バヤズィット王子の処刑

崩紫サロメ

第1話 バヤズィット殿下御謀反!

 俺は、生まれたときから、処刑される運命だった。

 だが、これは違う。

 俺は、「犠牲者」として、屠られる羊のように死ぬはずだったのだ。

 それなのに――。


「反逆者バヤズィット、武器を捨てて大人しく投降しなさいっ!」


 俺に銃を向けている甲冑の女はミフリマー王女。俺の姉だ。

 姉の周りには緑に三日月のオスマン帝国海軍旗を掲げた兵士たちが、やはり俺に銃を向けているのが、薄闇の中でもわかる。


「姉上、何で海軍がこんな内陸まで追ってくるわけ?いや、それもあるんだけどそれより」


 俺を反逆者呼ばわりして、銃を向ける姉に、全力で叫んだ。


「俺は何もしてないっ!何で俺がセリムの命を狙って挙兵なんかしなきゃならないんだよ!」


 聞こえたか?聞こえているよな?

 俺は無実だって、ずっとずっと言ってるだろう。

 この意味不明な状況は1週間に渡って続いている。

 そして、俺はよく分からないまま、無実を叫びつつ、多分、東の方へと逃げている状態だ。


 ――バヤズィット殿下、御謀反!


 という知らせに最も驚いたのは、この俺、オスマン帝国皇帝スレイマン1世の5男である王子シェフザーデバヤズィットだ。

 5男といっても、6人いた男兄弟は、年子の兄セリムを除いて皆死んでしまい、男女含めて兄弟といえば、そのセリムと今俺に銃を向けている怖い姉・ミフリマーだけだ。


「……馬鹿なの?」


 姉は冷たく笑った。

 幼い頃から聡明で父の信頼厚く、40歳になる姉は“女帝”というべき貫禄を備え、病身の父の代理人となっている。

 金色の艶やかな髪に、翆の目は、若く美しかった頃の父を思わせ、その瞳に宿る野心とたくましさは、亡き母を思わせる。

 姉は両親から美点や強さばかりを受け継いだ。

 ――俺とは逆だ。

“中身が絶世の美女”と後宮の女たちからも恐れられ、敬愛された母の平凡な容姿。そして完璧に近い父の数少ない欠点である方向音痴さ。

 明らかに両親から受け継いだのはそのあたりで、正直、今自分がどこにいるのか、よくわからない。


「そうだよ、俺は馬鹿だし、政治のことなんて何もわからない。でも、俺は反逆なんてするような人間じゃない。兄を殺してまで皇帝になろうとするような人間じゃないって、姉上が、一番わかってるだろう!?」


 5歳上の姉と、1歳上の兄セリム。幼い頃からずっと仲の良かった同母兄弟。

 姉には双子の弟がいたのだが、俺が生まれる少し前に死んでしまった。

 その分なのか何なのか、セリムと俺は、何かと姉に可愛がられた……というのだろうか。

 いずれは、処刑されなければならない弟たちを不憫に思っていたのだろうか。


 うちの王室には“兄弟殺しの掟”という残酷な慣習法がある。

 皇帝になれなかった王子は、後顧の憂いを断つために処刑されなければならない…そういうものだ。

 これを定めた高祖父、メフメト2世は19歳で即位したときに、生まれたばかりの弟を殺した。


 だから俺たちも、父の死後、誰かが皇帝になるとき、殺されなければならない、と幼い頃から知っていた。

 凡庸なセリムや俺は、皇帝にはなれないから、殺されるに決まっている。

 だから、喧嘩などせず、仲良く飲んで喰って遊んで生きてきたんじゃないか。


「だから、お前もセリムも馬鹿なのよ」


 姉は冷たく言った。その口調には、深い悲しみがこもっているのはわかる。

 馬鹿な弟を、殺さなければならないという、悲しみが。

 いや、ちょっと待て。

 何で、俺は無実なのに反逆者として殺されなければならないんだ?


「自分が命じなければ、周りが動くことはないと思っていた?」


「え……?」


 姉の言葉の意味が、わからない。

 いや、うっすらわかるけど、わかりたくない。

 双方の配下たちがにらみ合う中、姉は静かに言った。


「陥れられたのよ、セリムの支援者たちに」


 つまりそれは。

 俺は何もしていない。

 セリムも何もしていない。


 でも周りがどちらかを次の皇帝にしようと動いていた。

 この度のことは…。

 セリムを皇帝にしたい奴らが、“バヤズィット殿下御謀反!”とでっち上げたということか?


 何だ。

 ちょっとほっとした。

 俺は正直、セリムが俺のことを邪魔になって、消したいんじゃないかと考え、ぞっとしていた。


 セリムは喰うことと飲むことばかり考えている馬鹿な兄で、俺も似たような弟だから、二人で下町まで繰り出して、うまいものを求めて飲んだり喰ったりした仲だ。

 で、何故かセリムだけが太る。そういう体質なのだろう。

 あいつはそのことをぐちぐち言うこともあったが、やはり、王族とは思えない、仲の良い兄弟だと思っている。


 俺とセリムは「たかが皇位」ごときで喧嘩なんてしない。

 そのことがわかってほっとしたのだ。


「はあ、そういうことなのか。じゃ、姉上、何とかしておいて」


 この一週間、謀反人呼ばわりされて逃げ回って、正直疲れている。

 こういうのを収めるのが有能な姉の仕事だろう。


 俺の言葉に、姉は心底呆れた顔をした。


「…お前、何年王族をやっているのよ…」

「えっと、35年?」

「35歳にもなって、そんなこともわからないの!?何故、ムスタファ兄上が処刑されなければならなかったか、わからないままなの!?」


 ムスタファ兄上。

 俺たちの異母兄で、随分前に処刑された。

 理由は……“挙兵したから”。

 何のために、誰に対してだったのかは定かではない。

 実は兄は潔白で、誰かが仕組んだことだったとも言われている。

 だが、皇帝の許可なく兵を挙げることは反逆と見做され、皇帝であっても、それを許すことはできない。


 だから、兄は父の前で縊殺されなければならなかったのだ。


 40歳を過ぎた頃から様々な病気を患い痩せ衰えていた父が、ますます痩せていき、干物のようになっていった。

 オスマン帝国皇帝に、このような息子を許すという選択肢があれば、父は今も穏やかに歳を重ねていただろうに。


「ちょっと待って、今の俺、ムスタファ兄上のような状況なのか!?」

「間違いなくそうよ」

「……それって、処刑されるってこと…?」

「残念ながら」


 姉はあっさりとした言い方を、しようと努力しているようだった。


「ちょっと、泣かないで、姉上……」


 気丈な姉の目に、涙が溢れているのを見て、焦った。


「泣いてなんかいないわよ、それより、自分の身のことを考えなさい」


 ――自分の身?

 いや、何かよくわからないけど、俺は無実だし。

 無実なのに、死ななければならないとしたら……


 ――泣かないでくれ、姉上。姉上が泣くくらいなら……


 食い意地は張っているが根は優しいセリムや、情が深すぎて痛々しい父は、一体どうなるんだ。


 俺の行動は浅はかだったとは思う。

 それでも俺は、ムスタファ兄上の処刑を見てきた者として、耐えられなかったのだ。

「残される者」の姿を見なければならないのが。


 どうせ死ななければならないなら、誰も知らないところで、ひっそり死んでやる。


 そんな決意を込めて、数少なくなった配下に一斉射撃を命じた。

 馬の足もとを狙ったことで、姉の部隊は混乱に陥り、その隙を狙って、俺はよくわからない方向に逃走した。


 関所を避けながら移動していたところ、目の前は砂漠だった。


「進むしかありません、殿下」


 俺のところに配属されたばかりに、共に反逆者の烙印を押された部下が言った。

 そうだ。引き返したら、追撃に遭う。

 だが、ここがどこの砂漠なのか、わかるやつ、いるだろう。

 いるはずなのに、誰も言わない。


 この砂漠を越えたら、サファヴィー朝――宿敵と言える国に出るはずだ。


 反逆者は友好国に逃亡することはできない。

 何故なら、友好国の君主は、我が国の体面を重んじ、「反逆者」を引き渡すからだ。

 だから、逃げるには――敵国しかない。


 生きたいんじゃない。死にたくないんじゃない。

 ただ、俺のことを大切に思っているやつらの前で死にたくない。


 そんな、王族失格な思いから、俺は敵国に続く砂漠へと足を踏み入れた。

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