チャンネル25 とどめのキス

食事をして解散したころには日は沈み、通りには街灯が一斉に点きはじめる。外まで届く家族のだんらんを聞きながら、直君と一緒に自宅までの道を歩いていた。

「ねー、まだ怒ってるの?」

 直君の機嫌は昼間から少しも改善されていなかった。むしろ悪化している。でも私のせいというより、食事中もずっと喧嘩をしていたヒカル君のせいだと思う。


「ヒロ子ちゃんはもう怒ってないわけ?」

「なにが」

「囮にさせられて、危険な目に遭わされて、ヒカルに傷つけられたこと、もう許しちゃったの?」

 足を止めて、直君を穴が開くほど見つめた。

「もしかして、私のことで怒ってくれてたの?」


 直君の目が据わった。

 分かった、分かったから。顎を反らして見下ろしてくるのはやめてほしい。顔がいい人間がやると本当に怖いから。

「今ので俺の怒りゲージがまた上がった」

「ご、ごめんね。鈍くて」

「本当だよ。自分のことなのに鈍すぎる。ヒロ子ちゃんはもっと怒るべきだ」


 私だってまったく怒らないわけじゃない。自分が囮にされたと知ったときは腹が立ったし、JEAに失望もした。

 でも怒り続けると、ものすごい勢いで心がすり減るのだ。小学生の時はそれが分からず、理不尽なイジメに怒り続けて頭に十円ハゲができた。


「怒りたくないなら俺はもう何も言わないけどさ。でもヒカルがポポロンだったことは、怒ったほうがいいと思うよ」

「へっ?」

「"ブス"コメント連投してたポポロン。あれ、ヒカルだって。手越さんが言ってた」

「はっ?」

 う、嘘だろ。ポポロンのイメージは、四十代無職で、金なし夢なし彼女なしのオッサンだったんだぞ。


「年下だし許してやろうと思ってたけど、やっぱり許さん。ひとをブス呼ばわりしやがって!」

「その意気その意気」

 とりあえずヒカル君からのチャットは放置してやる。既読無視してやる。あれは地味に辛いからな。しばらく苦しむがいい。


 もうすぐアパートが見えてくるころになって、直君の歩みが急に遅くなった。つられて私もスピードを緩め、彼のペースに合わせる。

「夏休み。もうすぐだよね」

「そうだね。どんだけ宿題が出るんだろう」

「不安ならうちに来て一緒にやろうよ」

「それもいいね。皆と一緒にやったら捗る《はかど》気がする」

 夏休みに友だち同士が集まって宿題やるのって初めてだ。宿題は憂うつだけど、こういう『The 友だち』なイベントには憧れていたから、今から楽しみでならない。


「……宿題は皆でやるとして、ふたりでどこかに出かけない?」

「どこかって、どこ? 心霊スポットとか?」

「そういうのじゃない!」

「直君、声大きいよ」

 ご近所様に迷惑だ。直君は歯をギリギリ言わせながら、しばらく無言で歩いていた。私はまた彼の神経を逆なでしてしまったらしい。


「ロコとマオとしてじゃなくてさ、プライベートで出かけようって意味なんだけど」

 早口でまくしたてると、直君は唐突に私の手を握った。わっと声を上げる私を無視して、アパートまでの道をさっきよりも早いペースで歩き出す。

「映画とか、遊園地とか、う、海、とか」

「海かあ……海と言えば昔、水中で足をひっぱられたことが」

「だからそういうのじゃない! デートだよ、デート!」


 でーと。


「そ、それはつまり、不純異性交遊というやつでは?」

「校則違反的な言い方をすると、そうだね」

 あ、家の前に着いた。

 いつもなら、ちょっと会話をしてから別れている。直君はいつも私が二階のアパートの部屋に入るまで、一階から見守ってくれていた。

 でも直君がとんでもない爆弾を投下してくれたおかげで、別れのタイミングを完全に失ってしまった。

 というか手が離れないし。ちょっと引っ張ってみたら、それ以上に強い力で引っ張り返されてるし!


「いや?」

「い、嫌というか、あの、これは、」

 顔が上げられん。ここだけが局地的に猛暑になったみたいに、顔から汗がぶわっと噴き出してくる。私は軽いパニック状態となっていた。

「初めてヒロ子ちゃんを呼び出したとき、告白だと思ってくれてたんだよね?」

「む、昔の話を持ち出さないでいただきたい……っ」

 リア充という仮面をかぶり、天狗になっていた時代の話だ。男子の視線の中に自分への好意があると勘違いして、色々とイタイ振る舞いをしていた。

 穴があったら入りたい。切実に。


「あれは、勘違いなんかじゃなかったよ」

 握られた手が熱い。体温が上がったのは、どうやら私だけじゃないらしい。

 覚悟を決めて顔を上げると、緊張で強張った直君がいた。

 周囲は静かだ。通りがかる人もいない。アパートの入り口に取り付けられた古臭い電球の灯りの下で、私たちはただひたすらに無言で見つめ合った。

 心のどこかで、期待している自分がいた。ただ、何を望んでいるのか、分かるような、分かりたくないような。


「いつまで見つめ合ってんのよ。キスするならさっさとしなさい」


 めちゃくちゃ聞き覚えのある声が真横からした。

 私と直君はまったく同じ動きで、声がする方向へと視線を向けた。

「お、お母さん」

 そこには、ここひと月ほど姿を見せなかった母がいた。しゃがみこんだ膝に頬杖をついて、完全に野次馬を決め込んでいる。


「大神君。悩みすぎ。やるならもっとスピーディーにやりなさい」

「は、はい」

「やるって何をやるんだよ。ていうか、今までどこに行ってたの!?」

 病人らしからぬ頻度ひんどで病室を抜け出していた母は、なんの前触れもなく姿をくらませ、そして何の前触れもなくまた現れた。娘をたいそう心配させたくせに、その飄々ひょうひょうとした態度からはまったく悪いと思っていないに違いない。


「どこにって、病院じゃないの?」

 しまった、直君はまだ知らないんだった。ていうか気付かないもんかね、この人今、若干透けてますけど!

「一時退院よ。ところで大神君、あの夜、娘にはちゃんと会えた?」

「はい。おかげさまで。電話してくれてありがとうございます!」

 ちょっと待て。

 あの夜、直君が言っていた電話の相手ってもしかして。

「でも後でスマホを見たら履歴がなくて……消しちゃったのかな?」

 母は狐のように笑った。もはや妖怪だ。直君、妖怪に目をつけられてるぞ。


「ところでヒロちゃん。パパ戻ってくるから」

「はぁ!?」

「探し出すのに苦労したわよ。見つけてから毎日のように夢の中に立ってやったから、観念して戻ってくることにしたみたい」

「最近見なかったのはそのせいか!」


「もうすぐ一緒にいられなくなるかもしれないから。駄目なパパでも、いないよりはマシでしょ?」

 今度は狐じゃなくて狸みたいに食えない笑みを浮かべたかと思うと、母はくるりと背を向けて、アパートの階段を上っていった。

 その背中に言いようのない不安を覚えた私は、思わず直君の手を握った。そのとき、ずっと繋いだままだったことに気が付き、不安は羞恥しゅうちへと変わった。


「あ、あの、じゃあ、私もう帰るね」

「うん。……デート、しようね」

 ぎゅんと顔に血が上り、私はまともに喋れなくなった。代わりに首を振った。迷いに迷った末に、横ではなく、縦に振ることを選んだのだ。

「夏休み、早く来るといいね」

 そのとき、電球が点滅した。気を取られた、一瞬だった。


「じゃあね。また明日」

 額に触れた唇が、ゆっくりと離れていく。

 頭が真っ白になっている間に、直君は帰っていった。姿が見えなくなった直後、バタバタとうるさい足音が聞こえた。それもやがては聞こえなくなった。

 ふらりと壁までよろけた私は、ぶつかってずるずると座り込む。今のは夢かと手を額に当てて、なんとなくそこだけあったかい気がすると思った瞬間、膝をかかえて丸まった。

 叫び声を上げようとして口を開くも、熱い溜息以外、何も出てこない。


 もうすぐ夏休み。

 初めて感じた、他人の唇の柔らかさ。

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