第16話 合理的に狂っていく世界(後編)
「起きて聞いた方がいいですか?」
倒れて、王に治療してもらって、そのまま寝ているのだが、いいのだろうか。
「起きたければ起きてもいいが、別にどちらでも。椅子がいるなら自分で取ってこい」
……それは面倒だな。もういいや、このままで。
「じゃあ、話して下さい。人払いまでして、何なんですか」
王は俺の側に置いた丸椅子に腰掛け、話始めた。
「私はいろいろなことを合理的に捉えようとした。さっきの奇跡もそうだし、サファヴィー教団の教主が無謬である理由も」
「いいと思いますが」
それにしてもさっきの教団裏話の方も聞かれて大丈夫だったのか、と思ったりするくらいの内容だったが。
「そうやってすべてを理性で把握しようと、自分を駆り立てていった結果……」
王は自分で膝の上に置いた自分の手の甲を握りしめた。
俺が、いつだったか死への恐怖から杯を砕いた後、王の腕を握りしめていたように。
指が手の甲に食い込んで、爪の先が白くなっている。
無意識なんだろうか。
何、どうしたんだ。
俺の方が怖くなってきた。
何か、言ってくれ。聞くから。
こっちが沈黙に耐えきれなくなって、口を開こうとしたその瞬間に王は、ぽつりと言った。
「神を殺した」
王は、これ以上ないくらいに青ざめた顔のまま、俺の方を見ている。
いや、俺の目を見られないのか、俺の寝ている枕のあたりを見ている。
凍り付いたような沈黙が続いた。
ちょっと待って。
待ってくれ。
待ってくれ。
でも待ってもらってどう反応したらいいんだ?
「……大丈夫か……?」
王は俺の反応にかすかな落胆を滲ませながら、俺の脈を取った。
「……速いな」
「そ、そりゃそうですよ……」
そんなこと言われて、動転するなという方がおかしい。
知ってる、神を殺すという表現。
人間が神を殺すなんてことはできない。
だからそれは、人が神の存在を強く否定する意味だ。
「神を見失う」というのが、本人の責任は弱いのに対して、「神を殺す」というのは主体的で明確な神の否定だ。
聞いたことがある。
気が狂った人はそんなことを思うんだと。
あるいは、そんなことを思うから気が狂ってしまうんだと。
でも、王は狂っているのか?
俺には全然そんな風に思えない。
でも狂っていないやつがなんで神を殺すのだ?
本当、待ってくれ。
そもそも、俺にそんなこと、言っても大丈夫なのか?
教義的にいえば狂人には責任能力がないから、基本的には罰してはいけない。
だが、逆に言うと、神がいないなどという狂人は社会的な責任を担えない者とされる。
「発狂」というのは自国の君主や高官を廃位したり罷免する口実にもなる。
今のオスマン帝国でサファヴィー朝との和睦を望まない者がこういうことを知ったら、「狂人との契約は無効だ」という隙を与えてしまう。
いや、もちろんこの和睦には俺の命がかかっているんだから、俺が敢えて壊すようなことはするはずがない。
でも、そのくらいのことだ。
それは社会規範から逸脱した考えだから。
「神から遣わされた救世主」と自称する方が、狂った度合いはましだ。
あくまでも神の存在を前提としているから。
「神を殺した」、そんなことを言う人間は正気じゃないと、気味悪がって離れていくのが普通だ。
正気じゃないやつと一緒にいると、自分も正気じゃないと思われるから、それで離れるやつも多いだろう。
じゃあ、俺は?
俺は何で動揺しているんだ?
「神を殺した」と言うやつを初めて見た。
それが、自分にとって親近感を覚えていたやつだった。
じゃあ何だ、どうすればいいんだ?
その親近感を誤りだったとすべきか?
違う。それは違う。違うというか、絶対したくない。
でも、「ああ、そうなんですか、よくあることですよね、わかります」そんな風に心から言えるか?
それも絶対できない。
俺の常識がそれを受けつけない。
俺にとって神がいると感じるのは信念とかいうより、もっと自然なことだ。
どうやって呼吸をしているか、考えたことがないけど呼吸をしている、そういう感じのことだ。
だから、今俺は、呼吸をしなくても生きていられる、と告白されたくらいの衝撃を受けて混乱している。
ちょっと待ってくれ、時間をくれ。
でも、時間で変わるのか?
王は、俺にそれを打ち明けたのは、俺がもうすぐ死ぬからじゃない。
俺を信頼しているから、打ち明けてくれたのだろう。
でも俺は、王への好意と、俺の中の常識との間で押しつぶされそうだ。
「……要らぬことを言ったな」
王は俺の手を放した。
脈が落ち着いたから放したのかもしれない。
でも俺は、拒絶されたように思えた。
いや、俺が拒絶するから王が離れようとしているように感じた。
「ちょっと、俺、何も言ってないでしょう」
「……そうだったかな」
「そりゃ、脈拍上がるくらい動揺しましたよ、でも言い出しておいていきなり話を打ち切らないで下さい」
「……不快では……?」
そうかもな。神を殺すようなやつと一緒にいるのは気持ちが悪いって思うやつ、多いだろうな。
でも、なんで俺がどう思っているかをあんたが勝手に決めるんだ。
「そっちこそ、遠近法で語るの、やめてくれません?俺、何も言ってないじゃないですか」
その言葉に、やっと、王の固まった表情が和らいだ。
「遠近法で語るな……私が先に言ったんだったな……」
「そうですよ。他人の思いを自分の立ち位置から勝手に思い描かないで下さい」
王はゆっくりと息を吐いた。
「こう見えて私は繊細なところがあるから、君に軽蔑されたかと思った」
俺にどう思われるかで爪が白くなるほど手を握りしめていたのかと思うと、王がちょっと可愛く思えた。
可愛い、それだ。大丈夫、冷静になれる。俺には理解不能なこと言っているけど、怖がったり気味悪がったりするんじゃなくて、25歳くらいの子がよくわからないことを言っていると思って聞けば、多分何とかなる。大丈夫、俺は大人なんだから。
「大丈夫です。俺もこうみえて神学教育はかなりしっかり受けてきた方なので、無知蒙昧な民のような拒絶反応は起こしません」
本当、これなのだ。これは、両親に感謝すべきところだろう。
ちゃんとした信仰者は異教徒や異端者、無神論者を迫害したりしない。
何故ならそうした者を裁くのは神であって、人にはそんな権限はないからだ。
人の信仰や不信仰について上から指図するやつこそ傲慢の罪を犯している、それくらいはわかっている。
「でも俺には、正直、わからないんです。神がいない世界っての」
「ああ、普通わからない」
だから、孤独なわけか。そりゃ、そうだろう。
これは身内にも言えない。下手に口にしたら廃位の口実を与えてしまう。
一般人でも大変なことだが、王族だから余計に大変だ。
「死ぬのが怖いのは、そこと関係しているのですか?」
「ああ。神がいない世界というのは、死後もないということだ。今生きているこの世界がすべて」
「……じゃあ、今の生が終わったら?」
「さあ……無に帰す……?そう思うと恐ろしくないか?」
そりゃ、そう思うと恐ろしい。
でも、俺はそうは思ってない。
俺が死を恐れているのは「消滅」じゃなくて、「別れ」だからだ。
俺は普通にイスタンブルに帰れるのだとしても、秘かに泣いて悲しむと思う。
だって、王とこんな風に過ごせるのは、最後になってしまうから。
天国がどんなに素晴らしいところだとしても、やっぱり俺はこの世界と別れたくないんだ。
でも、何でそんな恐ろしいことを考えてしまうかなあ……。
「死ぬのも怖い。だが、生きていてもまた怖い」
何故この人は、怖いという言葉をこんなに毅然と言い放つのだろう。
弱々しく言われるよりも、ずっと怖い。
「何でですか」
何で生きていることまで怖いんだ?
「この世界から拒絶されたら、何も残らない。私には、この世界がすべてなのだから」
王はとても静かに言った。
でも、やっぱり爪の先が白くなっている。
この世界から拒絶されたら。
何も残らない。
私にはこの世界がすべてなのだから。
ひとことひとことを、思わず復唱してしまう。
なんて悲しいことを言うんだ。
そうだとしたら悲しすぎる。
「何で君が泣くのだ……」
「泣いてません……頭を使ったら痛くなって涙が出てきただけです」
そう。俺は拒絶なんてしたくない。
わけわからないこと言ってるけど、俺は向き合いたい。
世話になってるからとか助けてくれたからとかそれだけじゃなく、そうしたい。
「何に頭を使っていたのだ」
「俺にわかるような次元で質問するにはどうしたらいいかなぁって」
「ふうん?別に、普通に聞いてくれたらいい」
少し、いつもの会話に近付いてきただろうか。
「じゃあ聞きますけど、地動説を、信じていますか?」
「何故、地動説……」
俺の問いが意外だったようで、王はぽかんとしている。核心からじゃなくて、一見関係のなさそうなところから詰めていく。父が得意とする論法だ。
論理的に狂っていった世界なら、論理的に辿っていく。
俺の能力でどこまでできるだろうか。
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