第13話 起き上がる死人

 翌日、早朝に俺たちは署の前に集まっていた。昨日まではあんなに晴れていた空も今日は曇り、落ちてきそうなほどの低い雲がどんよりと立ち込めている。

「遅いぞリリィ」

「髪型がきまらなかったんだから仕方ないでしょ! ほら行くよっ!」

 十数分遅れてやってきたリリィの先導で、駅まで歩いていく。行き交う人々の手には傘があり、自分たちがそれを忘れたことに気がついたが、わざわざ取りに戻っていたら遅れてしまうだろう。ただでさえリリィのせいで時間の余裕がなくなっているのだから。

 あの男に指定された『空の国』の拠点のうちの一つは、街の中央からは外れた住宅街の近くにあった。

 住宅街を歩いていくと、突如現れる白いドーム状の施設。施設の周りには柵が張り巡らされ、簡単には侵入できないようになっている。

「こんなところにこんな施設があったのか……」

 思わずぼんやりとつぶやく。そんな俺の隣で、リリィは真剣なまなざしで施設をにらみつけていた。

「ねえワンちゃん」

「なんだ」

「……ワンちゃんは優秀な猟犬だよね?」

「は?」

 突然すぎる問いかけに、思わず間抜けな返答をしてしまう。発言の意図を汲もうとリリィの横顔に目をやると、リリィは施設を見て固まっていた視線をふとこちらにやり、ふっと微笑んだ。

「なんでもない。ちょっと嫌な予感がしただけ」

 はぐらされたような気分になり、俺はさらに尋ねようとした。しかしそんな俺たちの背後から、突然男が声をかけてきた。

「あー、ちょっとちょっと。そこの二人」

 振り返るとそこにいたのは、五十代ほどの男性だった。男性は俺たちの顔を見比べて尋ねてきた。

「見ない顔だね、もしかして野次馬か報道関係の人?」

「あ、ああまあ、そんなところだ」

 むやみに身分を明かすのも不用心かと、言葉を濁して答える。すると、男性は急に心配そうな顔になった。

「興味本位なだけなら、あそこに行くのは止めといたほうがいいよ」

「……どういうことだ」

 眉をひそめて尋ね返すと、男性はこちらに顔を寄せて、これは内緒なんだけど、と前置きしてから言った。

「なんでも信者以外が一度入ったら、二度と帰ってこれないって噂なんだよ、あの施設」

 二度と帰ってこれない。

 その言葉の不穏さに、俺はリリィと目配せをする。

 もしそれが本当なら、殺人の疑いに加えて、監禁罪を犯している可能性もある。緊張する俺たちを置いて、近隣の住民だったらしいその男は去っていった。

「どう思う」

「分かんないね。だけど……」

 リリィは施設に目をやって睨みつける。

「来た人間を帰さず監禁しているにしては、ちょっとここは狭すぎない?」

「ああ、同じことを俺も思っていた」

 ドーム状のあの施設は、巨大ではあるが豪邸二つ分の大きさほどしかない。庭を含めたとしても三つ分だ。とても侵入者全員を収容できるほどのものではないだろう。

 だとすれば一体どういうからくりなのか。

「ああ、お二人とも、いらしてくれたんですね」

 飛んできた声の方にバッと顔を向けると、そこには昨日警察署に足を運んできた信者の男が立っていた。

「『空の国』の拠点にようこそ。歓迎いたします、ブラッド様、リリィ様」

 名前を言い当てられて改めて俺たちに緊張が走る。男はそんな俺たちに構わず、大げさに一礼をして名乗った。

「申し遅れました。私、教主ショーン様の側近をしております、ネイザムと申します」

 彼のその細い目の奥に光るまとわりつくような光を見て、俺は自然と顔をしかめていた。

 そんな俺に構わずネイザムは俺たちに背を向けた。

「ささ、入口はこちらですよ」

 俺は警戒して素直についていくのを躊躇ったが、リリィはそのすぐあとをすたすたとついていった。だが警戒していないわけではないようだ。その足取りはいつものおちゃらけたものではなく、靴裏では均一で硬質な足音を立てていた。

 ネイザムが俺たちをつれていった先には、五メートルはありそうな巨大な門があった。住宅街にふさわしくないそれは、大理石か何かでできているようで濁った白色をしていて、目の前に立つ俺たちを威圧してきた。

 一度振り返り、にこりと笑って、ネイザムは施設に続く庭へと歩いていってしまう。俺たちはその後をしかめっ面のまま歩いていった。

 都会にふさわしくない緑あふれる庭を通り過ぎると、例のドームの入口が俺たちの前に姿を現した。自動ドアらしきその入口の前に立っていたのは、十歳ほどの一人の少年だ。

「本日、お二人の案内をつとめますマーカスです」

「よ、よろしくお願いしますっ!」

 緊張した面もちで少年はぺこりと頭を下げる。まとっている衣服は整っているが、なぜだか育ちがいいわけではない少年だという印象を受けた。

「では私はこれで。マーカス、きちんとお役目を果たすのですよ」

「はいっ、ネイザム様!」

 敬礼に似たポーズを取ってマーカスは答える。それを見たネイザムは満足そうに頷くと、ドームに沿って別の場所に行ってしまった。

「……裏口か?」

「はい! 幹部のみなさまだけが通れる裏口があるんですよ!」

 ぽつりとこぼした呟きに返事され、俺はぎょっとした目をマーカスに向けてしまう。彼はにこにことした笑みを俺に向けてきた。リリィは警戒した表情を崩さないまま、マーカスに話しかけた。

「ねえ、今日は君がこの中を案内してくれるんだよね」

「はい!」

「……それって、どんな裏道も見せてくれたりする?」

「ええと、それは……」

 突然の申し出に、マーカスは困った顔をする。リリィは唇で弧を描くと、かがみ込んでマーカスの額に額を寄せて囁いた。

「だめ?」

「え、あっ、う……」

 見る見るうちに真っ赤になっていくマーカスの耳にリリィは軽く口づけを落とし、再度問いかけた。

「ね、つれてってくれるよね?」

「ひゃ、ひゃい……」

 可哀想にぷるぷると震えながらマーカスは答える。捜査の一環とはいえ、子供相手にまで色仕掛けを使うだなんて、後できっちり話し合う必要がありそうだ。

 眉の間がきゅっと寄るのを自覚しながらそれを見つめていると、マーカスはふらふらとリリィから離れ、自動ドアの方へと歩いていった。

「それではお客様方……」

「リリィだよ。こっちはワンちゃん」

「……ブラッドだ。今日はよろしく頼む」

 ふざけた紹介をしたリリィを一度睨みつけた後、易々と本名を教えてしまっていいものかとは思いながらも名乗る。

「ええとでは……リリィさん、ブラッドさん」

 マーカスが一歩踏み出すと、きしむような音を立てて自動ドアが開く。

「ようこそ『空の国』へ」

 緊張した、しかし取り繕ったわけではなさそうな笑みでそう言われ、誘われるがままに俺たちはドームの中へと入っていく。

 入ってすぐのエントランスはかなり広く取られていた。大勢の人間がやってきても対応できるようにだろうか。

 受付の前を通り過ぎ、大扉を通り抜ける。そこにはこれまでとは打って変わって豪奢な空間が広がっていた。

「ここが談話室です」

 談話室の中には複雑な刺繍入りの高級そうなソファが並び、その横にある机にも彫刻が施されている。壁には巨大な本棚があり、自由にその中身を読めるようになっていた。

「信者の方々は礼拝や儀式の前はこちらでくつろがれるんですよ」

 歩いていってしまうマーカスに従って、俺たちも談話室を後にする。談話室のすぐ近くには、比較的狭くて白い部屋があった。

「ここは洗礼の間」

 部屋の中央には水を入れられた皿が鎮座している。

「手でも洗うのか?」

「はい、水で手を清めて……それから礼拝堂に向かうんです」

 マーカスは自分の手を水に浸した。俺たちもそれにならって手に水をつける。その様子を満足そうに見ていたマーカスは、俺たちを連れて次の場所へと歩いていった。

「こちらが礼拝堂です」

 今までの部屋よりも天井が高いその部屋には、長椅子がいくつも並べられており、前には説法台らしきものが置いてあった。ただし、普通の宗教施設によくあるようなステンドグラスなどの装飾品はない。

「今のところ、不審なところはなさそうだな」

「うん。開放感がないのだけは不満だけど、それ以外は普通の宗教施設って感じ」

「……どうかしましたか?」

 ぼそぼそとリリィと言い合っていると、不安そうな顔をしたマーカスが近づいてきた。彼はこの宗教の純粋な信者だ。どう答えたものかと思案していると、マーカスは何かに気がついた顔をした。

「あ。もしかして入った者は帰れないって噂ですか?」

「え? ああ、そうだ。そうだとも」

 不意にこちらが気になっていた話題を振られ、動揺しながらもそれを肯定する。するとマーカスは首を傾けて苦笑いをした。

「あれって、簡単な話なんですよ」

「簡単な話?」

 マーカスは何の悪意も感じられない笑顔で言い放った。

「一度入ってきた方は、全員信者になって帰って行くという話なんです」

 その言葉の内容に、俺は一瞬思考が停止して、彼の顔を凝視してしまう。彼は相変わらずにこにこと笑ったままだ。その話を純粋に信じ、誇りに思ってさえいるように感じられる。

 どういうことだ。全員が信者になる? そんな馬鹿げた話があるはずがない。勧誘されてやってきた人間はまだしも、今までもここにマスコミの類や、信者の親類も訪れているはずだ。そのすべてを信者にするだなんて、どんな宗教にも不可能だ。

 だとするなら、まさか――

 ――まさか、それだけに足る奇跡か何かを、ここの教主は成せるとでもいうのか。

「ねえ、マーカス」

 リリィの声にハッと正気に戻った俺は二人に目をやる。リリィは少しかがんで、マーカスと視線を合わせていた。

「ここの教主様は死人を蘇らせるって聞いたんだけどさ、あれって本当?」

「はい、本当ですよ! 教主様は不死の力を信者にお与えになる力をお持ちなんです!」

 まるでその様子を見たことがあるかのように堂々と、マーカスは答えた。リリィは上半身を持ち上げながら目を細めた。

「力を与える、ねぇ……」

 ぼそっと呟かれた言葉に、心当たりでもあるのかと問いかけようとしたその時、リリィはマーカスに抱きついてその頭に顔を乗せた。

「ねーマーカス。そろそろ約束通り、見せられない場所に連れていってほしいんだけどなー?」

「ひぇっ、た、ただいま!」

 リリィの腕の中から解放されたマーカスは逃げるようにしてとある場所へと俺たちを案内していった。

 談話室と洗礼室の間、スタッフの通用口のようになっている小さな扉を開けてしばらく歩いていくと、ドアが狭い間隔でいくつも並んだ通路へと出た。

「ここから先は僕たちの居住区です」

 通路を歩いていきながらマーカスはそう紹介する。リリィはその言葉に食いついた。

「居住区? そんなものもあるんだ」

「はい! 僕たちは教主様に拾ってもらった身なので、この施設が家代わりなんです!」

 開けた場所に出る。そこには遊具がいくつかと、その近くから警戒したまなざしをこちらに向けてくる少年少女の姿があった。

 それを見回し、リリィはマーカスに問いかける。

「じゃあ君たちは元浮浪児なんだね?」

「はい。ここに拾ってもらえなかったら、きっと今頃僕ら死んでしまってました……」

 照れくさそうに顔を伏せるマーカスをよそに、俺とリリィは顔を寄せて言葉を交わす。

「彼らに戸籍はない、と」

「……警戒する必要がありそうだな」

 軽く頷きあってマーカスに視線を戻すと、彼は心配そうな顔でこちらを見上げていた。

「あ、あの、この場所を案内したってことは教主様たちには……」

「言わないよ。どうもありがとう」

 リリィは綺麗な笑顔をマーカスに向ける。マーカスは一気に顔を真っ赤にして、焦った様子で俺たちを先導しはじめた。

「ええと、元の場所に戻りましょう! これ以上長居したらバレちゃいますから……!」

 足早に歩き去っていくマーカスの後をついて、俺たちは居住区を後にする。ちらりと振り返ると、やはり子供たちはこちらに警戒の目を向けていた。

 マーカスの後ろを追いかけてさらに歩いていくと、急に大きな劇場のような場所に出た。防音の分厚い扉にとざされていたそこには、円形に座席が配置され、その中央に舞台らしきものがあった。

「ここは?」

「見ての通り儀式の間です。あそこで儀式が行われるんですよ」

 指さされた舞台は真っ白な色をしていた。だけどその中央にはぬぐい切れずに染みついた何かのシミが遠くからでも視認でき、ここで何らかの犯罪行為が行われているであろうことを示していた。

「どうぞ座ってください」

 中段真ん中あたりの席に案内され、座らされる。そして俺たちの隣にマーカスも座った。

「僕、拾われてからここから出たことないんです」

「そうなんだ。……窮屈じゃないの?」

「……そりゃあ窮屈に感じることもありますけど、それでもここには本当によくしてもらっているし、ここにいられることは幸せなんです!」

 マーカスからの聞き取りはリリィに任せて、俺はあたりを警戒する。だが、俺たち以外の人間はこの儀式の間にはいないようだった。

 ふと二人に目を戻すと、ちょうどリリィがマーカスに問いを投げかけたところだった。

「どうしたの、そんなにそわそわして」

 マーカスはそれまでせわしなく泳いでいた視線を伏せ、ぶらつかせていた足も止めた。

「えっと、あの、もうすぐ時間なので落ち着かないんです」

 恥ずかしそうにマーカスは言う。

 時間。何の時間だろうか。

「僕、今日お役目に選ばれたの、すっごく嬉しくて! だけどものすごく緊張もしてて……」

 マーカスはもじもじと手を動かした後、意を決した表情でリリィを見た。

「あの! 僕、リリィさんに晴れ姿を見てほしいんです!」

「……晴れ姿?」

「僕、頑張るので! ……ちゃんと見届けてくださいね?」

 妙に意味深な言い方でマーカスは言う。俺は身を乗り出してマーカスに尋ねようとした。

「なあ、そのお役目だとか晴れ姿っていうのは一体……」

 その時響いたのは、けたたましいベル音。何の音かと言葉を止めた俺の前で、マーカスは懐から時計を取り出して文字盤を確認した。

「あっ、時間だ!」

 ベルの音を止めて、マーカスは座席から立ち上がる。

「すみません、僕はここで!」

「あ、ちょっと!」

「ここで待っていてください! もう少ししたら始まりますから!」

 呼び止めることもできないまま、マーカスは儀式の間の外へと走っていってしまった。

「なんだったんだ……」

「分からないけど――嫌な予感はするよね」

 それからほんの数分後、儀式の間には続々と人間が入ってきていた。着ている服装はごく普通のもの。しかし、その顔には一様に目元を覆う仮面がつけられていた。

「……ここの信者ってとこか」

「だろうね。仮面なんてつけて悪趣味な奴ら」

 俺たちを避けるようにして埋まっていく座席を見回し、それから俺はリリィに視線をやった。

「……リリィ」

「何?」

「そろそろ動かなくていいのか」

 リリィはこちらに真剣そうな視線をよこしてくる。俺は声を潜めて言った。

「この場所、この信者たち。今からここで何かが行われるのは確かだろう。だったら――」

「大丈夫だよ。もし何かあっても、いや、むしろ――何かが起こったなら現行犯でこいつらを逮捕できる」

 遮るようにして言われたその言葉の意味を理解するまで数秒かかった。そしてそれがどういう意味なのかを知った直後、俺は思わず腰を浮かせて声を荒げてしまっていた。

「お前っ! まさか現行犯にするために、一人殺させるつもりじゃ……!」

 抑えた声であっても周囲には響いてしまったらしい。信者たちの視線がちらちらとこちらに向けられている気がして、俺は座席に腰を戻す。リリィはそんな俺を冷たい目で見やった。

「馬鹿だねワンちゃん、ほんと馬鹿。それをさせないためにワンちゃんがいるんでしょ」

 目をまたたかせる俺の胸元を指さして、リリィは眉を顰める。

「その銃は何のためにあるの?」

 服の上からホルスターにさしてある拳銃を押さえてハッと気づく。

 そうか。この場所であれば、仮にろくでもない儀式が行われそうになったとしても、阻止できる距離だ。それを見越してリリィは俺におとなしくしていろと言っているのか。

 俺は座席に背中を戻し、小声で謝った。

「悪い。取り乱した」

「まったく、しっかりしてよね」

 ぷんぷんと怒るその様子はいつも通りのリリィで、俺は少しリラックスして深呼吸をした。

 しかしその直後に浮かんだのは単純な疑問。

「……というか、お前は動かないのか」

「僕、狙撃上手じゃないもーん」

 ぷいっと顔をそらすそのしぐさは、これもまたいつも通りで、俺はぎゅっと眉間にしわを寄せてしまっていた。リリィはそんな俺をちらりと見ると小さく噴き出した。

「ふふっ、怒らないでよ」

 笑うリリィをじとっと見つめてやると、リリィは軽く肩をすくめてみせた。

「適材適所ってやつだよ。頭脳労働は僕に任せて、肉体労働は君がやる。効率的でしょ?」

 以前にも言われたセリフを繰り返され、俺は不本意ながら納得する。だけど若干の不満は残り、俺はそれをため息に乗せて吐き出した。

 そんな俺の横で、リリィはぽつりとつぶやいた。

「まあ、今回はちょっとは君の頭脳も借りなきゃいけないかもだけど」

「は? それはどういう……」

 尋ね返そうとしたその時、儀式の間の照明は暗くなり、中央の舞台に数人の男性が現れた。

 中央には大げさな衣装をまとった一人の男性、その隣には幹部であるネイザムが立っている。

「あいつがここの教主か」

「どこにでもいそうな面してるけどねぇ」

 いまいちパッとしない平凡な顔をしているその男性が手を上げると、信者たちはわっと歓声を上げた。

 こいつらは本当に心酔させられている。一体こいつに何の秘密があるっていうんだ。

 教主が手を下ろすと、信者たちの声は一気に止んだ。そして、しんと静まり返るその舞台に一人の少年が現れた。少年は舞台の中央にやってくると、信者たちに大げさな礼をした。

「マーカス……!」

 まさかとは思っていたがやはり何かをされようとしているのか。

 俺は懐の拳銃に手をやり、その瞬間を待った。疑いようもなく犯罪が行われようとしているその瞬間に、これを出してこの場を制圧しなければならない。そのためにはタイミングが何よりも大事だ。

 教主はマーカスの頭に手をかざして動かし、何かをしたようだった。

 まだだ。まだこれでは犯罪の決定的瞬間とは言えない。

 教主の控えていたネイザムは、一本のナイフを取り出した。

 あれか。だがあと少し。まだ足りない。

 だが、ネイザムはナイフを掲げて信者たちに見せた後、それをマーカスに

「なっ……!」

 マーカスに渡した? マーカスに何かをさせるつもりなのか? まさかマーカスが誰かを殺す?

 混乱する思考の中で、それでも視線は舞台にくぎづけになっていた。拳銃のグリップを握り、ごくりと唾を飲み込む。マーカスは顔を上げると、ナイフの切っ先をあてがった。

 何をしようとしているのかはすぐに分かった。

「う……動くな、警察だ!」

 拳銃を取り出して立ち上がる。ほぼ同時にかたわらのリリィも立ち上がっていた。

 リリィが慌てて座席を乗り越えてマーカスに手を伸ばそうとする。マーカスの手がゆっくりと首めがけて下がっていく。俺は構えた銃の引き金を――引けなかった。

 しまった。ここはナイフを弾き飛ばそうとすれば、マーカスの顔に銃弾が直撃してしまう位置だ。

 そのことに気づいた時にはもう遅い。ナイフはマーカスの喉にゆっくりと食い込んでいき――

 ダメだ狙えない、間に合わない!

「マーカス! やめろ!」

 大声で叫ぶ。マーカスがこちらを見た。こちらを見て、嬉しそうに笑っている。

 ナイフはそのまま彼ののどを押しつぶし、動脈を切り裂いて――血を噴き出しながらマーカスは崩れ落ちた。

 白い舞台に広がる血の海。その中に倒れ伏す少年。

 何もできなかった。目の前で、見ていたのに、何もできなかった。

 銃を下ろしながらその衝撃に立ち尽くす。リリィは舞台にたどりつき、マーカスに駆け寄っていた。

 リリィはマーカスのかたわらにしゃがみ込み顔をゆがめる。どう見てもこと切れている。手遅れだ。

「くそっ……」

 らしくもない罵声がリリィの口から洩れる。その様子に我に返った俺は、慌てて舞台へと駆け下りていった。

「『空の国』の教主ショーン、幹部ネイザム。あなた方には自殺ほう助の容疑がかけられています。速やかに投降を――」

 リリィが銃を取り出して教主たちに告げている横に追いつき、俺も銃を構える。しかし、銃を向けられているというのに、教主たちは余裕の表情だった。

 何かがおかしい。だが何がおかしいんだ。俺は彼らを追い詰めようと血だまりの中に一歩踏み出し――

 ――直後に聞こえた声に銃を取り落としそうになった。

「リリィさん、ブラッドさん」

 足元からその声は聞こえてきた。おそるおそる下を見てみたがそこにあるのはマーカスの死体だけだ。それだけのはず、だった。

 ゆらりと。血にまみれて、ぽたぽたとそれを床に落としながら、まるで重力をなくしたかのような動きで、

「どうですか、リリィさん、ブラッドさん。僕、上手く死ねたでしょ?」

 そう言って笑うのは、ついさっき死んだはずのマーカスだった。言葉を失う俺たちに、ネイザムはこちらに歩み寄って告げた。

「我らが教主ショーン様は、不死の力をお与えになるのです」

 ネイザムの後ろに立つショーンが、満足そうに一度頷く。ネイザムは、まだ拳銃を構えたままの俺たちを見回すと、俺たち二人を鼻で笑ってきた。

「我々は何の罪も犯してはいませんよ」

 彼はマーカスの肩を抱き寄せて、こちらにしっかりと見せつけてくる。

「だって一度死んでも、ちゃんと蘇らせているんですから」


 その後、どうやってドームの入り口までやってきたのかはよく分からなかった。それだけこの事態の衝撃は強すぎた。

 施設の外はどんよりと曇っていた。気温も、行きよりも低くなっているようだ。

「門の外までお送りいたしますね」

 ドームの前でネイザムは嫌な笑みを浮かべながら俺たちに宣告した。

 余計なことをされないための見張りつきか。

 わずかに残った理性がそう判断する。俺はなんとか正気を取り戻そうと深呼吸をし、一歩を踏み出しながらリリィへと目をやろうとした。

「リリィ、一旦署に戻って――」

「行けない」

 冷たい声でリリィは言う。俺は振り返る。

 ぽつりと雨粒が鼻に落ちてくる。リリィはまっすぐな目でこちらを見上げてきた。

「僕、ここの信者になる」

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