第2話 善良そうな異端者

 砂漠を突っ切ればサファヴィー朝にたどり着くはず、という目論見は甘く、方向音痴な俺はその砂漠から出られず、死ぬかと思っている時に、怪しげな黒装束の集団に拾われた。


 一目見て、異様な集団だったのだ。

 特に、その頭とおぼしき男。

 すごい美貌だ。俺の貧相な語彙では表現できないくらいの、美中年というやつか?

 俺たちのような欧州ルメリとルーシの混血とは違う。

 黒髪で切れ長な目で……

 後になって45歳であると知ったのだが、年齢不詳な、東方の美を凝縮したような男だ。


 だが、おかしいのだ。

 何がって、ターバンの色。

 普通、何をどう間違っても、黒いターバンは巻かない。

 黒いターバンは預言者ムハンマドだけに許されたものである、とするのが正統派の考え方だ。


 ――異端の巣窟に来てしまった……


 この異様な姿を見て、サファヴィー朝ならば政治的な理由から俺を匿ってくれるのではないかなどという考えは甘かったのではないかと思えてきた。

 黒ターバンの異端者共は、日々の祈りの中に、正統派への呪いを込めているという。

 正統派であることを口にしただけで、異端者に焼き殺された者すらいると言う。

 死ぬという覚悟はできていても、焼き殺されるのは別だ。

 普通の人間なら、遺体を焼くなんて考えられないだろう。

 処刑されることに決まっていた俺ですら、自分の遺体を焼かれるなどという忌まわしいことは想像もしたことがなかった。

 黒ターバンの男は部下とおぼしき白ターバンの男と何やら話しているが、そこに「背教者」などと、俺たちは余程のことがなければ、いや、余程のことがあっても口にしないような恐ろしい言葉が聞こえてきた。


 殺される。殺されて、焼かれて、灰にされて、神の下にも行けず……一体どうなるのだ?

 恐ろしくて身動きが取れずにいる俺に、魔族のような頭はアゼリー訛りのあるトルコ語で話しかけてきた。


「君は、何者だ。ここで、何をしている」

 異端者から見たら俺は異端だ。下手をすれば焼き殺される。


「お、俺は、通りすがりのキリスト教徒で……」

 確か、こいつらは正統派を迫害者と見做し「火あぶりにしてやらねば」と思っているが、キリスト教徒に対しては「勝手に地獄に落ちていろ」くらいにしか思っていないと聞く。特にオスマン帝国に対しては朝夕に呪いの祈りを行っているとか言うから恐ろしい。


「……このあたりのキリスト教徒はトルコ人のような格好をしているのか……?」

 もっともな指摘のような気もするが、実際セルビアのキリスト教徒でも同じような格好のがいる。

「はい、実は俺たちはオスマン帝国に売られたルーシの民なのです」

 黒ターバンの魔族は、興味を示したらしく、駱駝から降りて俺の顔をまじまじと見た。


「ふむ……確かに、元は白皙のルーシだったのだろうな」

「元はって……」

 失礼な奴だ。俺の顔はともかく、肌の白さときめ細かさだけは帝都でも一二を争うと言われたんだぞ?


「君のような北方の民にはこの日差しは強すぎる。顔が日に焼けて真っ赤だ。痛くはないのか?」

 そう言われて、急に顔のひりひりとした痛みに気付いた。

 疲労と、空腹と乾き、そして異端者への恐怖で、自分の顔がどのような状態に晒されているのかに、注意を払っていなかった。

「か、鏡を……」

 慌てて逃亡してきたから、どこに何があるかわからない。というか、鏡、持ってきただろうか。

 数少なくなった俺の部下たちも殆どが北方の者で、痛々しいほどに日焼けしていることから、自分の顔もある程度どういう状態か、察しがつく。


「悪いが私も鏡は持っていない。……君たちは、オスマン帝国から逃げているのか?」

 いろいろ嘘は言っているが、それは間違いないことだ。

「はい……」

「故郷は?」

 え? どうすればいいんだ? 答えたら送っていってくれたりするのか? それはそれで困るのだが……。

「ルテニアのロハティンという街……なんですが……」

 とりあえず、母の故郷しか思い浮かばず、答えてみた。


「全然方角が違うが……?」

「ええ、ですから、方向音痴なもので……」

「……どうしたい? ルテニアに帰りたいのか?」

 何だこの魔族、すごくいい奴だ。嘘を言ったことに少し後ろめたさを感じてしまう。

 いや、完全に嘘ではない。俺の母はルテニアの司祭の娘でキリスト教徒だったし、祖父は今でもひっそり教会で奉職しているはずだ。

 だが……そっちに逃げ込むわけにはいかないだろう。

 外戚としての一切の栄光を拒み、ひっそりと生きてきた祖父を王室の醜悪なもめ事に巻き込みたくない。


「あの、違うんです、オスマン帝国に攫われてきたのは母で、俺はオスマン帝国で生まれ育ったんで、ルテニアには殆ど知り合いもいないのです」

「……そうか。しかし君たちの服装からすると……奴隷軍人では?」

 よくおわかりで。

 そうなのだ。流石に俺が元々着ていた服では王子だとわかってしまう。

 それで、その辺りに倒れていた奴隷軍人の服で、いかにも制服という感じではないものを剥いできたのだ。


「……可哀想に」


 そのひとことには、蔑んだような哀れみではなく、言われたこちらの方が相手に詫びたくなるような重さがあった。

「政争に巻き込まれ、切り捨てられたのか」

 当たってる。当たってるんだが、俺はその政争のど真ん中にいるということがちょっと違う。


「……で、そちらはどちら様で……」

「軍人だ。奴隷ではないが」

「あ、そうですよね……」

 いやだって、こんな国境の砂漠を武装してうろうろしている奴なんて軍人に決まってるだろう。


「そうか、砂漠の軍人は駱駝兵なんですね……」

 当たり前のことを口にしながら、俺は、真剣にどうしようかと迷った。


 国境の砂漠で出会った黒ターバンの軍人。

 身なりや言っている内容からオスマン帝国の軍人であるはずがない。

 ……となると、サファヴィー朝の軍人だ。

 こいつにどれくらい権限があるのかはわからないが、亡命の一歩を踏み出すことができる……できるかもしれないが、してしまっていいのか?

 本当に、そんなことをしてもいいのか?


「私は王都に戻るところだが、君たちを乗せるくらいの余裕は何とかある。どうする?」

 どうするって……王都って……ガズヴィーンだろ?

 俺の一族をめちゃくちゃにした悪鬼のような王タフマースブ1世のいるところだろ?

 怖い、怖いって。


 だが、王族の亡命となると、その魔王に会わなければならない。

 改めて親切な魔族を見る。

 すごい美形なのに、無表情なせいで第一印象が怖かったんだな。

 だが改めて見ると……本当独断と偏見でしかないが「趣味・特技は仕事」みたいな感じの退屈そうな奴だ。

 何でこういう善良そうな美中年が魔王の手下とかやってるんだろう。

 残念な世の中だ。

 いや、もっと残念なのは、何の恨みもないのに殺し合わなければならない俺の一族だ。


「あんたについていくと、王様にお目通りとか、できますか?」

「王に会いたいのか? 何故?」

 まあ、普通の奴隷が逃げたくらいなら、王には会わないよな……。

「うーん、何というか、まあ」

 本当、何というか、だ。要らぬことを言ってしまったようだ。


「ふむ……いろいろあるようだな。まあ、とりあえず、駱駝に乗ってから話そうか」

 ……駱駝。……駱駝!?

「……もしかして、乗れない……とか?」

 人生の殆どを欧州で生きてきた北方民の俺が、どうしたら駱駝に乗るとかになるんだ……。


「わかった、わかった。連れの人たちも皆同じような感じなのだな? いずれにしても駱駝の数は足りないから一頭に二人で乗ることになる。君は私のところにおいで。話を聞こう」


 え?いや、俺が砂漠に来た目的って何だっけ?

 亡命?いや、違う。

 俺のことを大切に思っているやつらの前で死にたくない。

 それじゃなかったか?


 なのになのに。


「……急に食べると腹痛を起こすぞ?」

 うう、何だかわからない干物と水が、何故こんなにも美味いのだろう。

 魔王の手下の忠告を聞かず、俺はガツガツと食べ続けた。

 大人しい二瘤駱駝は主に加え、俺を乗せても全く疲れを見せることなく、ゆったりと歩き続ける。


「では、君の話を聞こうか。名前は?ああ、オスマン帝国での名前はいい、本名を」

 ……キリスト教徒だと言っただから、それらしい名前を答えられなかったら嘘だ、ということか。

「アレクサンドル・リソフスキ-」

 それらしい、ルーシの名前ではあるが、まずい、正直に答えすぎた。

 ヒュッレム皇妃と呼ばれた母の本名――アレクサンドラ・リソフスカ――を男性形にしただけじゃないか。


「アレクサンドル……イスケンデルか。イランでは好まれない名前ではあるが、かの大王の名だな」

 ……こいつら、自称イランなのか。

 イランというのは、こいつらが占領している地域に昔あった文明国だ。

 西欧人はペルシアと呼んでいるところだ。

 何がイランだ、トルコのど田舎の蛮族が……。


 いや、問題はそこじゃなく。

 何で俺はこいつに、身元が分かりそうなことばかり喋ってるんだ。

 嘘をつけばいいのに。適当にイワンとかワシリーとか言っておけばよかったのに。


 そういうとこ、俺は無駄に育ちがいいんだ。

 嘘を言うのは悪いことだ、小さい頃からそう教えられて、守って生きてきた。

 生きて来られた、というべきか。


「そうか。それで、サーシャ」

 ルーシの民はアレクサンドルやアレクサンドラという名をサーシャと呼ぶ。

 オスマン帝国にもサファヴィー朝にも、たくさんのサーシャたちがいる、多くは奴隷として。

「勝手に愛称で呼ばないで下さい、そんなに親しいわけじゃないでしょう」

 俺がここまで苛立つ理由を、勿論この男が知るはずはないだろう。


 ――サーシャ。


 俺が幼かった頃、父は母のことをそう呼んでいた。

 匪賊に攫われ、奴隷商人に売られて後宮に入った母を、父は昔馴染みのように大切にしたという。

 そう、恋人とか寵姫とか言うより、生まれたときからずっと家族だったんじゃないか、そんな感じの仲の良さだった。


 だが、それは俺が10歳の時で終わった。


 それがこいつら、サファヴィー朝との戦いのせいだった。

 凶悪な敵を前にオスマン帝国は甚大な被害を被り、その責任の所在を巡って、両親は激しく対立した。


「――では聞こう、アレクサンドル」


 眉目秀麗な魔族は真面目そうな顔をますます神妙に引き締めて聞いた。


「何故、君は王に会いたいのだ?国で何があって――」

「そんなことは、一介の軍人が知らなくてもいい」


 俺が問いをぴしゃりと遮ったことに、魔族は驚いたらしい。

 俺はイスタンブルの市井風の言葉が好きで、結構染みついていると思うが、やはりどこか王族的な尊大さを感じたのだろう。

 

「あんたはただ、俺を王に引き渡せばいい。王が俺をどうするか……それは王の判断だ。あんたは王に従えばいい」

「……そうか」


 魔族はぽつりと答え、そのまま駱駝をゆっくりと進めた。

 砂漠は前も後ろも左も右も、同じように見えた。

 王に引き渡されて、王がどうするかは王の判断だ。

 そう言ったものの、本当にそんなところに判断を委ねていいのか、敵国の王子が。


 ……いいわけないだろう。

 だが、動き始めた流れを変えるのも面倒で、俺は魔族の駱駝に乗せられ、出された食事をガツガツと食べ、ガズウィーンに着く頃には結構元気になっていた。


 我ながら頑丈な精神をしている。



 

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