最終話 手のひらのぬくもりが消えても

「できたー……」

 そうつぶやいて俺が机に突っ伏したときはもう明け方近かった。

 人生最後の夜は、涙にくれるのか、それとも命のありがたみをかみしめるのか、そんな感じのことを考えていたのだが、結局俺の場合、急に思い立った事務作業を終わらせることで必死になっているうちに明けていった。


「これで、私が君の遺品の相続人になるというわけだな?」

 王は、俺が一晩かけて必死で書き上げた相続にまつわる書類に目を通した。

「はい。図々しいお願いをしてすみません」

「君が図々しいのには慣れている」


 俺は反逆者と仕立て上げられたとき、現金や金目の物を持って亡命したつもりだった。

 でも、無意識のうちに思い入れのある品々もたくさん持ってきてしまった。

 このまま処刑されたらそうした物は「貴金属」として国庫に没収されてしまう。

 でも、できることなら、所縁のある人に受け取って欲しい。

 まあ、父、祖父、姉、兄、従姉くらいなのだが。


「私が相続して、それぞれの品をこの人々に“寄贈”すればいいのか?」

 王は苦笑して品目と受取人の書いてある目録に目を通した。項目が結構細かく分かれていて、文句を言いたくなるのも当然だろう。


「いえ、その目録と一緒にまとめて父に“寄贈”していただければ父が何とかしてくれると思います」

「なるほど。悪知恵を働かせたな……。しかし、私には現金だけか?」

“寄贈”するもの以外は王のものということになるのだが、それは結局現金だけになったのだ。

「……現金、お好きなのでは」

「好きだが……」

 現金はかなり使ってしまったけど、それでも数えたら金貨で198アクチェもあった。

 40万アクチェの話があるから霞んで見えるかもしれないが図々しい願いの代償としては大金だ。


「現金は好きだが、私にも何かこう、形見の品のようなものはないのか?」

 この無愛想な男も、一年近くの付き合いのうちに可愛げのあることを言うようになったものだ。

「……何言ってるんですか、俺がずっと準備してたの忘れたんですか?」

 親族には、幼い頃からの思い出のつまったものを。王にはこの濃厚な一年の思い出がつまったものを贈るというのが、筋だろう。

「ああ、絵だな。どこに置いているのだ?」

「そんなに焦らなくても、処刑は日没後です。折角断食月が明けたんですから、久しぶりに明るい時間に一緒に食事を取りませんか?」

「そうだな……」


 徹夜で書類を作って、流石に疲れているし、お腹も空いている。

 でも、具体的なことをして具体的に疲れているから、今まで何度も襲われた、気の狂いそうな感じがない。

 死ぬときは適度に疲れているのがいいのかもしれない。


 朝の光が眩しい。これが最後だから、もっと眩しく感じるかと思ったけど、眠気が酷くて眩しすぎはしない。


「ちょっとだけ、寝てもいいですか」


 空腹の割に食事はそこまで喉を通らない。

 少し食べただけで疲れが出てしまった。

 長椅子に座っているせいか、ますます眠くなる。


「ああ。いつ起こせばいい?」

「1時間後……」


 王は、誰かに何かを言いつけた。

 しばらくして、長椅子の背にもたれていた俺の身体にやわらかで肌触りのいい掛け布が掛けられた。


「あ……ありがとうございます」

「急に涼しくなってきたからな。薄着で寝ていたら風邪を引く」

 あと半日の命だから、風邪を引いたって関係ないのだが……。

 それにしてもあと半日の命なのに、寝て過ごしていいのか?

 いいに決まっている。

 今寝なければ、こんな心地よい眠りに身を任せる機会はもうないのだから。


 隣に座っていた王は、別に頼んでもいないのに、俺の手に自分の手を重ねた。

 まあ、勝手にすればいい。


 いくら寝不足とはいえ、長椅子にもたれて熟睡はできないものだ。

 うっすらと目を開け、隣を見ると、長い黒髪を雫が伝い、膝の上に置かれたコーランの上に落ちていた。

 金と濃紺を基調とする華やかな装飾は水を弾き、雫は小さな玉となって文字の上を転がっていく。

 それが朝の光で眩しく光っているのが、美しいとかいう言葉では表せないくらいだったから、俺はもう天国にいるのかとしばし見惚れてしまった。いや、見惚れている場合じゃない。


「……何しているんですか、コーランを濡らさないで下さい」

 美しく装飾された聖典の上で丸くなっている雫を拭き取った。

「……起こしてもいないのに起きるな……」

 王は俺にその姿を見られたくなかったらしい。

 神を信じていないとか言う割に、人が見ていないところでも形として信仰深い行動を取るのは、偽善というより、やはり何らかの安定を求めているのだろうか。

「別にいいでしょう……というか、なんであんたが泣くんですか」

「逆に何故泣いてはいけないのかを聞きたいところだ」

 そう開き直りながらも、王は涙を拭いて、いつもの無愛想な顔を俺に向けた。


「いや?いいですよ。そりゃ、俺が死んだら悲しいですよね?どうぞ、泣いて下さい」

 別に茶化そうと思ったわけではないが、俺にはそういう言い方しかできなかった。

「……いや、大丈夫だ……。それで、君の絵を見せてくれないか?」

「あ、はい。そこの書類の下にあるんですが……」

「……え?工房ではないのか?」

「もともと、昨日の夜にお見せしようと思って持ってきてたんですが、相続のことを思い立ってそのままにしていました」

 王は壁に掛けるような大きなものだと思っていたのだろう。

 俺もそういうのを描こうかと思ったこともあったけどやめた。


 長辺が肘から指先くらいの大きさの絵、相続関係の書類に埋もれてしまうくらいの大きさだが、俺はこれがちょうどいいと思った。

 布でくるんだ絵を王に手渡した。


「泣いてもいいですが、そういうときはコーランを涙で濡らすよりは、それを腕に抱いているといいと思います」

 これ、俺の体験に基づくものだ。つらいとき、誰も周りにいなくて苦しいとき、あの大きさの板を抱いて泣いた。

 縦向けに膝に置いて、上から抱え込むように抱いて、嗚咽が収まるまで待った。

 医学的な根拠はないが、多分いいんじゃないのか?


「……確かに。それで、中身を見ていいか?」

「どうぞ。変な技法を使っていますが」


 王は布を取ると予想通り苦笑した。

「……変だな」

 苦笑しながらもじっと絵を見た。


「奥にいるのが私で、その周りの風景を含め、すべて遠近のない伝統画法で描かれている……」

 これは、今までここで学んできた人物画の描き方だ。建物と建物、建物と人物に遠近がなく物語性のある絵として描かれる。

「はい、王は遠近法は好きじゃないって言っておられたので」

 それに、王のような黒髪の美しい東洋人はこういう画法の方がより美しく描けると思う。


「だが、私に向かって差し出された手は、君の手か?それと私の間は遠近法で描かれている……?」

 そう、これが変なやつなのだ。王の周りの画法に合わせれば俺の手はどこにあろうと小さく描かれるはずだ。でも、遠近法を使っているから、画面右側の俺の手は建物よりも大きい。


「はい、俺は描いてみて遠近法も面白いと思ったので。俺が王に絵を残して行くとしたら、俺の伝えたいことを込めようと思ったんです」

 本当は、俺の世界観が伝統画法に近く、王の世界観が遠近法に近い。でも、互いに逆の世界に憧れている。奇妙なものだ。


「何を込めているのだ?」

 王は興味深そうに聞いた。

 王のように絵に関して優れた腕と目を持つものを相手に、自分の描いたものについて語るというのは、気恥ずかしさもあるが、もうそんなことも言ってられない。


「王と俺は育った環境も、考え方も、現在置かれている状況も全然違います。だから、全然理解できないこともたくさんありました。今だってそうでしょう?」

「そうだな。今も私は君がどういう心境なのか、わからない」

 本当のことを言うと、自分でもよくわからない。どうして今日はこんなに穏やかなのか。王が奇妙に思うのも当然だ。


「全然違うというのを画法の違いで表しています。別の世界に生きているような感じを出しているのです」

「君の言いたい事は、我々は別世界の住人だと?」

「はい、そんな感じがします。でも、実際、俺が苦しんでいるとき、俺が差し出しているこの手を王は握ってくれました。俺の苦しみは俺のもので、王の苦しみは王のもので、互いに理解できないことはたくさんありましたが、一緒にいることはできました。だから、一枚の絵に収まるのです」

「……なるほど……」

 王は頷きながら、絵をじっと見た。


 理解できなくても、同じ気持ちになれなくてもいい。

 そもそも、別個の人間に同一であることを求めるのがそもそも無理なのだ。

 むしろ、それを求めることが孤独を生み出す。


「それだけじゃありません。俺は王に何か救いを残して行きたいのです」

「そうだな、残して欲しい」

「前に王自身も言っておられましたが、俺って、王が元気ないときの方が元気でしたよね。あれは別に他人の苦しみを喜んでいるのではなく……」

「わかっている。受けるよりも与える方が幸いだからだろう?」

「そうです。この絵には処刑という、王は経験したことのない状況で悶え苦しんでいる俺の手が描かれています。でも、王はその手を握ることで、俺の苦しみを和らげてくれました。今も、こうやって側にいてくれる。それがどれだけ俺を救っているか。だから、王は幸いなのです」


「……そうかもしれない……」

「何ですかその曖昧な言い方は。もっと自信を持って下さい。折角頑張って描いたのに」

「君は悪くない。絵を見るとその思いは伝わる。だが……」

「王は神を信じていないから?」

「……ちょっと待て」

 王は慌てて人払いをした。おっと、人前で言ってはいけないやつだったな。


「でも、そういうの、気にしなくていいんじゃないですか?」

「気にせずにいられるか。このようなこと、人前で口にすれば……」

「だから、人前で口にしなければいいじゃないですか」

「そういう問題ではなく……」

「もし、神がいなければ不信心は咎められることではないし、何を心配しても無駄なことです。逆に、神がいるとすれば……何とかなります」

「何とかなるというのは、君のように神を信じる普通の人の話だ」


「うーん、ですから、“神を信じている”と公言している人のすべては、神から見たら本当に信仰深い人なのですか?俺は違うと思います。世の中、偽善者だらけですから」

 本当、ひどいやつがいっぱいいる。自分の正義を振りかざして傲慢に生きている人間が。

「それで何だ、逆に“神を信じていない”と言っている人の方が実は神を信じているなどと言うのか?」

「そんな断言はしません。でも、自分が一番自分のことを正しく理解している、と思うのは違うのではないかと。俺も王の内面はよくわかりませんが、多分何とかなると思います、生きている間も、死んだ後も」

 傲慢なやつが自分の傲慢さに気付いていないこともあるように、敬虔な人間が自分の敬虔さに気付いていないこともある。王だって、もしかしたら自覚していないだけで、神から最も喜ばれる生き方をしているのかもしれない。もちろん、神がいるという“俺の世界”が前提となっているが。


「根拠は」

 ほら、すぐこういうことを言いたがる。

 でも、そういう問題じゃないんだ。

「根拠なんてありません、願望ですから」


 何とかなる、は信仰。願望は、祈り。

 無神論者を自称するやつにはそう言い換えてやった方がいいのだろう。


「わかった。君を信じる」

「だから俺を、じゃなくて……」

 いや、それでいいんだ。


 はっきり言って、神なんて直接信じるものじゃない。

 神の慈悲を礼拝で何度も口にするが、実際にそれを感じるのは、具体的な人間との関わりを通してだ。王との関わりなんて、まさにそれだったじゃないか。ただこいつとぐだぐだ喋ったり絵を描いたりしていただけのように思えるが、ああしたことの一つ一つが神の慈悲の実践だったはず。そして、何故それができたのかといえば、俺も生きていて、王も生きているからだ。生きたいと思ったとき、命を感じ、神を感じる、そういうものじゃないだろうか。もちろんいつかは死んでしまうのだが、それでも貴重な時間が与えられたということ。


 どれだけの意義があったか、どれだけの成果があったか、そんなんじゃなくていい。俺が命をありがたく感じ、誰かの幸せを望んで生きた時間が確かにあったということ。これは俺にとって間違いなく幸せなことだ。


「長椅子でごろごろするのっていいですね」


 俺は王の隣に横になった。

 王は苦笑して、真っ白になってしまった俺の髪を指で梳いた。

「染髪料、取り寄せたのだが間に合わなくてすまなかったな」

 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。

「いいですよ、俺は王ほど髪の色に執着していませんから」


「……そうか。寝たければ寝ていろ。私はここで仕事をするから」

「はーい……では、寝ます」


 多分、次に言葉を交わすのは別れの時だ。


 俺は生まれた時から死ぬ運命だった。

 そして予定通り、そうなる。


 心残りなことはたくさんあるけど仕方がない。

 いくら生きてもそうなんだと思う。

 死にたくないのは、生きたいのは、幸せを知ってしまったからだ。


 これがたまたま逃げ込んだ敵国での話だったから、俺が特殊なように思えるかもしれないが、普通の人は、自分の生まれた場所で、周りにいる人との間に何らかの幸せを見つけていく。


 俺と同じく、生まれた時から死ぬ運命にある王だってそうだろう。


 仕事をすると言いながら、王はずっと俺の絵を見ている。

 何を考えているのかはわからないし、別に聞く気もない。

 今、互いに求めているのはわからないままただ隣にいることのような気がするから。


 俺は自分の両手を重ねてみた。

 大丈夫、あたたかい。

 ちゃんと生きている。


 母が死んだとき、その手が冷たくなってしまって、どうしようもなく悲しかった。でも、しばらくして気付いたんだ。

 俺を抱き締めてくれた母のぬくもりは、母自身からは消えてしまったけど、俺の方に残っているって。


 だから、俺だってそうなる。

 母ほど多くの人に対してぬくもりを与えられたとは言えないけど、それでも俺を大切にしてくれた人たち、俺が大切にしてきた人たちには残ると思うんだ。


 仕事をする気配もなくぼんやりしている王の手を握った。

 王は何か言おうとしたが、何となく互いに無言で目を逸らした。


 俺の手のひらのぬくもりはもうすぐ消える。

 それでも、王にはそれが残る。

 王が生きている限り。

 そして王が死んでも、また誰かがそのぬくもりを感じながら生きるのだろう。


 俺自身が死んでどうなるかは、神の領域だから、何とかなると思うしかない。

 でも、人と人の間ではそうやってぬくもりを受け渡していくんだ。


 眠くなってきて目を閉じた。

 次に目が覚めるとき。

 俺は王とどんな言葉を交わすのだろう。


 別に何だっていい。

 もう何も言わなくても俺が残していくものは、王の中に確かにあるのだから。

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