チャンネル02 こんにちはぁ、ロコで~す
「"スパイダー"になるには、まず"スパイダーウェブ"でユーザー登録をします。登録が完了したら、さっそく動画を投稿してみましょう。うーん、やっぱネット環境は必須か」
慣れないパソコンを操作して、私は"スパイダー"に関する情報を収集していた。芙美の言ったとおり、スマホは必需品のようだ。オレンジジュースをずるずる鳴らして飲み込みながら、眉間に皺を寄せる。
バイトをしているとはいえ、家賃と生活費に回したら残るのは微々たる金額だ。友人の話を聞くに、スマホの本体だけで何万円もするというし、通信費は月六千円とか万越えとか、とてもじゃないが払える代物じゃない。今のガラケーが月に千円ちょっと。スマホに変えるのが馬鹿らしくなってくる。
「でもなあ、スマホがあれば動画を撮るのも投稿するのもできるっていうし」
インターネットもできるという。いわば目の前にあるパソコンを小さくした感じ。
「ヒロちゃん、チョコ食べる?」
「食べまーす」
キッチンからお盆を持って出てきたのは、同じアパートに住む
彼女が引っ越してきたのが一年前。以来、隣同士で仲良くしている。今日はパソコンを使わせてもらうため、朝子さんの部屋にお邪魔していた。
「これお客さんからもらったの。いっぱい食べてね」
「ありがとうございます」
「で、なに調べてたの」
「"スパイダーウェブ"についてです。朝子さんも普段から見たりします?」
「暇なときによく見るわよ。猫動画とかね」
新しく入れてもらったジュースを受け取りながら、「ユータンって知ってます?」と聞いた。
「知ってるわよ。よくトップに出てくるし。ちゃんと観たことないけど」
「そうなんですか? 友だちが格好いいって騒いでましたけど」
「年下には興味ないからなあ」
朝子さんは隣に座って、チョコをひとつ
「あとはメイク動画とかよく見るかな。すごく参考になるし」
そうだ、と言って朝子さんは立ち上がり、隣の部屋に消えた。しばらくして戻ってくると、使いかけの化粧品をくれた。
「もらったはいいけど色が合わなかったからヒロちゃんにあげる」
「いいんですか?」
「いーのいーの、もらいものだし。教えたとおりメイク頑張ってるみたいだから、受け取って」
英語が書かれたパッケージは、どう読むか分からない。けれど中からはキラキラとしたコンパクトが出てきて、私の中の小さな女の子をワクワクさせた。
「でも"スパイダーウェブ"なんか調べてどうすんの? 動画観たいなら、パソコン貸してあげるけど」
「あ、いや、観たいほうじゃなくてですね、」
"スパイダー"に、なろうかと。
朝子さんの唇から、噛み切ったチョコが落ちた。
「本気?」
「割と」
「……やっぱ生活苦しい? お父さんとはまだ連絡取れないの?」
すうっと息を飲み込んで、そして慎重に吐き出した。脳裏をよぎった『すまん』の三文字が、私をいとも簡単に打ちのめす。
兆候なんて何もなかった。いつもの時間に出勤して、そのまま帰ってこなかった。それだけだった。それだけのことだった。
「今年の授業料は払ってもらってました。でも来年と再来年は、バイト代だけじゃ難しいです」
朝子さんの指がテーブルの上を忙しなくさまよった。さっきもらった化粧品のひとつを手にとると、意味もなくいじくる。私にはちょっと大人っぽすぎるブルーのアイシャドウ、ほとんど使っていない新品のそれを開けたり閉めたり。
しばらく無言の時間が続いた。朝子さんの唇はときどき変な動きを見せた。無茶だとか、やめときなとか、そんな言葉を言おうとして飲み込んでいるのかもしれない。朝子さんは自由奔放な女性だが、私が知る限り、一番まともな大人だ。
唐突に、朝子さんが自分の膝を叩く。パァンといい音がして、私は跳ね上がった。
「ヒロちゃん、私に何かしてほしいことある? お金以外で」
***
朝子さんから中古のスマホをもらって、格安プランの契約をした。電話はかけ放題じゃないけど、ネットは月3Gで千六百円は悪くない。ちなみに友人が話題に出す3Gだの5Gだのは、通信量だと初めて知った。ずっと重力のことだと思ってた。
ネットにアクセスする手段を得た私は、さっそく"スパイダーウェブ"に登録することにした。"スパイダー"としての名前はどうしようか。
「ヒロ、テレビゲームしてないで早くご飯食べなさい」
小さな画面から顔を上げると、母が仁王立ちしていた。
「いつ帰ってきたの」
「さっき。入院生活は飽きるわ」
また勝手に抜け出してきたのか。ここに本物の自由奔放な大人がいる。私が知る限り、一番まともじゃないのがこの母親だ。
「まったくもう、ピコピコピコピコ、ゲームばっかやって成績下がったらどうするの」
「いや、ゲームじゃないから。ピコピコしてないし」
「いいから食べる!」
叱られて渋々立ち上がる。ラップのかかった皿を電子レンジに入れて、2分にセット。母はテーブルの上のスマホを覗き込み、不思議そうな顔をしていた。
夕飯を食べ終わると、登録作業を再開した。名前、名前……駄目だ思い浮かばん。こういうの苦手なんだよ。
「ねー母さん、私の名前なにがいいと思う?」
「あんたの名前はヒロ子でしょ。昭和のアイドル、里ヒロミからとったのよ」
「いやそれ何回も言われてるけど誰か知らないし。じゃなくてね、んーと、ニックネーム? なにがいいかな」
本名でやるわけにもいかない。ユータンだってそうだし、他の"スパイダー"だってほとんどがニックネームと分かる名前で活動している。
「ロコちゃん」
母が手を叩きながら言った。
「ほら、小学校のとき。引っ越す前に同じアパートに住んでた子よ。あんたのこと"ロコちゃん"って呼んでた子がいたじゃない」
ヒロ子だから、ロコちゃん。少し考えて、悪くないと思った。
さっそく入力するが、スマホってなんでこうも文字を打つのが難しいんだろう。右に左に指を動かさないといけなくて、ガラケーでさえ打つのが遅かった私には至難の技だ。
名前とプロフィール、顔写真はまた今度でいいか。必須項目をすべて埋めて送信、と。
くるくると輪が回る。画面が一瞬暗くなり、そして。
『スパイダーウェブへようこそ』
***
学校での昼休み、お弁当に入れたプチトマトをつつきながら欠伸をした。いつもなら口を押さえて可愛らしくするけど、その演出も今は頭から抜け落ちていた。
「ヒロ、ぶっさいくだよ」
いいの、元々ブサイクだから。化粧で見られる顔にしてるだけだし。
ころころ転がるプチトマトが中々摘めない。けだるげな私の様子に、芙美と奈々香は顔を見合わせていた。
「寝不足? 授業中もよくウトウトしてるし」
「ちょっとね」
何がちょっとなのか返事になっていない返事をして、私は黙々とお弁当を食べた。
原因は、スパイダーウェブだ。
登録して今日でちょうど一週間。見よう見まねで動画を投稿して、視聴回数はなんと十三回。うち、コメントは1つ。内容は『ブス』だった。
おいぶっころすぞ、ユーザー名『ポポロン』。
身バレを懸念して、スパイダー活動はほぼスッピンでいくことにした。高校では盛りに盛った化粧で隠しているが、すっぴんの私はソバカスにつり目だ。中学時代はこれに分厚い眼鏡をかけ、常に俯いていた。私の素顔を知る人間は、家族以外にいない。
可愛くないのは自分でもよく分かってはいるが、ポポロン、貴様に言われる筋合いはないんだよ。
それにしてもだ、視聴回数はどうやったら増えるんだ。ユータンにできて私にできないなんて世の中間違っていないか。私も電車を追いかけたらいいのか。
もしかしたら動画のタイトルがいけなかったのかもしれない。『ボンビーあつまれ! 節約レシピ』ではインパクトが薄かったか。それとも料理というジャンルが悪かったのだろうか。スパイダーウェブにはすでに有名料理動画が多数あったが、どれもオシャレな感じで似たことをやっても駄目だと思った。だったら間逆の、貧乏臭い料理ならどうだ。これを考え付いたとき、私は自分を天才だと思ったね。結果は惨敗だったけど。
悶々と考え込んでいる間に芙美と奈々香はお弁当を食べ終わり、コンビニスイーツを食べ始めていた。
「ねえ、二人はなんでユータンが好きなの?」
格好いいだけで年収一億円になれるんなら、整形でもしてやろうか。黒い考えが胸に渦巻くが、整形するお金もないことに気がついて落ち込んだ。
「なんで好きかって言われたら、なんでだろ?」
「顔だけで言ったらアイドルにもっと格好いいのいっぱいいるしねー」
わ、割とドライだな。
スイーツほど甘くない言葉を吐き出しながら、二人はさらに言った。
「でもアイドルに比べたらずっと近いじゃん。親近感持てるし」
「そうそう、アイドルなんてぶっちゃけ住んでる世界違うもんね。でもユータンって同じ世界にいる感じがするのよ。手が届くアイドルってやつ?」
親近感、手が届く。プチトマトを箸で摘まみながら、心のメモに書き込む。
「それに、好きなことやって生きてる人間って、見てて楽しいじゃん」
「芸能人だと裏がありそうって思うけど、"スパイダー"ってまんまっていうか、素でやってる感じがするよね」
本当の、自分。
プチトマトが、まるで逃げるように箸から飛び出した。床を転がって誰かの足に当たる。足の持ち主は大神だった。
「落ちたよ」
「あ、うん、あげる」
自分でもかなり適当なことを言ったと思った。
「えっ、じゃあ大事にする」
「待て、大事にするな」
一緒にお昼ご飯を食べていた植草がツッコミを入れた。まっとうな意見だ。
「ごめん、捨てとくから返して」
落としたプチトマトはあとでゴミ箱に入れておくことにする。私は残りのお弁当をゆっくりと食べ始めた。
「清見さん、なんか最近元気ないね」
通路を挟んで隣に座る大神が話しかけてくる。口を動かしながら、声は出さずに首を傾げる。この仕草をすると、男の子は大抵黙ってくれる。
けれど大神は違った。
「よかったら放課後、カラオケとか行かない?」
思わぬ申し出に、食べる手を止めた。十分に噛んでいないおかずを飲み込んでしまったので、考える時間も稼げない。正直言えば、行きたくなかった。
「大声出したらストレス発散できるし。ね、行こう。俺が奢る」
「ありがとう大神。じゃあ私、予約しとくね」
「俺も行きたい。六人で頼む」
「お前らにも奢るとは言ってないんだけど」
あっという間に放課後の予定が埋まってしまった。でも奢りだから、いいか。
***
三時間歌い倒し、駅前で解散した。帰る方向が一緒の大神が家まで送ると言ってきたが、ボロアパートなんて見られたくもないので、途中のバス停までにしてもらった。
「元気でた?」
車道側を自然に歩く大神に、うん、と頷く。そういえば二人きりで話すのは初めてだ。
クラスで目立つ三人組のひとり。ウェーブのかかった茶髪が風になびいて、それを直す仕草が様になっていた。横から見ると、鼻が高いのがよく分かる。格好良いな、と素直に思った。
「清見さんって、さ、兄弟とか、いる?」
「いないけど」
「そうなんだ。俺はね、兄貴がひとりいるよ」
「へえ。いいね」
沈黙が生まれないように必死に喋ってくれているのが分かる。けれど話題が尽きたのか、彼はとうとう黙ってしまった。ちょっとだけ気まずい空気の中、目の前の信号が赤になったので二人同時に立ち止まる。大通りに設置された信号は長い。ここは私のほうから会話を振ったほうがいいだろうか。信号長いね、とか。
けれど先に沈黙を破ったのは大神のほうだった。
「清見さんっ、今度ふたりで」
あ。
いる。
「あ、あの、清見さん?」
「ごめんね、ここでいいから。ありがとうバイバイ」
あっけにとられるクラスメイトを置いて、私は青信号で渡った。大神はついてこない。信号はあっという間に赤に変わった。
渡った先の電信柱にもたれかかって、女の子が立っていた。
「よ、元気?」
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