第7話 思い出したくなかったこと
というわけで、朝から夕方まで、王の工房で職人から絵の描き方を学ぶことになった。
練習用の絵をひたすら模写する。
俺の目指す絵に相応しい作業だ。
「個性を出さない」「自己主張したい心を捨てる」。
昔からの絵ってそういうものだろう?
でも、俺が育ったイスタンブルではそうじゃなかったんだ。
イスタンブルでは絵とは、個性や自己主張、自分らしさを表すために描かれるものだった。
「こんな絵を描ける俺を見てくれ」
ベッリーニとかさ、いや、別にベッリーニに限らないけど、西洋の画家ってそういう感じするじゃないか。
俺はそれを悪いとかおかしいとか思わない。
むしろ、それも「普通」のことだと思う、それくらいにはイスタンブルの「普通」に染まっている。
だから、俺はそうありたくないのだ。
処刑という運命を鼻で笑い、自己を抹消した絵を描く。
……特別だろう?変わっているだろう?
自分でそう思うこと。それが俺にとって、後世に個性のある絵を残すことよりも、ずっと大事なことなんだ。
*
「これ、全部君が描いたのか……」
絵を習い始めて一ヶ月、処刑まで2ヶ月を切った頃に、王に初めて絵を見せた。
ふふふ、驚いただろう。
模写とは言え、俺はかなり素質があるのではないか、自分でも思う。
「……古き良き、タブリーズ画派の職人を思わせるな……」
無愛想な王もふっと目を細めた。
よしっ、流石は絵心ある奴だ。
俺がここの職人の画法を忠実に学んでいることが伝わっている。
こういうのを当たり前と思うかも知れないが、俺の父のように絵心のない奴は、東ローマ時代のフレスコ画と、最近の西欧人の油絵の人物画の違いすらわからないのだ。
「これ、そのあたりにおいておいたら、誰も俺が描いたって思いませんか?」
俺の目指すところは、この工房の中に俺の描いたものが違和感なく埋もれることだ。
俺の自己主張など、微塵も感じさせないように。
王は少し考えたが、うなずいた。
「ああ、少し拙くはあるが、色つけの時に直せる範囲だ」
色つけまで学ぶ時間はない。
だが、下絵だけで十分だ。
死を前にしても失せぬ食欲、絵は描いても我欲は出さない。
ああ、俺、すごい。
本当、普通じゃない。
普通のやつ、処刑なんて決まったら食事は喉通らなくなるらしいし、もしそんな状況で絵を描くなら、自己顕示欲に満ちたものを描くだろう。
でも、俺はそんなことをしない。
毎日元気に美味いものを喰って、飲んで、絵を学んで、この不憫な魔族が人間であることを示すために、「神の手」として絵を描くのだ。
……幸せだ。
兄や姉、弟と比べられて憐れまれていた俺が、こんなに優越感に浸れるなんて。
人を見下すことは、何て気持ちがいいんだろう。
「……楽しそうだな」
顔に出ていたのだろうか。
「ええ、楽しいです。いい師を紹介していただいて、王に感謝します」
俺は、常識ある王子を演じた。
「ところで、タブリーズとは、どんなところですか」
タブリーズはサファヴィー朝の建国期の都であるが、それ以前も多くの王朝が都とした芸術の街だという。人生の最後になって、そこの技法で「神の手」を目指す者として、軽い質問をしたつもりだった。
だが、王の答えは、超然とした画家として死んでいこうとする俺を、オスマン帝国の落ちこぼれ王子に引き戻すものだった。
「さあ、実は私もよく知らない。何しろ、最後に見たのは、イブラヒム・パシャの猛攻を前に、炎上するタブリーズだったから」
は?
何を言ってやがる?
戦争において、どっちが正しいとか、間違っているとか、そういうことを言うつもりはない。
ただ、こういうのは、聞き捨てならない。
「タブリーズに火を放ったのは、イブラヒム・パシャではなく、あんたでしょう」
あのとき10歳だったから、俺が知らないと思ったか?
何でさらりと事実を曲げて伝えるんだ。
「そうだ、私だ。イブラヒム・パシャが火を放ったなど、言ったか?」
……そういえば……?
いや、だが、何なのだその屁理屈みたいなのは。
「でも、イブラヒム・パシャのせいでタブリーズが炎上したように仰いませんでした?」
「……やけに食いつくな。イブラヒム・パシャは君の親戚だったかな?」
「ええ、血縁ではありませんが」
イブラヒム・パシャ。
父の親友で、叔母の婿。
俺の初恋の従姉の父親にあたる大宰相。
あの人が42歳で死んだ時、俺は初めて「特別な死」というものがあると知った。
ああ、できれば思い出さずに死にたかった。
そう思った時にはもう手遅れだった。
俺の死と、イブラヒム・パシャの死が、どちらがどれだけ特別で、価値があるのか?
ああ、比べるな、比べるな。
こういう比較が一番下らない。
だが、俺は結局こんな下らないことに捕らわれている人間なんだ。
イブラヒム・パシャ。
俺に何か恨みでもあるのか?
何であんたは俺にこんなことを思い起こさせるのだ?
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