみという状態だ。

 リリィはそれを見て硬直し――直後、銃声は響いた。

 思わずつぶってしまっていた目を開くと、銃を構えていた黒服は血を流して床に倒れていた。そして、そんな彼に銃を向けていたのは、床からなんとか体を起こした状態のブラッドだった。

「ワンちゃん……」

 ぽつりとリリィが呟いた直後、客席からはばたばたと音を立てて観客たちが逃げ去っていった。きっと舞台で起きたことが自分たちにとってまずいことだと理解したのだろう。

 だがまあ、今は逃がしておいても問題はない、はずだ。悪趣味なパーティの主催者はこうして制圧したのだから。

 最後の客が劇場から飛び出し、舞台上に沈黙が訪れた後、数秒経ってからリリィは大きく息を吸い込み天井を仰いで叫んだ。

「あーもう! 死ぬかと思ったぁ!!」

 なんとか体を起こして座ったブラッドは、いつも通りのリリィの様子におかしくなって小さく笑った。リリィは大きく息を吐くと、ぐったりと座るブラッドのそばへとつかつかと歩み寄ってきた。

「ほら、これ取ってよ! 早く!」

 僕のジャケットにハサミ入ってるから! と急かされてしまえば断ることもできない。ブラッドは上手く動かない指をなんとか動かして、リリィを縛っていた結束バンドをハサミで切った。

 ようやく解放されたリリィは両手をぶらぶらとさせた後、「あーあ!」とか言いながらブラッドの隣に座った。しかも足を投げ出して、ちょうどブラッドと同じ姿勢でだ。

 その行動の意図が分からずに怪訝な目を向けるブラッドに、リリィは拳を作ると軽く持ち上げた。

「まあまあやるじゃん、馬鹿犬」

 にやっと笑いながらのセリフに、ようやく何を求められているか分かったブラッドは、こちらもにやっと笑って拳を持ち上げた。

「それはこっちのセリフだ、馬鹿上司」

 ごつんと拳同士がぶつけられ、それから小さな笑い声が劇場に響いた。

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