チャンネル22 悪意ー04
衝撃は、いつまでたっても襲ってこなかった。
暴れる直君の上から、そろそろと体を起こす。離れた場所では、ヒカル君が右腕を押さえてうずくまっていた。
足元には、着ぐるみがうつぶせになって倒れていた。今にも起き上がるんじゃないかと警戒したけれど、やがては
「ちくしょう!」
ヒカル君が焦った声を上げて、自分のスマホを操作した。けれどウサギの着ぐるみは戻ってこなかった。
逃げるなら、今しかない。下敷きにした直君に目配せすると、強い眼差しが返ってきた。ヒカル君が着ぐるみを操っていたことを理解しているのか、余計なことは訊いてこない。
事務所のほうが近い。直君が小声でアドバイスをくれる。二人で手を握り合い、逃げだすタイミングをはかった。
「くそ、くそっ、くそぉおお!」
今だ。
ヒカル君の意識が完全に私たちから逸れた瞬間を狙って走り出す。私よりも速い直君に手をひっぱられ、最初の角を曲がろうとしたとき。
「逃がすか、バーカ」
前を走る直君が急ブレーキをかけた。その背中にぶつかって私も止まる。
進行方向に、着ぐるみが二体立ちはだかっていた。
「ロコ。最後のチャンスだ」
スマホを握ったヒカル君が、背後から近づいてくる。咄嗟に身を寄せ合った私たちを見て、彼は一瞬足を止めた。やがてまた、歩き出す。
「俺を、選べよ」
筋肉のついていない、頼りない右腕をこちらに向かって伸ばす。返答次第では、私と直君は窮地に立たされるだろう。
助かるか助からないかの、本当に最後のチャンス。
ここに直君がいなければ、私はどうしていただろう。きっとその場しのぎの答えを出して、プライドも捨てて命乞いをしていた気がする。
「ごめん、直君」
「ヒロ子ちゃん?」
「私と一緒に、痛い目に遭ってくれる?」
それが答えだった。
ヒカル君の顔から、表情がストンと抜け落ちる。代わりに絶望が這い上がってきて、彼の目から涙となってあふれ出してきた。
直君が無言で手を握り返してくる。前にも後ろにも逃げられないこの状況で、私は不思議ともう怖くはなかった。
着ぐるみが動きだす。さっきのような奇跡がもう一度起こることを期待して、襲ってくるだろう衝撃に備え、身をすくめた。
「はい、そこまでー」
のんびりとした声が、切羽詰まった空気を切り裂いた。
その瞬間、着ぐるみがばたばたと倒れだす。暗闇から複数の足音がして、やがて現れたのは游さんと芦屋会長だった。
「兄貴! なんでここに」
「そりゃこっちのセリフだよ。なんで直がここにいるんだ?」
「俺は、ヒロ子ちゃんに謝りたくて、それに電話が」
電話? なんのことだと訊く前に、芦屋会長がツカツカ歩いてきて、ヒカル君の前に立ちふさがった。
「
「なんだバ」
「ババアじゃなくて、芦屋道子よ。JEAの会長をしてるの」
会長の迫力に圧倒されたヒカル君は、一瞬脅えた表情を浮かべた。すぐに取り繕うように舌打ちをしたが、指先が明らかに震えていた。
「オイタはここまでよ。あなたの家のパソコンは押さえさせてもらったわ」
ヒカル君はすぐに数歩下がり、スマホを食い入るように見つめた。その顔は次第に険しくなり、ついには諦めたように地面にへたりこんだ。
「どういうこと?」
直君は、さっきまで着ぐるみがいた地面を不気味そうに見つめていた。彼は平静を装いつつ、私に説明を求めてきた。
「たぶん、アプリにアクセスできなくなったんだと思う」
あくまで推測だけど、着ぐるみはただのデータに過ぎない。ヒカル君に力を注がれて、初めて実体を得ているのだろう。でもそれはアプリという世界があってこそなのだ。
「管理してるパソコンが押さえられたから、さっきの着ぐるみが消えたってこと?」
「うん。でも、これってまるで」
前からヒカル君のことを、JEAは知っていたみたいだ。
何よりもこのタイミングのいい介入。まるではかったように現れた会長と游さん。
嫌な予想が頭の中に浮かんで、言葉にする前に咄嗟に口を閉じる。まさかという思いで游さんに視線を送ると、彼はするりとそれを交わした。
その瞬間、理解した。
「大人って汚い……」
「え?」
「JEA入会は、早まった気がする」
「気付くの遅いね」
辛辣な台詞にダメージを受けている間に、ヒカル君はスマホを没収されていた。パソコンを押さえられてしまっては、スマホがあったところでどうすることもできない。
「俺を、どうするつもりだよ」
「どうする、ねえ。警察に突き出したところで、一体なんの罪に問われるのかしらね」
私と直君への傷害罪……凶器は着ぐるみ。駄目だ、警察がまともに取り合ってくれるとは思えない。
「清見さん。あなたは、彼をどうしたい?」
「私ですか」
「そう。彼に、どんな罰を与えたい?」
会長、エグイことを訊くなあ。
ヒカル君には正直、腹が立っている。いきなり襲われるし、勝手に気持ちを押し付けてくるし、はっきり言ってめんどくせえヤツだ。
でも。でもなあ。
迷ったのは一瞬。座り込むヒカル君に近づくと、すぐ目の前に立った。
「ヒカル君」
返事はない。無視か、いい度胸だ。
「ヒカル君。私の名前は、清見ヒロ子っていうの」
ぴくりと肩が揺れた。恐る恐る上げた顔は、困惑に染まっていた。
「藤ノ宮高校一年C組。出席番号8番。好きな食べ物はニラたっぷりの麻婆豆腐。嫌いな食べ物はカリフラワー。特技は呪い返し」
ぽかんと見上げてくる目を、腰を折って至近距離で見つめ返す。後ろのほうで直君が騒いでいたが、ちょっと黙っていてほしい。
「次はそっちの番」
「は?」
「友達。ほしいんでしょ? だったらまずはお互いの自己紹介からじゃん」
私が放った言葉が彼の頭に届くまで、少し時間がかかった。まるで夢から覚めたばかりのように、しきりに瞬きを繰り返していた。
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