チャンネル14 また明日

 合格発表の当日は、連日の暖かさが嘘のように肌寒かった。

 受験票を握りしめ、藤ノ宮高校の正門を通る。発表直前とあって、掲示板の前は受験生であふれかえっていた。

 通っている中学校から藤ノ宮を受けたのは、私ひとり。周りでは、同じ学校同士で固まった子たちが、発表を今か今かと待っていた。一緒の高校に行こうね、なんて言い合える友達がいない私にとって、なんとまばゆ忌々いまいましい光景か。


 ざわりと受験生が色めき立つ。

 丸めた紙を手に持った職員が数名、校舎から出てこちらへと向かってきた。

 掲示板の前はいっそう人口密度が増した。興奮する受験生を一旦下がらせ、職員たちは協力して紙を貼り出した。鋲で留める前に、ウワッと歓声が上がった。


 団子状態になった受験生の一番後ろで、私は必死に背伸びをした。見えない。受験番号98番が、見えない。97番までは見えるのに、その先は受験生の頭に遮られていた。


 見えないんじゃない。そこに私の番号なんて、ないんだ。

 不安がおそって、涙がじわりとにじんだ。倍率は低いとはいえ、全員が受かるわけじゃない。現に数学の問題は、後半まったく解けなかった。

 数少ない不合格者が、私なんだ。


 合格にはしゃぐ受験生がぶつかってきたが、ごめんも言わずにどこかへ行った。

 普段の私なら、呪ってやる、と恨みをぶつけているところだ。しかし不合格のショックで呆然として、相手の顔すら確認できなかった。


「大丈夫?」

 他校の制服を着た、見知らぬ男の子が立っていた。

「これ、君のでしょ」

 渡されたのは、母お手製のお守り。「しっかり念こめといたからね!」といわくつきの、いや愛情たっぷりの合格祈願のお守りだ。

 その母の力をもってしても私の残念な学力をカバーするには至らなかった。帰ったらなんて言おう。滑り止めの私立なんて、受けてねーぞ。


 ぶつかられた際に落としたらしいお守りをのろのろと受け取る。男の子は用事が済んだというのに、その場を去らなかった。

「……落ちちゃったの?」

「たぶん」

「たぶんって、どういうこと?」

「98番なんだけど、ここからじゃ見えない。でもたぶん、ないと思う」


 数学だけじゃない、国語もダメだった。英語の長文もさっぱりだった。

 後日、先生に採点してもらったら「ウーン」というしょっぱい反応を引き出した私だ、受かっているわけがない。


「まだ確認してないのに落ち込んでるの?」

 涙でにじむ視界の中で、男の子の呆れる顔が見えた。自分でも情けないのは分かっている。拾ってもらったお守りを握りしめ、いじけるように俯いた。


「何番?」

 思わず顔を上げて、男の子を見上げた。

「受験番号、何番? 俺が見てくるから教えて」

「……98番、です」

 男の子は掲示板へと走っていった。人垣の中へと入っていく彼をぼんやりと見送る。行っても無駄なのになあと思いながら。


「あった!」


 男の子が何か叫んでいる。

「あったよ! 98番! 合格してる!」

 両手をぶんぶん振って、男の子が戻ってくる。そのとき強い風が吹いて、視界に白いものが映った。


 ああ、桜だ。そういえば数日前に、満開になったんだっけ。今日はあまりにも寒くて、忘れてた。

「うわあああああん」

 お守りを握りしめて、私は盛大に泣いた。


***


『会いたかった、省吾君』

 スクリーンに映し出された女性を見た瞬間、柏崎社長は悲鳴を上げると同時に尻餅をついた。そのままずりずりと後退して、ステージから転がり落ちていった。


 ざわつく観客は、先ほどまでの恐怖を忘れてスクリーンに見入っていた。限界に達しようとしていた会場内の混乱は、一時的とはいえ収まっている。

「大丈夫?」

 薄暗い会場内で、大神は張り詰めた表情を浮かべていた。大丈夫だとうなずくと、強張った空気が和らぎ、握っていた手の力も緩くなった。


「あの人、誰だろう」

「省吾君って柏崎社長の下の名前だよね? てことは、知り合いかな」

 社長のフルネームは知らないが、大神が言うからにはそうなのだろう。

 ステージの下に落ちた社長に駆け寄るスタッフの中に、橘さんの姿が見えた。助け起こされた社長は、会場中に響き渡る声で怒鳴った。


「誰の悪ふざけだ!?」

 助け起こしたスタッフを振り払い、俺に触るなとわめきながら距離をとる。

「こんな映像まで用意して、いやがらせにもほどがある! 一体何が目的なんだ!」

「社長、落ち着いてください」

「橘っ、お前か? 百合ゆりのことで、俺に復讐ふくしゅうしてるのか?」

「そんな! 私じゃありません」


 必死になだめる橘さんと、いつもの気取った態度を忘れて取り乱す社長、それを遠巻きに見守る観衆たち。

 そして、それらすべてを見下ろすスクリーンの女性。

 彼女が喋ったのは最初の一言だけで、今はときどき瞬きをしたり、顔を傾けたりしている。その動きは規則的で、彼女の姿はプログラムされた映像だと分かる。


 ひとしきり言い争った二人だが、先に冷静になったのは社長のほうだった。今日がどんな日で、自分が無数の視線にさらされていることを思い出したらしい。

 乱れた髪を手櫛でセットしなおし、余裕に見せかけた笑みを顔に張り付ける。

「皆様、」

 話し出して、すぐに舌打ちをした。どうやらマイクが使えないらしい。

「皆様! お騒がせしました! おそらく電気系統の故障でしょう! すぐに対処しますので、どうか落ち着いて行動してください!」


 一番落ち着いていなかった人間に言われるのは納得いかないが、私は大人しくブースの椅子に座ることにした。

 スマホを見ると、相変わらず電波状況が悪い。電気系統の故障って、電波にも影響するものなんだろうか。

「ロコちゃん、ロコちゃん!」

 人ごみの中から、シナモちゃんが飛び出してきた。


「なんだか、大変なことになってますね。これって心霊現象なんでしょうか」

 不安になって、私のところまで避難してきたらしい。ブースの前までやってきた彼は、テーブルの手前で動きを止めた。

 彼の視線の先には、私と大神のつないだ手があった。

「出直してきます」

 即座に手を振り払った私は、山での遭難そうなんでは単独行動が即、死につながることを例に挙げ、会場内の混乱に備えてはぐれないように手をつないでいたことを懇切丁寧こんせつていねいに説明してあげた。


「すいません、ブースを離れてしまって。何もありませんでしたか?」

 橘さんが戻ってきた。彼女が疲れ切っているのは、薄暗い会場内でもよく分かった。

「落雷の影響でしょう。すぐに復旧すると思うので、ここで待っていてくださいね」

「あの、外部との連絡は?」

 大神の質問に、立場さんは声を潜ませて言った。

「いえ、まったく。おそらく建物全体が停電中だと思います。出入り口のロックも機械の自動制御じどうせいぎょでしょうし、本当、ついてないですね」

 無理に笑った顔が痛々しい。先ほど柏崎社長に掴まれたせいか、スーツがかなりよれていた。


 場内アナウンスが使えないため、スタッフが大声を出しながら観客を誘導している。観客は会場内の一角、ステージから一番遠い場所に固まって待機することになったようだ。

 シナモちゃんを見送った後、大神が待っていたと言わんばかりに話を切り出した。


「百合って、誰ですか?」

 大神の問いに、橘さんの肩がぴくりと揺れた。

「あのスクリーンに映った女性と、この騒ぎは何か関係があるんじゃないんですか? 柏崎社長、ずいぶんと取り乱していましたよね」

 橘さんは大きく息を吐き出した。強張った体からゆっくりと力を抜きながら、ブースの柱にもたれかかった。


「百合は私の親友。そして、柏崎君の元婚約者よ」

 橘さんはスクリーンへと視線をめぐらせて言った。

「私たち三人、大学時代からの友人なの」

 意外なつながりに、私たちはそろって目を丸くした。社長と橘さんの間に、親し気な空気が一切なかったからだ。


「じゃあスパイダーウェブを立ち上げたメンバーの中に、橘さんもいたってことですか?」

「そうよ。あと百合もね」

 スパイダーウェブを立ち上げたのは、柏崎社長を含む大学生グループだった。当時は学生起業家が珍しく、随分と注目されたらしい。特に代表となった柏崎社長は時代の寵児ちょうじともてはやされて、今もメディアにドヤ顔で登場している。ああ見えて、実はすごい人なのだ。


「でも友人なんて気安く呼び合えたのは、最初だけ。スパイダーウェブが人気になるにつれて、風当りも強くなってきてね。批判にさらされた柏崎君は、躍起やっきになって強引に事業を拡大しようとして、しょっちゅう百合や他のメンバーと喧嘩してた。気に入らないなら出て行けと言われて、彼の元から何人か去っていったわ。その中に百合もいた。婚約までしてたっていうのにね」

 スクリーンに映る百合さんは無邪気に笑っていた。元婚約者を見た社長の心境は、一体どれほどのものだったのだろう。


「柏崎君はますますワンマンになっていくし、メディアの露出も増えて、人が変わっていったわ。彼ね、ああ見えて学生時代は好青年だったのよ。今のエセイケメンと違ってね」

 何よあの髪形、全然似合ってない。

 飛び出した本音に、私もこっそり同意した。オシャレはよく分からないけど、あのツーブロックは他の人から見ても似合っていなかったらしい。


「百合が亡くなったのは、婚約を破棄してから半年後のことだった。酒酔い運転に巻き込まれてね。まだ二十代だったのに、あっさりっちゃった」

 橘さんの目がステージ近くにいる柏崎社長を睨みつける。そして憎々しげに吐き出した。

「"馬鹿なやつ"」

「え?」

訃報ふほうを聞いたとき、柏崎君がはなった言葉よ」


「それは」

 ない。あまりにも、ありえない。

「私の親友を、かつての婚約者を、いくら自分の元から去っていったからって、そんなふうに言うなんて人としてどうかしてる。あいつは一度、痛い目に合うべきなのよ」

 ぐつぐつと煮えたぎる憎悪をかつての友人に向け、橘さんはステージに向かって一歩踏み出した。そんな彼女に冷水を浴びせたのは、大神だった。


「だから百合さんの映像を使って、復讐ふくしゅうしたんですか?」


 周囲は観客のざわめきでうるさいくらいだというのに、大神の声は不思議なくらい通った。

 橘さんは少しも取り乱さなかった。余裕たっぷりに大神を見つめ、冗談はやめて、と冷淡な声で反論した。そのあまりにも落ち着いた態度が、逆に不自然さを強調した。普通、疑われたら多少なりとも動揺したり、ムッとしたりするはずだ。


「証拠はあるの?」

「ありません」

 ないんかい!

 自信満々に言ってるから、確固たる証拠でも握っているかと思いきや、大神は武器なしで挑んだらしい。こんなの否定されたら終わりじゃん。


「でも今日の橘さんは、俺たちの面倒を見ると言っておきながら、しょっちゅう離れていましたよね。どこに行っていたんですか?」

「別の業務よ。君たちのおりだけが、私の仕事じゃないの」

「本当に? 他のスパイダーには、つきっきりで社員がついていましたよね?」

「他のはね。でも君たちはそこまで重要視されてない。気づいてたでしょ?」


 大神の表情は動かなかった。動かないようにした、というのが正しいのかもしれない。

 人は、傷ついた表情を見せたがらない。けれどはたから見ると、こんなにも痛々しいものなのかと分かってしまうと、控え室で大神が怒った理由が少しだけ理解できた。


「柏崎社長が悲鳴を上げてステージから落ちたとき、笑っていましたよね?」

「それが証拠? いい気味って思っちゃいけない?」

 ごめん、私も笑った。コントみたいに落ちていったから、つい。

「スクリーンに映った百合さんを見て、少しも驚いていなかったのは?」

 息を潜めてじっとしていた私と違い、混乱する状況の中でも大神は冷静に周囲を観察していたらしい。


「さっきから主観的な意見ばっかり。そういうの、言いがかりっていうのよ」

 物的証拠はひとつもない。けれど橘さんの目が、態度が、自分がやったと言っていた。追い詰めることができない大神を、彼女はあざ笑っていた。けれど次の瞬間、余裕の表情にヒビが入る。


「復讐に使われた百合さんが、かわいそうだ」

「……私じゃないわよ」

「他にやりようがあったでしょう。社長と一対一で話し合うべきだったんじゃないですか? こんなふうに、無関係の人間を巻き込むべきじゃなかった」

「違う! 私がやったのはっ」


 言いかけて、橘さんは固まった。大神は澄ました表情で「やったのは?」と続きを促した。

 完全に空気と化していた私は、二人のやり取りをほえ~と見守っていた。完全にアホの子である。


「ここから出してくれさえすれば、あなたが犯人だろうがなんだろうが、どうでもいいんです」

「……だから、違うわよ。停電なんて想定外よ」

 大神は疑っているようだが、私には橘さんが嘘をついているようには見えなかった。

 大勢の目の前で柏崎社長に恥をかかせた時点で、橘さんの復讐は完了しているはずだ。観客を閉じ込めてパニックに陥らせる必要はないだろう。まあ、社長の信用に傷をつけて、会社の責任問題へと発展させたいのなら別だけど。


「百合のこと、忘れてほしくなかっただけよ。あの子のことを忘れて、楽しそうに生きてるなんて許せなかった。だからスクリーンに細工して……こんな大事おおごとになるなんて思わなかったのよ」

 橘さんを見る大神の目は実に冷ややかだった。二人のやりとりをずっと黙って見守っていた私は、ふと疑問に思ったことを聞いた。


「忘れたなんて、なんで分かるんですか?」

 本当に単なる疑問だった。なぜ彼女はそう思ったのだろう。別れたとはいえ、元婚約者だ。そう簡単に忘れられる存在じゃない。

「だって、彼、一度も墓参りに来なかった。女遊びも激しかったわ。覚えていれば、そんな真似できないはずよ!」

「だから忘れてると? それこそ主観なのでは?」

 橘さんはぐっと言葉を詰まらせた。自分がはなった言葉ほど、突き刺さったときのダメージは大きい。


「彼女の言うとおりです。他人の気持ちを勝手に想像しないでください。こんなことをして、百合さんが喜ぶとは思わないほうがいいですよ」

 大神にとどめを刺され、橘さんは唇をかみ締めるとそのまま座り込んでしまった。ひざを抱えてうなだれる彼女のことは、今は放っておくほうがいいだろう。


 ステージ周辺では、柏崎社長が「スクリーンを消せ」とスタッフに怒鳴っていた。しかし照明が消えた会場内で、大型スクリーンは唯一の明かりだ。できませんと首を振るスタッフに、「いいから消せ」とさらに詰め寄っている。


 亡くなったかつての婚約者を見たくないと思うのは、単に気味が悪いからか、それとも罪悪感か。

 スクリーンでは、百合さんが淡い微笑みを浮かべていた。作り物とはいえ、本当によくできている。

 ニコニコと笑うプログラムでできた百合さんを眺めていたら、ふと彼女がこちらを向いた。

「ん?」

 手をふりふり、口をパクパク。さっきまではなかった動きだ。これも橘さんが仕掛けたのだろうか。


 こっちこっちと手招きされて、私はブースを出た。

「ロコ? どこに行くの?」

「呼ばれてるから、行ってくる」

 スクリーンに見入ったまま、ステージに向かった。後ろから大神の静止する声が聞こえる。ごめん、早く行ってあげなきゃ。


「ここで何をしている。ブースに戻っていなさい」

 ステージに上がろうとする私を止めたのは、柏崎社長だった。邪魔だと睨みつけてくる彼の視線を、背後のスクリーンに誘導する。

 社長は口と目を大きく開けたまま動かなくなった。今度は悲鳴も出なかったようだ。


『……い、おーいってば、……ねえ、聞……てる?』


 声にはノイズが混じり、かなり聞きずらい。もっとこっちに来てと手招きされて、私は今度こそステージに上がった。

 そっと手を伸ばす。触れたスクリーンは、思っていたよりも熱くはなかった。


『あーあーあー、テステス。聞こえてる?』

「聞こえてますよ」

 スクリーンに触れた瞬間、百合さんの声がクリアになった。

『私、ちゃんと映ってるかな?』

「毛穴までバッチリです」

『それはイヤ! ちょ、なんとか画質をこう、美白モードにできない?』

「さすがにそんな力はないです」


 両手で顔を隠してくねくねしていた百合さんだったが、私の後ろからふらふらと表れた柏崎社長に気が付くと、ぴたりと動きを止めた。

『……ひさしぶり』

 照れたように挨拶をする百合さんの姿を、社長はなんとも言えない顔で見つめていた。怒っているようにも見えるし、泣きそうにも見える。


『私のこと、分かる?』

「……指輪が、」

『うん。ひつぎに入れてくれたやつ。ありがとね』

 百合さんの薬指には華奢きゃしゃな指輪がはまっていた。恥ずかしそうに、けれどまぎれもなくうれしそうな顔で、百合さんは笑った。


 柏崎社長は強張ったままの顔で、言った。

「サイズ、大きかっただろう」

『ちょっとだけ。でもいいの』

「いいや、よくない。ちゃんと合うやつ、贈るから」

 そのとき誰かに手を引かれ、ステージの端っこに下げられた。大神だった。社長の視界に、百合さんだけが映る。


『もったいないわよ。それに私、これが気に入ってるの』

 そうか、とつぶやいた社長は、次の瞬間、だばあっと涙を流した。ほんと、すごかった。人間、こんなふうに勢いよく泣けるのかって、びっくりした。


「すまなかった」

『何が? 婚約破棄したこと? お互い納得済みじゃない』

「まだ好きだったのに。素直になれなかった」

『私も。まだ好きだったわよ』

 社長の顔は涙と鼻水にまみれて、すごいことになっていた。まったく格好良くない姿を、けれど百合さんは優しい眼差しで見つめていた。


『私からも言いたいことがあるんだけど、いい?』

 こくこくとうなずく社長はまるで子どもみたいだった。

『仕事、ちょっと頑張りすぎ。もう少し手を抜いたほうがいいんじゃない? 完璧主義者なのは分かるけど、過労死したらシャレになんないわ。それから』

 社員にもっと優しくしろ。

 言い方きつすぎ。パワハラで訴えられるぞ。

 テレビでタレント相手に喧嘩するな。

 肉ばっかり食べるな。野菜もちゃんととれ。

 最近よく会うグラビアモデル、あいつ他にも男がいるぞ。


 百合さんの物言いはとどまることを知らなかった。そのひとつひとつに、社長はうんうんとうなずいていた。

『あとその髪型、似合ってないよ』

「これは別にいいだろ!」

『えー似合ってないって。短いのが好きだったのに』

「……善処ぜんしょする」

 最後だけは納得していないのか、柏崎社長は不満そうだった。


「いつも見ていたんだな」

 涙と鼻水を拭いた社長は、困ったように言った。見られたくないこともたくさんあっただろう。しかし彼はまるでいたずらが見つかった小学生のように、バツの悪い表情を浮かべていた。

『まあね。でももう終わり。私、そろそろ行かなくちゃ』

「行くって?」

成仏じょうぶつ


 社長はへらりと笑った。冗談だろう、と言いたげだった。けれど百合さんの顔を見て、それが冗談でもなんでもないと分かると、今度は猛然と向かっていった。私のところへと。


「なんとかしろ!」

「ええ~」

「お前、そういう力があるんだろう? 百合をこの世にとどめておくくらいできるんだろう、なあ!?」

 肩を乱暴に揺さぶりながら、社長は必死に言いつのってくる。人をアンチ共のエサにした男は、プライドをかなぐり捨てて懇願こんがんした。


「成仏できるんです。めでたいことですよ」

「何がめでたいだ! なあ、頼むよ、金ならいくらでも払う」

 気持ちがぐらついた。いかんいかん、清見ヒロ子、そこまで腐っちゃいないぞ。

 首を横に振って、できないと告げた。すると社長はひざをつき、なんと土下座した。


「どんな姿でもいい、一緒にいたいんだ。もう後悔したくない。なあ、分かってくれよ」

「それは、……分かりますね」

 分かる、分かるとも、分からいでか。

 けれど超えてはいけない一線があることも、分かっていた。


「本当に愛しているなら、送ってあげないといけません」

 社長は顔を上げ、激しい目で私を睨みつけた。しかしこちらの考えが少しも揺らがないことを知ると、やがて歯を食いしばって静かに泣いた。

「百合さんが待っていますよ」

 立てないほど消沈しょうちんした社長は、這うようにスクリーンに向かった。そして情けない表情ですがりついた。


「百合、なあ、行くなよ」

『そのセリフ、もっと前に言ってほしかったわ!』

 社長はくしゃりと表情をゆがめ、そうだな、とつぶやいだ。しばらく見つめ合うだけの時間が流れる。

 沈黙をやぶったのは、百合さんだった。

『じゃあね、省吾君』

 指輪を愛おしそうにでながら、百合さんは消えた。


 スクリーンが暗くなると同時に、天井の照明が点灯した。徐々に明るくなる会場内。喜びの声が、会場の一角で上がった。

 ステージ上の様子を一切知らない、観客たちの歓喜の叫びだった。


***


 ファンフェスが終了した数日後、私と大神は高級レストランの一室に呼び出されていた。

「個室のレストランって初めて来た。めちゃくちゃ緊張するね」

「そう?」

 大神はさほどでもないという顔をしていた。坊ちゃんめぇええと嫉妬しっとした。

 

「遅れて申し訳ない」

 柏崎社長が、全然申し訳なさそうにない態度で個室に入ってきた。呼び出しておいて遅刻するとは、とジト目で見た私は、あんぐりと口を開けた。

「……なんだその目は」

「髪がおかしなことになってますよ」

「おかしくない!」

 社長のトレードマークともいえるツーブロックの髪形が、丸坊主となっていた。前より似合ってねえーと思ったが、口には出さなかった。


「食べながら話そうか。なんでも頼んでいいぞ」

 その言葉を待っていたんですよ。

 本人の許しも得たことだし、遠慮なく食べたいものを注文した。やっぱり肉だろ。ステーキを頼むと、人生で初めて焼き方を聞かれてしまった。


「それで、話ってなんですか」

「まあ、色々聞きたいことはあるんだが、」

 社長はカバンの中から何かを取り出した、テーブルの上に置いた。SDカードだった。


「ここに、あのときのやり取りが全部映ってる」

「百合さんの?」

「ああ。ファンフェスが開始してから終了するまでの間、ステージ上の出来事はすべて撮影していたんだ」

 当日は生配信もしていたから、納得した。けれど停電時にそれも途切れ、かなりの苦情が会社には来たという。


「録画はされていたんですね」

「不思議だよな。あのとき他の機材は駄目になったっていうのに」

「そうでもありませんよ。撮影カメラって、バッテリーで動いてたんでしょう? だから百合さんの影響を受けなかったんだと思います」


 社長は驚いて身を乗り出した。

「停電は百合がやったのか!?」

「はい」

「どうして? 観客を閉じ込めて一体何がしたかったんだ?」

「観客じゃなくて、社長に出て行ってもらいたくなかったんですよ。そうするには、会場内にいる全員を閉じ込めるしかなかった。外と連絡がとれなくなったのも、外部から邪魔されたくなかったからだと思います」


 に落ちたというように、社長は背もたれによりかかって息を吐き出した。

「俺を、怖がらせるためにやったんだとばかり、」

「それもあるかもしれません。照明が消えたのは余計でしたしね」

 社長はしばらく呆然としていたが、突然笑い出した。大神はびくっと肩を跳ね上げ、私は頼んだステーキが早く来ないだろうかと思った。

 ひとしきり笑った社長は、目に涙を浮かべながら言った。


「ロコ。これは好きに使っていい」

 SDカードを見下ろし、社長を見て、最後に大神と顔を見合わせた。まったく同じ動きを向こうもしていて、そのシンクロぶりに社長は噴き出していた。


「動画をアップしたら、俺が真っ先に証言するよ。これは本物だってな」

 言葉を失う私の手に、彼はSDカードを握らせた。

「君は本物の霊能力者だ」


 手の中におさまったSDカードを見下ろした私の頭の中を、様々な感情が駆け巡った。

 これをアップしたら、きっと私の生活は一変するだろう。社長のお墨付すみつきをもらえるのだ、有名になれるに違いない。お金のことでもう悩まなくて済む。

 そうだよ、人生バラ色じゃん!


「お返しします」

 もらったSDカードをテーブルに戻し、もう受け取らないとばかりに手を膝の上に乗せた。社長はまさか突き返されるとは想像もしていなかったらしい。けれどどこかほっとした表情を浮かべていた。


「いいの? またとないチャンスだよ?」

「うん」

 大神の確認するような言葉に、私はしっかりとうなずいた。

「有名スパイダーの仲間入りができるのに?」

「うん。いい」

 大神は満面の笑みを浮かべて、そっかあ、とつぶやいた。やっぱり私は間違っていなかった。大神の顔を見て、確信した。


「それは百合さんと社長のものです。大切にしてください」

 社長は一瞬まぶしそうに眼を細めた。泣くのかな。けれどそうはならなかった。うれしそうに唇をもごもごと動かすと、そっとSDカードを回収した


***


「はー! 食った食った!」

「食べた、でしょ」

 柏崎社長の車で、家の前まで送ってもらった。ボロい我が家を見上げ、一気に現実感が押し寄せてくる。さっきまで高級レストランにいたのが嘘のようだ。


 別れ際、社長とは名刺交換をした。また一緒に食事でもしようと言われたのが楽しみでならない。社長のことが一気に好きになってしまったぞ。チョロすぎないか私。


「じゃーね大神君」

 手を振り、アパートの階段に足をかける。二、三段上ったところで立ち止まった。返事をしない大神を不審に思い、振り返った。


「成仏させないことって、できたの?」

「いきなり何」

「ただの興味。信じてないけど、気になってさ。清見さんは、百合さんを留めておくことができたのかなって」

 いつもとは違う目線の高さから、私は告げた。


「できたよ」

 あっさりと言ってのけた私に驚いて、大神は小さく口を開けた。

「できたけど、やらない。やっちゃいけないことだから」

「そっか」

「うん。でも私は、自分勝手な人間だから。私の番になったら、やるよ。好きな人をこの世に留めて、ずっと一緒にいてもらう」


 住んでいる部屋を見上げ、嘘偽うそいつわりのない気持ちを告げた。

 どんなに間違っていても、私は私のために、きっと力を振るうだろう。そのときが来たら、柏崎社長のように泣いて縋って懇願こんがんするだろう。


「まあ、信じてない大神君には関係のない話だけどね」

 くるりと背を向け、階段を上がろうとした。しかし背後から伸びてきた手が私の腕をつかんだ。

「好きな人って誰!?」

「食いつくのそこかい!」


「誰!? まさか宇野!? ねえ誰ってばあ!」

 ぐいぐい引っ張られてついにバランスを崩した私は、後ろにいる大神に勢いよくぶつかった。それでも倒れなかった大神は、私を抱き込みながら言った。


「俺はいるよ!」


 すぐそこに大神の真剣な顔があった。吐息といきほほに触れる。

「俺はいるよ、好きな人」

 耳まで真っ赤にして、大神はあえぐように言葉をはなった。

「合格発表の日に、お守り握りしめて泣いてた子。それが俺の、好きな人だよ」

 唇を真一文字にして、言った! という顔をした。痛いほどまっすぐ突き刺さってくる視線を受け止めた私は、


「………………誰?」

 純粋な疑問をぶつけた。

「え――! え、えっ、えええ! なんで、覚えてない? あれぇええええ」

 うるうるした目でなじられたところで、いやほんとに誰のことですかという感じなんだが。


「ロコがつけてたやつと同じおまもり! それで俺、清見さんだって気付いたんだよ?」

「ああ、あのお守り。なんで知ってんの?」

「だからあ! 合格発表の日に会ったじゃん!」

 がくがくと体を揺さぶられながら、数か月前の記憶をさらってみるが……全っ然思い出せん。合格したのがうれしすぎて、それ以外の記憶があいまいだった。なんか親切にしてくれた男の子がいた……ような? いや、女の子だった気もする。


「俺だよ! 泣いてる清見さん可愛いかったの覚えてるもん!」

「人違いでは?」

 あのときの私、ダサイ眼鏡をかけてすっぴんだったぞ。泣き方も最終的には「うごおおお」だったし。可愛い要素ゼロ。別人だな。


 あうあうともはや人語にならない言葉を発する大神の腕の中から脱出し、私は今度こそアパートの階段を上り切った。

「また明日、学校で会おうね」

 大神君。と呼ぼうとして、私は思い直した。


なお君」


 ハニワみたいな顔をした直君は、数秒後、顔面がどちゃっと崩壊した。崩壊したというか、ふにゃふにゃに溶けてしまった。しかしイケメンというものは、ハニワになろうがスライムみたいに溶けようが、イケメンであった。イケメンの神秘である。


「うんっ、また明日! ヒロ子ちゃん」

 明日会うのが、少し恥ずかしい。

 そう思ったけれど、私は無言で手を振った。

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