第8話 蠱惑のまなざし

 演奏会へ向かっていくのは会場にいた客たちの中でも、特に身なりのいい人々のように見えた。気取った雰囲気の彼らは、どこか浮かれたような表情で劇場の方へと歩いていく。俺たちはその後ろをなるべく違和感を覚えさせないように堂々とついていった。

 傍らのリリィをふと見ると、先ほどとは打って変わってしっかりとした足取りで奴らの後をついて歩いていた。

「リリィ、酔っていたんじゃなかったのか」

 声を潜めて尋ねると、リリィはふふんと鼻を鳴らした。

「酔ったふりだよ。ほんとに鈍いんだから」

「はぁ?」

 どうしてこんな場面で酔ったつもりをする意味があったのか分からず、怪訝な表情を向けてしまう。そんな俺を見てリリィの機嫌は降下したらしく、不満そうに頬を膨らませるとエントランスへの扉をくぐっていった。

 エントランス付近には十数人の客が劇場の扉が開くのを待っていた。

「どうする」

「素直に行くのは悪手だろうね。そんなことをしたらろくでもない事件がまた起こりかねない」

「死体が一つ出るのは確かだと?」

「そういうこと」

 少し体を傾けて十センチほど下にあるリリィに顔を寄せて相談しあう。

「だが事件が起こる瞬間を押さえなければ後日に次の事件が起こるかもしれない」

「じゃあ――裏から行くしかないかな」

 俺たちは目配せをすると、さりげなく通用口を探して首を巡らせた。

「……あった」

 リリィの視線の先を見ると、劇場の扉から見て左手の奥に金属製の扉があるのが見えた。扉の前には警備らしき黒服が直立不動で立っている。

 先に動いたのはリリィだった。さりげなく客たちの輪から外れ、警備員へと歩み寄っていく。

「ねえ、お兄さん。お手洗いってどこかな?」

「え? お手洗いですか。それでしたらあちらの――」

 体を傾けてトイレの方を指さそうとした警備員の後ろに回り込み、片手で口を塞ぐ。

「動くな」

 ついでに懐から取り出した拳銃を背中に突きつけてやれば、警備員は自分がどんな状況に立たされているのか理解したようだった。

「そこ開けてもらえるかな? じゃないと……殺しちゃうよ?」

 目の前のリリィにそうやって囁かれ、警備員はこくこくと首を縦に振った。

 パスワードを入力された扉の鍵が、がちゃっと音を立てて開く。ドアノブをひねって体を中に滑り込ませた後、俺は警備員の口から手を離した。

「だ、誰か……!」

 叫ぼうとした警備員のみぞおちめがけて、思いきり握った拳を思い切り抉り込む。彼はその勢いで一瞬体を浮かせた後、俺の腕の上で失神した。

 ここの警備を任されたばかりに可哀想に。とは思いつつ、できるだけ優しく地面に体を下ろした後、彼の手の親指同士を結束バンドで縛った。こうしておけば目が覚めても抵抗はできないだろう。

「おーすごい。さっすが猟犬なだけあるね」

「犬じゃない。ふざけてる場合か」

 ぱちぱちと手を叩きながらの言葉にリリィを睨みつけてやる。リリィは自分の頭をとんとんと人差し指で叩いた。

「単純に褒めてるんだよ。僕、そういうの専門じゃないからさ」

「……だろうな」

 こいつが頭脳労働で、俺が肉体労働。不本意だがこの分担が多分正しいのだろう。

「で、これからどうしよっか」

「この先で悪趣味なことが行われているのなら、現場の警備は厳しいはずだ」

「今みたいに全員伸しちゃう?」

「まさか。そんなことできるはずがない」

 手をぶらぶらとさせながら言うと、リリィはくっくっと小さく笑った。

「じゃあ、どうにかして隙を作らなきゃね」

 こいつが楽しそうなのは気にくわないが、言っていることは至極正しい。俺はじっと自分が昏倒させた男の頭を見て、それからリリィに視線を戻した。

「リリィ」

「ん?」

「こいつが把握しているこの劇場の地図をサイコメトリーで辿れるか」

「できるけど――ああ、なるほど」

 警備員の男を指さしてやると、リリィはすぐに納得した顔をした。

「配電盤を見つけて、現場の照明を落として隙を作れってことだね?」

「ああ、理解が速くて助かる」

 俺が頷くと、リリィは警備員の前に片膝をつき、額に触れて目を閉じた。

 時間にして十秒ほど。手を触れさせたまま固まっていたリリィだったが、突然顔を上げて目を開けた。

「視えた」

 リリィが手を離し、警備員の首が再びがくりと落ちる。それに構わずリリィは立ち上がった。

「10分もあれば行けそう」

「そうか」

 振り返ってエントランスから推測できる舞台の方向へと目をやる。おそらくこちらの方に目的地はあるはずだ。

「リリィ、通信機は持ってるな」

 内ポケットから手の平サイズの通信機を取り出し、リリィは軽くこちらに振ってみせた。

「照明を落とすタイミングはこっちで合図をする。いいな?」

「任せて」

 ニッと目を細めるリリィに、俺も頷きを返し、舞台に向かって駆け出そうとした。だがそんな俺をリリィは呼び止めた。

「ワンちゃん」

 振り返るとリリィは、いつもならば絶対に見せないような深刻な顔をしていた。

「ここで行われてるのは儀式だよ。妨害されててうまく視えなかったけど……本当に悪趣味な儀式なことだけははっきりしてる」

 本当に深刻な――もしかしたら心配の眼差しを向けて、リリィは俺の目を見てきた。

「何を見ても動揺しないでね」

 俺は数秒答えに窮して固まった後、結局何も答えることができないまま舞台の方に向かって駆け出した。

 舞台への道は入り組んでいなかった。ごく普通の劇場の作りになっているようで、地図を持っていない自分でもまっすぐに目的地へと辿りつくことができそうだ。

 だが、だからこそ妙な違和感を覚えていた。

「警備がいない……?」

 通用口には警備が立っていたというのに、舞台裏にはまるで警備らしき人間はいなかったのだ。足音には気をつけながら駆けるうちに、ある疑念が俺の脳裏をよぎった。

 まるで誘い込まれているみたいだ。

 その疑いを捨てきれないまま突き当たりのドアを開き――俺は舞台そでへと辿りついた。

 警戒しながらそっとドアを開けたというのに、やはりそこには警備の人間はいなかった。何かがおかしいとは思いつつ、拳銃を構えたまま照明に照らされた舞台へと歩み寄る。

 そこにあったのは――白と赤の舞台だった。

 舞台とその中央にある台は真っ白な布で覆われていた。しかし、その白を汚すように、台の近く赤色が積み上がっていた。

 いや、違う。あれはただの赤色じゃない。あれは、だ。

 真っ白なワンピースを着た女性たちが、体から血を流して死んでいる。ある者は腹から。ある者は首から。ある者は背中から。流れ落ちた血は、真っ白な舞台を赤い染みで汚していた。

 ちらりと客席の方を向くと、オペラグラスを構えた男女が舞台の様子を楽しそうに眺めている。

 観客の視線を受ける女性の死体たちの中央、真っ白な台の上には女性が横たわっていた。表情はうかがえないが、呼吸をしているように見える。そんな彼女に、美しいドレスを着た女性が圧し掛かろうとしていた。

 ――女優、アシュレイ・ビヤンドだ。

 アシュレイの唇からは、離れたここから見ても分かるぐらい、大きな牙が覗いていた。アシュレイは女性の首を舐めると、その牙を彼女の首に突き刺そうとし――

「動くな、警察だ!」

 構えた拳銃をアシュレイに向け、俺は思わず舞台へと飛び出してしまっていた。辺りのあまりの異様さに吐き気を覚えながら、しっかりと銃口をアシュレイに定める。

 背後や向かいの舞台そでから警備らしき人間が数人現れてきた。だが、現状はまだこちらが有利のはずだ。

 順番は逆になってしまったが、今照明を落としても奴らに隙はできる。照明が消えている間に警備をなんとかして、彼女――アシュレイ・ビヤンドを確保しなければ。彼女はここで逃がしてはならない人物だ。刑事としての勘がそう告げていた。

 彼女をしっかりと見据えたまま、俺は懐の通信機を取り出してスイッチを入れようとした。

「あら、そんな危ないものを持って。私、怖いわ」

 起き上がった彼女に声をかけられ、俺は思わず彼女の目を正面から見てしまった。

 ――しまった。

 そう気付いた時にはもう遅かった。

 目の前が歪み、息が上がる。体中の筋肉が硬直し、左手に持っていた通信機を取り落とす。なんとか右手に握る拳銃だけは落とすまいと抵抗し続けたが、銃口が震えて狙いが定まらない。

「おいで」

 そう告げられ、俺は引き金に指をかけることも出来ずに拳銃から手を離してしまった。ごとりと重い音を立てて、拳銃は舞台に落ちる。

 俺の足は進みたくもないのにゆっくりと動き始め、立ち上がった彼女の前へと歩いていってしまう。ふらふらと体を傾かせながら彼女の目の前に立ち、そうしてから俺は彼女の前に膝をついてへたりこんでしまった。

「いい子」

 彼女はうなだれる俺の首に手を伸ばすと、その長い牙でその首筋に噛みついた。

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