チャンネル07 不思議なアプリ

『昨日は話をきいてくれてありがとうございました。あれからホテルに帰りましたが、一度も誰かの気配を感じることがありません。久しぶりにぐっすり眠れました。きっとロコちゃんがくれたキーホルダーのおかげですね。何より話を聞いてくれたことが本当に嬉しかった。動画、これからも楽しみにしています』


 田口さんからのメッセージを読み終えると、むずがゆい心地でしばらく変な顔をしてしまった。他人に感謝されるって、嫌な気分じゃない。むしろ、

「ヒロちゃん?」

 背後からスマホを覗き込んできたのは母だった。

「朝食中にピコピコをするんじゃありません」

「ピコピコじゃないって。スマホだよ」

 母の中ではゲーム機(ピコピコ)とスマホの区別がついていないらしい。

「どっちでもいいから、ご飯に集中しなさい。行儀が悪いわよ」

「はぁーい。てか朝から病院を脱走しないでよ」

「ヒロちゃんが心配で見にきてあげたんでしょうが。そしたらピコピコしてるし、まったく母さんがいないとすぐだらしなくなるんだから」

 テレビ見ながらはよくて、スマホが駄目な理由が分からない。反論したかったが、スマホをテーブルの端に置いて朝食を再開した。


「ヒロちゃん、昨日はどこに行ってたの?」

「どこって、まさか昨日の夜も家に戻ってたの?」

「ちゃんとご飯食べてるか心配になってね」

 まるで悪びれない脱走犯に、私は心底呆れた。

「あのさあ母さん、あんまり頻繁ひんぱんにこっちに来なくていいから。体にも良くないし」

「ずーっと寝っぱなしのほうが体によくないわよ。病院なんて刺激がないとこ、母さん嫌いだわ」

「刺激のある病院のほうが問題でしょ……。母さん、もしかして父さんが帰ってきてないかチェックしに来てる?」

「まさか」

 笑顔の凄みが増した。この話題に触れたのは失敗だったか。

「まったく、妻が入院した途端に失踪するなんてね。あの男に、娘と妻を放り出す度胸があるとは思ってもみなかったわ。一体どこぞの雌猫めすねこのところにいるのかしら」

「浮気を疑ってるの?」

「可能性は高いわ。だってあのひと、私の言いなりだったもの。私が入院して、チャンスだと思ったのかもね」

 ああ、母さんは傷ついている。

 傷つくあまりに、思ってもいないことを並べ立てて、本当のショックに耐えようとしている。

 母さんはまだ、父さんのことが好きなんだ。

「まだ分かんないでしょ。父さんの気持ちなんて、私にも母さんにも分かんないんだから、そういうこと言わないでよ」

 居心地の悪いリビングで、すっかり冷えたおかずをもそもそと食べた。ふと顔を上げると、母はもういなかった。病院に戻ったようだ。


***


 学校の正門で、大神が待ち構えていた。

 気付かなかったフリをして通り過ぎようとしたが、ヤツは後ろをぴったりとくっついてくる。

「おはよう、清見さん」

「話しかけないで、ストーカー」

 背後で足音が止まった。が、すぐについてくる。

「話があるんだけど、いい?」

「いいわけないでしょ。あっ、先生おはようございますぅ」

 二重人格、という言葉が聞こえたけど、これはただの使い分けだから。SNSでいう裏アカと同じだ。

「昨日のことで、気になったことがあったから話したいんだ」

「正論なら聞きたくないんだけど」

「違うよ。ただ事実を話したいだけだよ」

 靴箱で上履きに履き替えながら、話を聞くべきか逡巡しゅんじゅんする。玄関に設置された時計は八時十分。授業開始まで三十分はある。

「分かった。また化学室でいい?」

 大神は表情を明るくした。すぐに鍵を取ってくると言って、職員室に走っていった。


 五分後。数日前のように、私と大神は化学室で対峙していた。

「昨日はちゃんと家に帰れた?」

「は?」

 話はそこからかよ。

 ちなみに昨日、大神は私を家まで送ると言ってきかなかった。時間も時間だし、女の子ひとりを夜道で歩かせるわけにはいかないと主張するのだ。面倒くさかったので自転車に乗ってまいた。

「何ごともなく帰れたよ。で、気になったことって何?」

「田口さんのストーカーだけど、女の人だよね」

「だろうね」

「俺、ちょっと調べてみたんだ。最近のマンションの構造って、防犯対策として、配水管を伝って部屋には侵入できないようになってるんだって。清美さん、田口さんのマンションは見たことある?」

「ないけど、住所は分かるよ」

「ちょっと見せて」

 少し迷ったが、住所を教えてやった。大神はスマホを操作すると、「やっぱり」と言った。

「不動産情報にマンションの外観が載ってる。配水管の設置場所からいって、外からの侵入は無理だよ」

「だったら?」

「中しかない。同じマンションの住人だよ」

 推理を披露する大神はどこか興奮した表情をしていたが、すぐに眉間に皺を寄せ、誰にも聞かれてはいけないというように声を潜めて言った。


「瀬名さん。昨日、いきなりテーブルに来た人」

 脳裏に思い浮かぶのは、田口さんと同世代くらいの優しそうな女性。たしかにタイミングがよすぎるとは思ったけど、泣いている田口さんを心の底から心配していた。この人のことが好きなんだろうな、と思った。

「違うでしょ」

「なんで? 田口さんが言ってたじゃん、隣に住んでるって。俺、マンションに住んでたから知ってるけど、ベランダから隣に行こうと思ったら行けるんだよ。あの人なら、田口さんの部屋のベランダにケーキを置くくらいできる」

 でも、違う。彼女からは、あのニオイは感じなかった。

 それだけで、私は確信できる。

「田口さんが言ってこと忘れたの? 鏡に映ってたのは、見たことのない女だったって言ってたでしょ」

「あれはっ、……田口さんは、追い詰められてたんだよ。ストーカーが女だっていうのは、イメージとしてはあった。不安が見せた幻覚なんだよ」

「じゃあ笑い声は? 抱きしめられた感触は? それも全部幻だって言うの?」

「そういうこともあるよ。たぶんだけど」

 大神の言うとおり、人間は見たいものを見て、見たくないものを見ないときがある。田口さんが精神的に追い込まれて幻覚や幻聴を見たというのは否定できない。

「田口さんからメッセージがあった。ホテルに戻ったけど、何もなかったって」

「ほら! 話を聞いてもらって安心したんだ」

「あのとき渡したキーホルダーが、呪いを防いだ可能性もあるよ」

「……それ、本気で言ってる?」


 だから嫌だったんだよ。

 ちっと舌打ちして、化学室から出て行こうとした。しかし背後から覆いかぶさるように扉を押さえられ、私は逃げ場を失った。

 触れそうなほどの至近距離で睨み合う。私は嘘も誇張も言っていない。目に力を込めて正面から見据えていると、やがて大神は遠慮がちに離れていった。

 予鈴のチャイムが鳴り響く。そろそろ戻らないといけないのに、私たちは無言で対峙していた。すぐに去らなかったのは、たぶん、謝ってほしかったからだ。傷つけたことを自覚してほしかったからだ。

 けれど大神が言ったのは、謝罪の言葉じゃなかった。

「ファミレスから出るとき、あの人、すごい顔でこっちを見てた」

「すごい顔って」

「邪魔するなって顔。別人みたいだった」


***


 午後十時。私は昨夜と同じ公園にいた。スマホを開いて"スパイダーウェブ"にログインすると、メッセージが一通。田口さんだった。

『電話もメールも今日は一通もありませんでした。明日、一度マンションに戻ろうと思います』

 すっかり解決した気でいるらしく、安堵感がつづってあった。

「田口さん?」

 無遠慮にスマホを覗き込んできたのは大神だった。昨日と同じ、ラフでおしゃれな格好をしている。肘で押しやりながら、スマホをポケットに入れて歩き出した。その後ろを大神がついてくる。

「どうするつもりなの?」

「とりあえず、瀬名さんに会う」

「証拠もないのに、どうやって追い詰めるつもり?」

 隣に並んだ大神を横目でチラリ。少し迷ってから、ぶっきらぼうに言った。

「私、自分のアカウントではメッセージを受け付けてないんだよ」

 大神が怪訝な表情を浮かべたが、無視して続けた。

「だから動画のコメント欄に、田口さんみたいに相談してくる人って結構いるんだ。だいたいがイタズラか冷やかし。でも中には気になるやつもある」

 田口さんのときは、ニオイがした。大神に言っても絶対に理解してくれない、一種の勘。アンテナに引っかかるっていうのかな、ああこれはヤバイって分かる。


「"運命の赤い糸"ってアプリも、そのひとつだった」

 田口さんが住むマンションが見えてくる。一度足を止め、スマホを取り出してアプリを起動した。

 やがて画面いっぱいにハートマークが飛び交い、"運命の赤い糸"というポップな字体が浮かび上がった。隣で画面を見ていた大神は、眉間に皺を寄せた。

「"これは恋のおまじない。アナタとワタシは、結ばれる"って、なにこれ」

 大神が言っていた"別人"という言葉で思い出したのが、このアプリだった。

『別のワタシになって、運命の人に会いに行こう☆ 会うたびに糸は太く、赤くなり、やがては身も心も結ばれるの……』

 ちなみにチュートリアルの口調にイラッとして、開始五秒で画面を叩き割るところだった。

 破壊衝動を抑えながら操作を続けて分かったのは、これは恋愛シュミレーションゲームに近いものだということ。ただし、現実にかなり近い、という注釈がつく。

「自分のキャラクターを作るんだけど、そういうときって、容姿とか性格とか、現実よりも良くしたくなるでしょ。でもこのアプリは、現実の自分にいかに近づけるかで効果が変わってくるんだって」

 自分の分身を作ったら、次に意中の相手を作る。本物に忠実に、作りこめば作りこむほど"ワタシ"と"アナタ"は近づいていくの……と毎度イラッとさせてくるチュートリアルに従って、そこそこ現実に近づけてみた。


「えっ、清見さん、これやったの?」

「やらなきゃ分かんないでしょ」

「……ちなみに、相手は誰?」

「宇野君」


「うそだろ!!」


 住宅街に絶叫がとどろく。小型犬らしきキャンキャンとした鳴き声が響き、閑静な住宅街は一気に騒がしくなった。

 住人が様子を窺いに出てきかねない。私はわなわなと震える大神の服を掴み、次の曲がり角まで引っ張っていった。

「好きな相手はいないから、隣の席の宇野にしただけなんだけど」

「そ、そっかー、うん、そうだと思ってた」

 挙動不審な大神に若干引きつつ、私はマンションに向かって先に歩き出した。追いついてきた大神はなぜかスキップだった。怖い。

 前方にそびえ立つ十階建てのマンションは、ほとんどの窓に灯りがついていた。田口さんの部屋は八階の端っこ。当然暗い。そしてその隣も。

「キャラクターを決めたら、次は部屋を決めるの。そこに、好きな相手を閉じ込める」

「閉じ込めるって、」

「"愛の巣"なんだって。気持ち悪いでしょ」

 そこに相手を入れて、"ワタシ"は会いに行く。想いが深まれば、行動の選択肢が広がるのだという。話しかける、一緒にテレビを見る、抱きしめる。

 田口さんがホテルに移っても怪奇現象に襲われたのは、アプリの中では同じ部屋にいたからだとすれば説明がつく。


「もしかして清見さん、アプリと現実が連動してるって言うんじゃないよね?」

「だったらなに。あと最初の約束、忘れてないよね」

 私の意見にケチをつけたら即帰宅。田口さんのマンションについてくる条件として、大神に誓わせた約束だ。

 あっちは私を監視しているつもりんだろうけど、逆だ。大神が勝手なことをしないように、私が見張っているのだ。ほうっておいたら警察に通報しかねなかったので、仕方なく連れてきてやったという経緯だ。

「ケチとかじゃない。現実的に考えて、ありえないって言ってるんだ」 

「それをケチつけるって言うんだよ。ありえないってことを証明してからケチつけて」

 できないくせに。

 自分は証明できないけどお前は証明しろなんて、理不尽にもほどがある。いい加減、私とお前は同じ条件下にいることに気付けよ。

「堂々巡りはやめよう」

「ふっかけてきたのは、そっちでしょ」

「うん、ごめん。俺が悪かったよ」

 あっさり認めて謝罪までするので、面食らってしまった。

「清見さんは、瀬名さんのスマホを調べたいんだよね」

「そうだけど」

「俺も同じ。発信記録を見れば、彼女がストーカーかどうか簡単に分かる。つまり俺たち、目的は一緒ってことだよね」

 大神は嬉しそうに笑うと、目の前のマンションを見上げた。公園から歩いて十分、ようやくたどり着いたマンションはオートロックだった。

 エントランスには監視カメラが数台設置されている。私がキャップを被りなおすと同時に、大神は黒縁のダサイ伊達眼鏡を取り出して顔にかけた。

「やっすい変装」

「ほんと、清見さんのすっぴんにはかなわないよ」

 素顔と化粧顔がかけ離れてて悪かったな!

 そういえばこいつ、どうやって私とロコを結びつけたんだっけ。答えをまだ聞いていないことに気がついた。

「どうやって入るつもり?」

「田口さんからカードキーを預かってきた」

 部屋を調べたいと言ったら、彼はあっさりと貸してくれた。無用心だなあと思ったが、今回に限っては都合がいい。

 スロットに差し込むと、ほどなくして電子音が鳴り、自動ドアが開いた。大神と二人、何かを確認し合うように視線をぶつけ合う。私は覚悟を問う意味で見たけれど、向こうはどんな意味で私を見たのかは分からなかった。


***


 エレベーターで八階に上がり、人気のない廊下を進んだ。

 廊下の突き当たりに田口さんの部屋、その手前に瀬名さんの部屋がある。インターホンを押すが、反応がない。試しにドアレバーを引っ張ると、あっさり開いてしまった。

「待って、俺が先に行く」

 後ろにいた大神が私を押しのけて中へと滑り込んだ。

 勇敢なのか無謀なのか、あっさりと乗り込む大神にしばし呆然とする。我に返ると、慌てて後を追った。まるで私が怖気づいたみたいじゃないか。

「勝手に先に行かないでよ!」

 玄関で靴を脱いで一歩足を踏み出した瞬間、あのニオイがした。

 臭い、という感覚とは違う。鼻につく独特のそれに顔をしかめる。

 廊下の先が見えない。大神の声も、瀬名さんの声もしない。立ち止まることさえ躊躇ちゅうちょする空間に、寒気が止まらなかった。

 でもこの先に、大神がいる。いけ好かないとはいえ、クラスメイトをひとりにさせるわけにはいかなかった。勇気を振り絞り、ゆっくりと前に進む。

 そしてたどり着いたリビングで、瀬名さんはうずくまっていた。


「どうして、どうして"巣"に入れないのよ」

 瀬名さんは部屋の真ん中で、スマホを両手に持ったままぶつぶつと呟いていた。

 大神の姿は、瀬名さんのすぐ隣にあった。スマホの青白いライトに照らされた顔は、哀れみと嫌悪感けんおかんが複雑に入り混じっていた。

「田口さん、ねえ、入れて。私よ、いつもは入れてくれるでしょ?」

 私の指はリビングの照明スイッチを探していた。ようやく見つけた瞬間、容赦なく押した。

 目に痛いほどの白い光が一瞬部屋を塗りつぶす。明るくなったリビングで私が目の当たりにしたのは、壁一面に張られた田口さんの写真だった。

 笑った顔、真剣な顔、そして昨日、ファミレスで号泣している顔。

 瀬名さんは明るくなった部屋の真ん中で、相変わらずスマホに釘付けだった。ほとんど下着姿で髪はほつれ、化粧はぐずぐずに溶けている。私たちが来たことなんて気にも留めていない。


「もう勝手に入ることはできませんよ」

 瀬名さんの頭がぴくりと揺れる。やがて目の前に立つ私を見上げた。

「そんな部屋に縛り付けたって、田口さんは手に入らない」

「……でも私、好きなんだもの」

「好きになるのは悪いことじゃありません。でも、無理矢理結んだ縁なんて、悪縁あくえん以外の何物でもない」

 田口さんの心を、なんだと思ってるんだ。

 自分を責めて泣いていた顔を思い出す。誰にも信じてもらえなくて、苦しんでいた顔を。

 自分はおかしくない。

 でもそれを、どうやって証明したらいい?


「田口さんが、声をかけてくれたの」

 スマホを握り締めながら、瀬名さんがぽつりと呟いた。

「田舎から出てきたばかりの私に、最初に優しく接してくれたのが田口さんだった。あのとき、エレベーターが来たのに入らずに立っていたのよ。仕事に慣れなくて、友だちもできなかった。誰もいない部屋に帰るのが怖かった。そうしたら、大丈夫ですか、って田口さんが声をかけてくれたの」

 彼女の目は、ここじゃない過去の記憶を映し出していた。寂しげな表情が、うっとりと幸福に染まる。

「言われた瞬間、泣いちゃった。自分でも信じられないぐらい、泣けてきちゃったの。田口さんはびっくりして、でもずっと傍にいてくれた。背中を撫でてくれた。この人がいるなら、頑張れるって思ったの。……だから、誰にも取られたくなかった。私のこと、好きになってほしかった」

「だったらやり方を間違えましたね」

 それまでずっと黙っていた大神が言った。しゃがみ込んで瀬名さんと目線を合わせると、悲しそうに眉を寄せた。

「好きなら何をしても許されるなんて、間違ってる。好きなら、我慢しなきゃ。想いが伝わらなくても、耐えなきゃいけないんだ」

「でも、そんなのつらいわ」

「そうだよ、つらいんだよ、悲しいんだよ! なんで俺の気持ちに気付いてくれないんだって、相手のことが、憎くなる」

 瀬名さんの目に、わずかに光が戻った気がした。悲しい光が。彼女は少しずつ正気に戻ろうとしている。

「告白したいけど、断られたらどうしようって考えたら一歩も動けなくて、だったら傍にいるだけでもいいって思う。でも他のやつが近づくたびに不安になって、胸のあたりがぐちゃぐちゃになるんだ」

「分かるわ」

「相手の幸せを願えって言うけど、でも俺だって幸せになりたい!」

「そうなのよ!」

 んーっと、なんだろうこれ、なにこの恋愛相談室。

 大神の感情移入っぷりがハンパない。瀬名さんの罪を暴いてやる、とあれだけ鼻息荒くしてたのに、なに二人で共感しあっているんだよ。

「そうなのよ、私だって、幸せになりたい。でも」

 瀬名さんの頬を、涙がつーっと流れていった。

「田口さん、泣いてたなあ……」

 スマホの画面に雫がいくつも落ちていく。ひとしきり泣いたあと、瀬名さんはにじんだ画面を見下ろしながら弱々しく語った。


「最初はちょっとした妄想だったの。こんなふうに彼と過ごせたらいいなって想像するだけで楽しかった。なのに、いつの間にか変になってた。私が私じゃない、あんなことしたくなかったのに、気付いたら、私が、"ワタシ"になっていた」

 メール、無言電話、ベランダのケーキ、果たしてどこまでが彼女の意思でやったことなのだろう。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ、」

 スマホを投げ捨て、瀬名さんは床に突っ伏して咽び泣いた。大神は傍に寄り添い慰めの言葉を口にした。

 私は床に落ちたスマホを拾い上げ、"運命の赤い糸"を、スマホから消し去った。


***


 事件解決から数日後、田口さんからの近況報告の中に、瀬名さんの名前があった。

「瀬名さん、会社辞めて地元に帰ったんだって」

 随分やつれていたので、病気だろうか。心配です、と田口さんは締めくくっていた。

 大神は化学室の椅子に座り、じっとこちらを見つめていた。どうやら言いたいことがあるようだ。

「なに」

「瀬名さんがストーカーだって、田口さんに言わなくてよかったのかな」

「言っても田口さんにはショックなだけだし、よかったんじゃない? あのアプリに引っ張られてたとしたら、瀬名さんだけが悪いわけじゃないし」

「またそんな非科学的なことを言う」

「学者でもないくせに科学を論じないでくれる?」

「一般論だよ」

 ムキになって言い返してくる大神の台詞すべてが、負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。勝ち誇った顔で聞き流していると、大神は悔しそうに唇をひん曲げていた。ああ気持ちがいい。


「言っておくけど、俺は呪いのアプリなんて信じてないからね」

「はいはい」

「田口さんの見た女が、瀬名さんがアプリで作った分身だなんて馬鹿げてる。清見さんがなんと言おうと、あれは幻だ」

 枝毛を探しながら「へーそーふーん」と適当な相槌を打つ私に、大神は言った。

「俺の主張が間違ってることを、清見さんは証明できない」

 捜索の手を止め、私は大神を見た。ヤツはどうだと言わんばかりに胸を張っていた。

 貴様、私の手法をパクりやがったな。

「そのとおり。私は、大神君の主張を否定できない、するつもりもないよ」

 一時間目がそろそろ始まる。昨日はギリギリだったから、早めに戻らないと。

 もたれていた壁から背中を離すと、大神も立ち上がった。二人一緒に化学室を出てすぐ、大神が立ち止まった。


「そういえばあのアプリ、どうなったの?」

「あのクソアプリ? つぶしといたよ」

「へえーそう……どうやって?」

「"恋のおまじない"とか言ってるから、"呪い返し"しておいた」

「うん、言ってる意味が全然分からない」

 "おまじない"とか可愛く言ってるけど、漢字にしたら"おまじない"だからね。立派なのろいだ。

 恐ろしいものも、ひらがなにされたら途端に受け入れやすくなる。"夜露死苦=よろしく"とかそうだろ。違うか。

「製作者は今ごろ、ひどい目に合ってるだろうなあ」

 自業自得だ。ざまーみろ! ダーハッハ!

 まったく理解が追いついていない大神を放置して、私は思う存分高笑いした。

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