第2話 サイコメトリー

「……は?」

 一瞬何を言われたのか分からず、俺は硬直する。そしてその直後、リリィの言葉をなんとか飲みこみ、彼の手を振り払って距離を取った。

「はぁ!?」

「えーそんなに驚かないでよ、初心だなあ。……その分じゃやっぱり童貞なんだね? まあ知ってたけど」

 乱暴に腕を振り払われたことを意にも介さず、リリィはひらひらと手を振って自分の席へと戻っていく。

 一体何だったんだ……。

 そんな言葉を飲みこみながら俺は床に置いていた段ボールを持ち上げて自分のデスクへと乗せる。しかしその時、リリィは聞き捨てならないとんでもないことを言い出した。

「ブラッド・ハウンド、ね。じゃあ君は今日から僕のワンちゃんってことだ」

「はぁあ!?」

 ハウンドという名字から連想したあだ名だろうが、当然それは俺にとっては屈辱的なものでしかなかった。俺は今まで困惑に押し隠されていた怒りがふつふつとわきあがってくるのを感じ、足音荒く彼のデスクに歩み寄ると、先程のように偉そうに椅子に座るリリィを睨みつけた。

「ふざけるのも大概にしろよ。いくらお前が偉いって言ってもな、何もかもお前に従う気はないからな」

「あっそ。じゃあこの課も追い出されて職を失ってみる?」

 軽い調子で言われた言葉に俺は肩を震わせて動きを止める。それだけは困る。こんな閑職に追いやられたとしても、警察にいる限りは捜査一課に戻してもらえるチャンスもあるかもしれない。だけど、そもそも警察を追い出されてしまったら――

 逡巡する俺に厳しい視線をよこしていたリリィは、その数秒後にぷっと噴き出して笑い出した。

「あっははは! ウソウソ。そんなことするわけないじゃん。折角手に入れたワンちゃんなんだもん。文字通り『死ぬまで』こき使ってあげるからさ」

 大袈裟に強調された言葉にさらに神経を逆なでされる思いがして、俺は両手の拳をきつく握りしめる。

 駄目だ。殴っちゃ駄目だ。相手は警官、それも上司だぞ。でも殴りたい。このふざけた奴をぶん殴ってしまいたい。

 わきあがってくる衝動を押し殺し、足に力を込めて詰め寄ろうとするのを堪える。するとその時、何の予告もなしに部屋のドアが開かれ、一人の刑事が姿を現した。

「おい、淫乱」

「あ。どしたの、レナート警部」

 それは俺にも見覚えのある人物だった。レナート・アルヤード。捜査一課所属の警部だ。

 俺とレナート警部は一瞬視線が合ったが、彼はすぐに俺から目を逸らすと、偉そうに座るリリィの前へとつかつかと歩み寄った。

「仕事だ。この現場に急行しろ」

「えー」

「えーじゃない。ここにいる以上は職務を果たせ」

「……チッ、はーい」

 露骨に舌打ちをしながらもリリィがそれを承諾すると、レナートは無感情にそれを確認し、来た時同様につかつかと規則正しい足音を立てて去っていった。

「あーもうしっかたないなあ」

 リリィはふーっと大きく息を吐くと、椅子からぴょんっと立ち上がり俺の目の前へとやってきてこちらの胸あたりに手を触れさせた。

「うんうん。ワンちゃんは特課の仕事について知りたいんでしょ、分かるよ」

 やたらとスキンシップの多いリリィから一歩距離を取りながら、俺は彼を軽く睨みつける。

「着いておいで。特別に僕が教えてあげよう」



 リリィの言い様に苛立ちながら彼についていくと、連れていかれた先はとある雑居ビルだった。ビルの周囲は警察車両によって封鎖されており、明らかに尋常ではない何かが起きた後だということが窺い知れた。

 慣れた様子でずかずかと現場に入っていくリリィの後ろを歩いていくと、リリィはビルの前で立ち止まり、ビルを睨みつけ始めた。

 何をしているのか分からずにそれを見ていることしかできない俺に、その時、不意に声をかけてくる人物がいた。

「あ。もしかして特課の新人さん? はじめまして、特殊事件鑑識課のヒューガです。多分長い付き合いになると思うので、よろしくねえ」

 ぺらぺらと喋る彼は、背の低い東洋人の男だった。男は手袋のはめられた手で俺の手を掴むとぶんぶんと振って握手をしてきた。

 そんな俺たちに気付いたのか、リリィはこちらを振り向いて、不機嫌そうにヒューガを見た。

「えーまた君ぃ? 他の鑑識課の奴は来ないの?」

「来ませんねえ。だって他の人呼んだら、リリィさん食い散らかしちゃうでしょ、性的に」

「……君って僕になびかないからあんまり好きじゃないんだよね」

「僕は心に決めた相手がいますから」

「うわ。気持ち悪っ」

 内容はあまり理解したくなかったが、軽口を叩きあう彼らの仲はそれなりに良いようだった。リリィは親指で後ろに立つ俺のことをくいっと指してきた。

「今回『触る』のって死体じゃないよね。僕、こいつのせいで今日食いっぱぐれて『触る』余裕ないんだけど」

「大丈夫ですよ。死体は既に片付けてありますから。ささ、こっちです」

 へらへら笑うヒューガの後について俺たちはビルの中へと入っていく。彼が俺たちを案内したのは、雑居ビルの三階にあるトイレだった。

「うわっ、トイレかぁ。行きたくないなあ。こんなとこのトイレとか汚いに決まってんじゃん」

 うげえと声に出しそうな表情でリリィは文句を言う。それを無視してヒューガはさっさと説明を始めてしまった。

「事件が発覚したのは今朝のことです。このトイレで刺殺体が発見され、警察に通報が。しかし凶器は見つかっておらず、犯人の目星も全くついていない現状です」

 持っていたバインダーをぱたんと閉じながらヒューガは言う。そうしてから彼は、まるでおだてるような姿勢で手を揉みながらリリィへと近づいていった。

「ささ。リリィさん。現場の床にでもぱぱっと『触って』解決しちゃいましょう!」

「はぁ? 嫌だけど? トイレの床なんてどうして触らなきゃいけないのさ」

「ですよねえ。そう言うと思ってました」

 ヒューガはわざとらしく肩を落とし、ため息を吐く。

「じゃあ遺留品を探してそれに『触り』ましょう。それでいいですよね?」

「好きにすれば?」

 『触る』というのがどういう意味かは分からなかったが、遺留品を探すということだけは理解できた。俺は背後にいたリリィを振り返った。

「分かった。じゃあ一緒に――」

「何言ってんの? こんなのは君の仕事だよ」

「は?」

 腕を組んだままこちらを見上げてくるリリィの視線には明らかにこちらを馬鹿にする色が含まれていて、俺はこめかみに青筋が浮かんだ気がした。

「僕は頭脳労働。君は肉体労働。分担って言葉も知らないの? 本当に馬鹿犬だなあ」

「このっ……!」

 さらに罵倒され、いよいよ怒りが抑えきれなくなってきた俺は、拳をリリィに向かって振り上げようとした。しかしそんな俺たちの間に割って入ってきたのはヒューガの持つバインダーだった。

「まあまあ、リリィさんは言い出したら聞きませんから。さ、探しましょ探しましょ。はい、手袋」

 白手袋を押し付けられ、咄嗟にそれを受け取ってしまう。そのまま鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気でヒューガはトイレの中へと消えていった。俺は手袋とリリィを交互に見たが、彼にしっしっと手で追い払われ、苛立ちながらもトイレの中に入っていった。

「必要であれば色々と動かしてしまっていいですよお。既に通常の鑑識は入った後ですから。じゃんじゃんひっくり返して遺留品を探していきましょうねえ」

 トイレの中には個室が三つあった。その中の一つの前にはおびただしい血痕が残っており、テープで人が倒れたあとが囲われている。

「聞きましたよ。元は捜査一課の刑事さんなんですってね」

 個室のドアを開いて頭を突っ込みながら、ヒューガは切り出してきた。こちらを見ないままの言葉に、俺は手を止めてヒューガを見た。

「まあ何をやらかしたのかは聞きませんが、刑事で培ってきた鼻を生かしてこれから頑張ってくださいねえ」

 ヒューガは床に膝をついて個室の中を探し回っている。俺もトイレへと向き直った。

「鼻、ね……」

 確かに十年来の刑事としての勘はあるのかもしれない。この課でずっと働き続けるつもりは当然ないが、今までの経験を活かせるのは幸運だろう。

 ドアを開き、トイレの中に入る。正面にあったのは、くすんだ白の便器だ。顔をしかめながらその前にしゃがみこもうとしたその時、ある香りが文字通り鼻をくすぐった。

 これは、つい最近嗅いだばかりの匂いだ。鼻の奥が痺れるような甘くて強い匂い。中腰になっていた俺は立ち上がるとトイレの中を見回した。

 トイレの中にあるのは、便座、タイル、それから壁の角に固定されている花の絵が描かれた消臭剤だった。

 何気なくその消臭剤を覗きこむ。それの上には穴が開いており、どうやらその中に何か細長いものが入っているようだった。

「これは、医療用のメス……?」

「おお、お手柄ですねえ! それきっと凶器ですよお!」

「うおっ」

 突然背後から聞こえてきた声に振り向くと、いつの間にか俺の後ろには俺と同じように消臭剤を覗きこむヒューガの姿があった。

「びっくりした……」

「へへ、よく自分、気配が消えるって言われるんですよお」

 ヒューガは照れて頬を掻く。俺がそれを困惑の目で見ていると、ヒューガは消臭剤を指さしてきた。

「凶器、こちらに渡してもらえますか?」

「あ、ああ。ちょっと待ってくれ」

 言われるままに消臭剤に手をかけ、凶器を取り出そうとする。しかし、消臭剤はしっかりと台座に留められてしまっていて、軽く手で引くだけではびくともしなかった。

「駄目だ、すぐには取れない」

「あちゃー消臭剤が完全に台座に固定されちゃってますねえ」

「壊してもいいなら取るが」

「まあまあ、穏便にまとまるのなら穏便にいきましょう。これはリリィさんにここに来てもらうのが一番です」

 言うが早いか、ヒューガはトイレの外へと出ていってしまった。

「リリィさぁん。遺留品ありましたよお」

 俺はもう一度消臭剤をうまく取れないかチャレンジした後、壁ごと破壊しそうだったので大人しく諦めることにして、彼の後を追った。

「えー! 僕が汚いトイレの中入るの!? やだよ! なんで僕が!」

 トイレの外扉を開けて早々に聞こえてきたのは、リリィの大声だった。

「ですから、証拠が動かせない場所にあるんですって。どうしてもリリィさんの協力が必要なんですよお」

「はぁ? そんなわけないでしょ。タイルでも扉でも、剥がしてここに持ってくればいいだけの話じゃない」

「そうもいかないんですよお。確かにそうしたいのはやまやまなんですが、そうすると普通事件の鑑識課からものすごーく睨まれるんですって」

「君たちの事情なんか知ったこっちゃないね。ほら、さっさと持ってきなよ。でなきゃ絶対に『触って』やらないから」

「ええー! 困りますよお!」

 絵に描いたような子供のわがままだ。俺は二人のやり取りを見下ろしながら五分ほど静観していたが、やがて我慢がならなくなり、組んでいた腕をほどいて、リリィの手首を掴んで歩き出した。

「え、ちょっと!」

「遺留品を見つけてこいと言ったのはお前だろう。さっさと来い!」

 引き摺るようにしてリリィを件のトイレの前に連れてくる。ヒューガも慌ててその後を追いかけてきた。

「あの消臭剤の中に凶器がありますので、『触って』ください」

 手を離してトイレの前で解放してやると、リリィは握られていた手首を掴んで少しの間俯いていた。

「どうした」

「な、なんでもない!」

 すぐに顔を上げ、リリィは消臭剤の方を見る。

「リリィさんお願いですからあ……このままじゃ捜査が進まないんですよお……」

「……チッ、分かったよやるよ! やればいいんでしょ!」

 わざとらしい仕草で泣き言を言うヒューガには目もくれず、リリィは消臭剤へと歩み寄った。そして、指を消臭剤に伸ばすと、その表面にただ『触れた』。

 そのまま動かなくなったリリィを不審に思い、傍らのヒューガに目をやると、彼はリリィを注視したまま小声で答えた。

「サイコメトリーですよ」

「サイ……?」

「いわゆる超能力ってやつですよ。リリィさんは遺留品に残された情報を読み取って事件を解決することができるんです。反則技ですよねえ」

 そんな馬鹿なことがあるものか。ドラマじゃあるまいし、そんな都合のいい能力があるはずはない。だけど出会った時に個人情報を言い当てられたのも事実だ。まさか、もしかして、本当にそんなことが……?

「ま、それでもすぐに解決できない事件もあるんですけどね」

 ほとんど口の中でぽつりと呟かれた言葉に再びヒューガの方を見て、俺はびくりと肩を震わせた。今まで笑顔が張り付いていたはずのヒューガの顔は、まるで感情が削ぎ落とされたかのような表情をしていたのだ。

 俺はそんな彼にどう返事をすればいいのか分からず、沈黙することしかできなかった。

 そんな俺たちの間を引き裂いてきたのは、足音荒くトイレから出てきたリリィだった。

「ちょっと、ヒューガ!」

「はいはい何でしょう、リリィさん」

「これ特殊事件でもなんでもないじゃん! ただの殺人事件だよ! 僕が出る幕でもなかったよね!?」

 びしっと消臭剤を指さしてリリィは声を荒げる。ヒューガはへらっと笑った。

「あちゃー。そうだったんですねえ。それで、事件の犯人は?」

「知らないよ! 自分たちで考えたら!?」

「そんなこと言ってるとまた減給されますよお」

 軽い調子で宣告された言葉に、リリィはうっと言葉に詰まる。どうやらこいつでも給料を貰えないのは痛いらしい。

 リリィはむすっと不機嫌そうな顔を作りながら、渋々言った。

「あとで報告書にまとめるから。それでいいでしょ」

「はい。早めによろしくお願いしますね」



 未だ信じがたい『捜査らしきもの』を終えた俺たちは、現場から署への道を歩いていた。俺の前には不機嫌そうに唇を尖らせながら歩くリリィがいる。だけどそんな表情も様になっていて、道行く若い女性たちからはちらちらと視線を受けているのを感じた。

「なあ、リリィ」

「さんをつけなよ。仮にも上司だよ?」

 ちょっとしたことを尋ねようと、声をかけただけでこの返答だ。苛立った俺は、あえて彼の命令を聞いてやらないことにした。

「……そうかよ、リリィ」

「あ?」

 リリィは立ち止まり、俺よりも低い位置から俺のことを睨みつけてくる。しかし、数秒経っても俺が怯まないことを知ると、フンと鼻を鳴らして再び署に続く道を歩き始めた。

「で、何? 何か言いたいことでもあったんじゃないの?」

 長い足を動かしてリリィは歩いていく。俺は「ああ」と答えると、その背中に尋ねた。

「さっきから気になってたんだが……なんでお前トイレの消臭剤の匂いがするんだ?」

 数秒間、返事がなかった。歩みも止まらない。

 もしかして無視されたかと思い始めた時、突然リリィは振り返り、大声で怒鳴ってきた。

「……はぁ!?」

 どうやら俺の言葉を消化するのに時間がかかっていただけのようだ。だが、そんなに怒るような質問だっただろうか。

「まさかそれ僕の香水のこと言ってる!?」

「あ、ああ、香水だったのか」

「香水だったのかって……、信じられない! 信っじられない!! 言うに事欠いてトイレの消臭剤!? 僕が! この僕から消臭剤の匂いがしてるって!? 鼻腐ってるんじゃないの!?」

 完全に素直な感想を伝えただけだったのだが、ここまで怒るとは思わなかった。リリィは悔しそうに顔をしかめると何度か地団太を踏み、ほとんど泣きそうな顔で俺に人差し指を突き付けた。

「明日から散々いびってやるから! 覚悟しろよこの犬!!」

 そう言い残して、リリィは走り去っていった。

 一人残された俺は何度か目を瞬かせた後、無意識ではあるがしてやったような気分になり、小さく声を上げて笑ってしまった。



 これが俺とリリィの出会い。

 後にどうしようもなく離れがたい関係になる俺たちの出会いだった。

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