第3話 精気吸引
電車の窓越しに、ビルの上に掲げられた大看板が見える。看板に書かれた文字は「カーミラ」。吸血鬼をモチーフにした今話題のミュージカルだ。
主演女優の顔を大きく描いたその看板は、電車が進むにつれて他のビルに隠されて見えなくなっていく。
やがて駅のホームに電車は滑り込み、開いたドアの正面の駅名が目に入った。
「ニューカサブランカ」。それが俺が住むこの街の名前だ。
俺の職場であるニューカサブランカ市警本部は街の中心部であるニューカサブランカ駅のすぐそばにある。上からの指示で他の署におつかいをさせられていた俺は、通勤時間でごった返す電車からなんとか脱出した。
何度乗っても電車というのは慣れない。基本的に徒歩か車で移動することが多い上に、夜勤明けの身ではなおさらだ。
歩きながら満員電車でよれてしまったジャケットとネクタイを軽く整えて、俺は市警本部の中へと入っていった。
俺たち特課にあてがわれた部屋は、表玄関からは遠く離れた小部屋だ。
比較的表に近い交通課や生活安全課はともかくとして、刑事課や組織犯罪対策課すら特課よりも表に近い場所にある。
まるで隔離されているようだなとか思いながら、いつも通り部屋のドアを開け、目の前に広がっていた光景に俺は「またか」という顔を作ってしまった。
男に、リリィが、組み敷かれていた。
ここ数日、毎日のように見る光景だ。しかもこの前とはまた違う相手だ。
どれだけビッチなんだと思いながら、俺は大きく咳払いをした。すると、それまでリリィの下半身に跨ったままだった制服姿の男が恐る恐るこちらを見上げてきたので、俺はさらに不機嫌そうな顔を作って男を睨みつけた。
流石に2メートル近い長身から見下ろされるのは堪えたらしく、男は縮み上がると、脱ぎ散らかされていたズボンを慌てて履いて部屋から走り去っていった。
「あ、ちょっと! ……もぉーーー!」
のしかかられていた重量がなくなり自由になった体を跳ね上げ、リリィは閉まっていくドアに文句の叫びを上げた。どうやらまた満足する前に邪魔をしたようだ。
リリィは立ち上がると、俺の前に仁王立ちになり、こちらの顔を見上げてきた。
「本っ当に君って間が悪いよね! まだ一発目も終わってなかったんだけど、どうしてくれるの!?」
「うるさい、下を履け」
むき出しになったままの下半身を指差しながら言ってやると、リリィは大きく舌打ちをした。
どうしてこいつはこうなのか。もしかすると特課がこんな物置に近い部屋に閉じ込められているのは、こいつがあまりにも職場で盛るからなんじゃないか。
来て早々疲れ果てた気分になった俺は自分のデスクに座って、背を丸めてため息をついた。
そうしている間にリリィはズボンを履き直し、自分の椅子にどかっと座って偉そうに仰け反った。
「あーもう喉乾いた! ジュース買ってきて!」
「署内に自販機なんてないだろう」
「外にならあるでしょ! ほら早く!」
「誰が行くか」
「ひどい! どうして言うこと聞かないの! お前、僕の部下なんでしょ!」
「部下だがそんな命令を聞いてやる必要がどこにある」
ワンちゃんの馬鹿! とか言いながらリリィは爪を噛み始める。その横顔はやはりひどく整っていた、ふとあることに気がついて俺は書類に伸ばしかけていた手を止めた。
心なしかリリィの顔色が悪い気がする。もしかして朝飯を食いっぱぐれでもしたのだろうか。
そのままぼんやりとリリィの顔を見つめていると、俺の視線を感じたのか、彼は勢いよくこちらを振り返ってきた。
「何!?」
「何でもない」
これ以上怒りの矛先が向かないように目をそらす。するとリリィは再び椅子に背を預けると爪をガチガチと噛み始めた。
体調が悪いのならセックスなんてしなければいいものを。
だがまあ、低血糖になっているのかもしれない。……ジュースぐらい買ってきてやるか。
そう思い立った俺は、リリィには何も告げず立ち上がってドアへと歩いていった。
するとちょうどその時、ドアは外側から開かれた。ドアを開けた人物と俺はばちりと目が合う。
その人物――特殊鑑識課のヒューガは何がおかしいわけでもないだろうにヘラヘラと笑った。
「おはようございますー。お二人とも仕事ですよお」
ヒューガに連れられてやってきたのは、署の地下に位置する遺体安置所だった。そこで俺たちを迎えた白衣姿の男は、俺を見て無表情のまま手袋をはめた片手を差し出してきた。
「解剖医のトールです」
「あ、ああ。特課に配属されたブラッドだ。よろしく頼む」
一瞬意図がわからず固まった後、握手を求められていることに気づいた俺は彼の手を握った。しかし彼は一瞬だけそれを握り返した後すぐに俺から離れていき、俺が触れた手袋を捨てて新しい手袋を付け始めた。
「早速ですが本題です。こちらに来てください」
きっと潔癖症の気があるのだろう。だったら握手なんて求めなければいいものを。
少し嫌な気分になりながらトールの後をついていくと、俺たちはとある死体の前に案内された。
その死体は若い女性のものだった。解剖に不要だったのだろう。衣服は全て剥ぎ取られ、血の気が全くない肌を晒している。
「彼女、血がなかったんです」
言葉足らずなその言い方に疑問を覚えながらも俺は尋ね返した。
「現場の血痕か? どこかで殺されて動かされてきたってことでもないのか?」
「ええ、現場の血痕もありませんでした。ですが血痕がないだけではないんです。見てください」
四角形に切れ込みが入れられた腹の表面がべろりとめくられる。見て気持ちのいいものではないので俺は顔をしかめたが、捜査一課にいた頃に死体の相手なら山ほどしたことがある。それを思えば何ということはないただの死体の検分のはずだったのだが――死体の相手をしたことがあるからこそ、俺はその違和感に気づいたのだった。
「肉の色が妙だな」
「はい。ですから『血がない』と」
血液というものは体内を巡っている時は赤いが、外に出た途端に黒く変色し始める。その上、死体であるのならば血が腐って独特の色になっているはずなのに、それも見られない。
「解剖してみても、綺麗に血抜きがされた肉のように彼女の体内には血が残されていなかったんですよ」
どういうことかとトールを見ると、彼はめくっていた切開跡を戻し、死体の彼女の首筋あたりを指差した。
「手がかりはココ」
そこにはまるで太い針で開けたかのような穴が動脈の上に二つ並んでいた。しかし傷跡であるはずなのに血は一滴も残されていない。
「被害者にはここ以外に外傷はありません。すなわち、被害者はここから身体中の血液を全て抜き取られたことになります」
血が抜き取られた死体。首筋に残された二つの傷跡。俺はとあるありえない考えに取り憑かれ、それを口に出してしまいそうになった。
「これじゃあ、まるで――」
「――吸血鬼の仕業みたい、ですか?」
先んじてトールに言われた言葉に、我ながら馬鹿げた考えを持ってしまったと反省する。刑事は不可思議なものを解き明かす職業だと分かっているはずなのに、と自己嫌悪に浸る。
しかしトールはそんな俺に平然と答えた。
「そうかもしれませんね」
「……は?」
「ありえますよ、吸血鬼が犯人だっていうのは」
あまりにも当然のようにかけられた言葉に、俺は困惑して何かを言い返そうとした。
「だが」
そんなことがありえていいのか。それを言い切る前に、トールはぴしゃりと俺の話を遮った。
「それを解き明かすのが特課の仕事でしょう」
特課の仕事。
ここに配属されて数日、他の課の雑用ばかりをやらされ、教えられなかった仕事とやらがここに関わってくるのだろうか。こんな不可思議な事象を解決する仕事だなんて。
だが、それを解決する方法ならば心当たりがある。
「リリィさん」
トールの呼びかけた先を振り返る。そこには、壁に寄りかかってこちらを睨みつけるリリィの姿があった。
「上からの命令です。『触って』ください」
「やだね」
つんっと顔を背けてリリィは答える。
「気分が悪いからやりたくない」
「我儘は通じませんよ」
「我儘じゃないもん、事実だもん」
「それを我儘だと言うんです」
トールは白衣をひらめかせてリリィに詰め寄っていく。その様子は獣を追い詰める獣医師か何かのようで、今はリリィが我儘を通しているが、このままでは間違いなくトールの言動がリリィを無理矢理従わせることになるだろうという予感さえした。
事件をただ追うのであれば成り行きに任せるのが一番だったのだろう。だが俺は、怒りを見せるトールを見て、気だるそうにしているリリィを見て、ほとんど無意識のうちに二人の間に割って入ってしまっていた。
「待て」
トールの冷たい視線が俺に突き刺さる。俺は真正面からそれを受け止めて言葉を発した。
「こいつ、本当に体調が悪そうだ。少しだけ後でもいいか?」
彼は探るような視線をじっと俺の顔を向けてきた。その視線はやっぱり獣を無理矢理従える類の獣医師の目のようで、明らかに俺を従える方法を見つけようとしているようだった。
だがだからこそ俺は彼から目を逸らさなかった。
一秒、二秒、三秒。
リリィを後ろに庇う形で、俺たちは睨み合っていた。そしてたっぷり十秒は経った頃、不意にトールは視線を逸らし、俺たちに背を向けて死体の方へと歩いていってしまった。
「分かりました。ただし、1時間だけですよ」
そのまま何かの作業を始めてしまったトールを見て、リリィは早々に遺体安置所から出ていってしまった。
その背を追いかけて外に出ると、廊下の壁に背を預けて俯くリリィの姿があった。リリィの顔色はいよいよ悪く、貧血でも起こして倒れてしまいそうにも見えた。
「リリィ」
「……ありがと。助かった」
俯いたままぼそりとリリィは答える。そのしおらしい様子に面食らった俺は、思わず心底素直な言葉が口をついてしまった。
「……調子悪そうだな。大丈夫か」
「お前が来てからずっとセックスしそこねてるんだもん。調子も悪くなるよ」
そう言いながらリリィはまた爪を噛み出す。まるでセックスが精神安定剤か何かのような物言いに呆れのようなものを覚えながらも、彼の横の壁に背を預ける。背中の壁はひんやりと冷えていた。
「なあ、お前のサイコメトリーってやつは……」
尋ねかけた言葉は突然ネクタイを引かれた勢いで遮られた。ネクタイとともに首が引かれ、俯いた俺の唇にリリィの唇が重なる。
俺は一瞬考えてから、自分がキスをさせられている格好になっていることに気がついた。
慌ててリリィを突き飛ばし、なんとか自分から引き剥がす。動揺からなのだろうか、心なしか足元がふらつく気がした。
「な、何をっ……!」
「はー、充電完了!」
これまでとは打って変わった明るい声でリリィは言葉を発する。そうしてからうーんと伸びをすると、機嫌の良さそうな顔でこちらを振り向いてきた。
「で? 何を『触れば』いいんだっけ?」
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