第8話 イブラヒム・パシャの死
「……イブラヒム・パシャとはどんな人だったのだ?」
追い打ちをかけるかよ、こいつ……。
無表情のまま問いかける王に俺は本気でイラっとしたが、無表情の奴を相手に顔色を変えるのも悔しい。
気にしていない風を装って答えた。
「俺の話を聞くの、そんなに好きですか?」
「ああ、私が話すよりもずっと面白い」
そう言われると、ちょっといい気分になって話を始めてしまうのが俺の単純なところだ。
イブラヒム・パシャは親世代だし、語れることというのはその人となりというよりも、俺の慣れ親しんだあの邸のことだ。
「多分俺は兄弟の中で、一番多くイブラヒム・パシャ邸を訪ねたと思うんです」
「ふむ、何故」
「初恋の人がイブラヒム・パシャの娘だったから」
王は無言で笑った。
「イブラヒム・パシャは大宰相だから忙しくて、殆ど家にはいなかったんです。でも、帰ってくるときはたいてい盛大な宴が開かれ、イブラヒム・パシャ自身が作曲した曲を演奏したり、とにかくあの人がいるだけで夜でも光が射したように華やかで……」
言っていて涙がこぼれそうになった。
俺は別にイブラヒム・パシャのことがものすごく好きだったとかじゃないが、イブラヒム・パシャがいないと成り立たない、あの華やかな世界が懐かしくてたまらない。今は武器倉庫になってしまったあの大宰相邸に「帰りたい」と今でも思う。もともと俺の家ではなかったのだが、そう思うくらい、懐かしい場所なんだ。
「従姉は、いつも面白い話をしてくれて、俺はそれを聞くのが楽しみで、毎日大宰相邸に通ってたんです」
「どんな話を?」
「彼女が読んだ物語のこともあれば、空想の話もあったし……ああ、王の父上の話も聞きました」
「ああ、自称救世主?」
王は少し自嘲的に笑った。
「はい。でも、まるで見てきたかのように、シャー・クルの乱のことや、チャルディラーンの戦いの話をするのです」
まるで物語のような話だった。当時の俺たちくらいの少年が教団を率い、一国を建国する。俺たちの国を混乱に陥れた美しい堕天使が、俺たちの祖父の前に破れるくだりには、喜びと安堵、そして一抹の悲しさがあった。
「聞きたい」
王は少し身を乗り出した。
「は?」
「その、従姉の姫君から聞いた、自称救世主の話」
……物好きな奴め。
俺は従姉の話の中でもとてもよくできた物語だと感じていたその話を、王に聞かせた。
本当、人生ってわからないもんだ。
「まるで物語のようだな」
王は、他人事のように適当な感想を言った。
「今の話、本当なのですか?」
「さあ、どうだろうな。その話の殆どは私が生まれる前の話だから」
「それで、私のことは?」
「え?」
「君たちは私には興味はなかったのか」
そう言われてみると、俺たちは「自称救世主」の息子には正直あまり興味がなかった。
イブラヒム・パシャがサファヴィー朝の混乱に乗じて王を討つと言い出すまでは。
「ああそうだ、実戦経験のない若者だから、兵力で圧倒して短期決戦に持ち込めば勝てると言ってました」
イブラヒム・パシャが多くの重臣の反対を押し切ってタブリーズ遠征に向かった時、彼女はそう言った。
多分それがイブラヒム・パシャの考えだったはずだ。
「……何故、父の話は悲哀に満ちた美しい物語なのに、私のことはそんなに現実的で容赦が無いのだ……」
と言いながらも別に残念そうでもない。何が聞きたかったんだ……。
「いや、もっといろいろ言っていたかもしれませんが、俺がはっきり覚えているのがそれで……」
何で覚えているかというと、たまらなく不安だったのと、彼女の予想に反する結果になったからだ。
「正直、イブラヒム・パシャが負けるなんて、考えたこともなかったんです」
「ああ、そうだろう。実際負けたことなんてないだろうから」
「でも、タブリーズで……」
「負けたのは私だ。だから、火を放った。さっき、その話をしていたのでは?」
なんだか話が噛み合わなくなってきた。
ん?どういうことだった?
これ、俺の記憶力が悪いせいだけじゃない。
この戦いの結末はイブラヒム・パシャの変死に結びつくことになったから、俺の周りでは言葉を濁す者が多い。
そう、タブリーズに火を放ったのはイブラヒム・パシャじゃない。タフマースブ王なんだ。
それはよく覚えている。誰がどんな文脈で言っていたか?
誰だったかはよく覚えていない。多分大勢が言っていたから。
そのせいでイブラヒム・パシャは死ななければならなかった、と。
「君は、戦場指揮……いや、指揮でなくてもいい、従軍経験はあるか?」
「いえ、ありません。強いて言うなら、ここに逃げてくる時に交戦したくらい……」
「そう、なら少しはわかるはずだ。圧倒的に寡兵なら、逃げるしかないだろう?」
「逃げたのですか?」
王は当たり前だと言わんばかりに頷いた。
「一般的に、籠城戦は守備側に有利だという。だが、それも相手が10倍を超えた場合、攻撃側に有利だ。イブラヒム・パシャの戦歴を聞いている限り、5倍くらいでも優に勝てる将だろう」
「あー……多分、そんな感じですね」
難攻不落の城塞ベオグラードを陥落させたイブラヒム・パシャならばそうだろう。
「実際、タブリーズに向かったイブラヒム・パシャの軍はこちらの10倍に近かった。父ならばそれでも戦い、覆したかもしれないが、私にはそんな自信も、自信の根拠となる戦果もない。姫君のおっしゃる通り、実戦経験のない若者だったから。だから、逃げたのだ」
「うーん、それはわかるのですが、何故火をかけるのですか?」
タブリーズの絵画を惜しむ心が芽生えてきた俺には、そのことが悔やまれてならない。
勿論、職人を連れ、運べるだけのものは運んだというのはガズヴィーンの工房を見ていてもわかる。
それでも、多くのものが失われたのだろう。
「これも、一般的な戦術の一つ――焦土戦術というものだ。長期戦の場合、都市を占領し、そこで補給することを前提に進軍する。だが、私は住民をすべて退去させ、持てる限りの物資を以て逃がし、残ったものは全て燃やした。イブラヒム・パシャに、何も与えぬために」
「――それでは、イブラヒム・パシャはどこで補給を……?」
「できなかったはずだ。タブリーズから、バグダードまで、イブラヒム・パシャの通るであろう街はすべて焦土と化したから」
「……この鬼畜……」
イブラヒム・パシャの部隊が壊滅したのは、戦死したのではなく、戦うこともなく餓死したからなのか。
だからか。父が周囲の反対を押し切ってイブラヒム・パシャの“援軍”に駆けつけたのは。
親友であるイブラヒム・パシャの“補給”のために駆けつけた父は、焦りと生まれ持っての方向音痴さゆえに、自分が砂漠で道に迷い、伏兵に遭い、僅かな兵とともに、焦土と化したバグダードでイブラヒム・パシャと合流し、虚しい「勝利」を得たわけか。その後の悲劇を思うと、怒りと悲しみが込み上げてくる。
「鬼畜……な。君はそう思うかもしれないが、私からすると、内乱の続く小国に“先鋒隊”だけで15万も送り込む君たちの方が鬼畜だ」
そう言われれば、そうかもしれない。
こっちの方が大国だ。そして先に仕掛けたのはイブラヒム・パシャだ。
だからって、俺たちが辛かったと、言ってはいけないのか?
「そうなんですけど、本当あの後、俺たちはむちゃくちゃになったんです。あんたの焦土戦術にかかったイブラヒム・パシャを処刑しろというやつもいれば、皇帝なのに戦場に出て、あんたの伏兵に遭った父を廃位しろとか、本当いろいろ言われて」
「下から上の者を批判できるのは自浄作用のある証拠だ」
自浄作用、な。そうだろう。皇帝であれ大宰相であれ、きちんと仕事をこなせなかったりしくじったりすると容赦無く引きずり下ろされて殺される。
「他人事としてはそうかもしれませんが」
「悪いがそれは他人事だ。私は侵略者を必死で撃退しただけだ。私が悪いのか?」
王は静かに言った。俺を非難する口調ではなく、ただ静かに。
「いえ、悪いとは言っていませんが……」
そうだ。こいつは王として、正当防衛をしただけだ。
戦場で悪いも悪くないもなどないだろうが、強いて言うならば、自分の立場に相応しくないことをするのは悪いことなんじゃないだろうか。
「王は、親友が敵の焦土戦術により、砂漠で窮していたら、多くの兵士を犠牲にしてでも助けに行きますか?」
王はしばらく考えた。
「どうだろう……」
結構考えている。
「え?考えますか?」
ちょっと意外だった。父と違ってそういうところは線引きができるんじゃないかと思っていたから。
「いや、親友というものがまず想像がつかず、悩んでしまった」
そっちか。
「要するに友達がいないんですね」
「普通、王には友などいないものだ」
「でも父はもともと下っ端の王族で地方役人だったから、友達がいるのです。ちなみに俺は生まれながらに高貴な身分なので友達はいません」
「なるほど」
王はふっと笑った。自分だって友達がいない高貴な身分のくせに。
「でも、父はその親友を殺しました」
何故こいつにそんなことを言う必要があったのだろう。
でも、何故か言葉が出てしまった。
俺は友達がいない。こいつも友達がいない。
だからつい、友達がいるがゆえの悲惨な結末を話したくなってしまったんだ。
「そうだったな。あの戦いの後、イブラヒム・パシャは処刑された」
王は俺の言葉を一般的に理解されている意味に取った。
「されてません」
「そうなのか?」
詳細はよく知らない。だが、罪人として刑死したのだったら、従姉が今もエディルネで王女として暮らしているはずがない。
イブラヒム・パシャは大宰相として、皇帝の義弟として、そして親友として暗殺された。
処刑と暗殺では本人の名誉も、家族の処遇も全然違うのだ。
でも、家族や名誉を守るために暗殺した……そんなきれいな話でもない。
「あまり根拠はないけど、父がイブラヒム・パシャを殺したんだと思うんです」
「根拠もなく言うには重い話だな」
「でも、根拠があったらもっと重いでしょう」
「そういう問題だろうか」
実は根拠はちょっとだけあるんだ。
でも、王には言えない、身内の話。
「まあとにかく、父にとって、イブラヒム・パシャは特別な存在だったのです。あの人を助けるためだったら他の者を平気で犠牲にしたし、周りがあの人を殺そうとしたら、自分で殺すくらいに。とても辛い話なのです」
淡々と話そうと思ったら、支離滅裂になってきた。
「ふむ、それは、根拠のない話?」
「はい、根拠はありません」
それにしても、辛い、この話。
いろいろ、辛い。
人が壊れていくのを見てしまった。
王には決して言えない、壊れた父の姿が浮かぶ。
あの夜は断食明けの祝祭で久々に親族が集まって新宮殿で宴があった。
イブラヒム・パシャの処刑こそが公正な裁きだと、誰よりも強く主張していた母も、イブラヒム・パシャやその家族と共に食卓を囲んだ。母が間違っているとか、私情で言っているとは思わない。だって、法的な公正さ――それは父が何よりも大切にしてきたものだから。父が大切にしていた価値観を守ろうとする母は正しいのだろう。だが、その正しさが父を追い詰めていった。
気がついたら父とイブラヒム・パシャがいなくなっていた。
――どこに行ったんだろう?
俺は従姉に聞いた。
――多分、お父様の仮眠室。
イブラヒム・パシャは大宰相という立場にあり、夜遅くまで新宮殿で仕事をすることも多く、仮眠室という名の豪華な寝室を新宮殿内に与えられていた。
――じゃあ、父上は?
――だから、一緒じゃないですか?
――何で?
――バヤズィット様には少し難しいかしら。
――何、それ。教えて。
――公然の秘密というものです。もう少し大人になったら教えてあげます。
結局もう少し大人になる前に彼女はイスタンブルを去ることになったので、別のところから父とイブラヒム・パシャの不道徳な「公然の秘密」を知らされることになった。多分、有名な話なんで、王も知っているかもしれない。だけど、俺の口からは言わない。
――眠れないわね。
他の子ども達がそれぞれの寝室に戻った後も、俺たちは宴の席に残っていた。
――俺は甘い物の方がいい……でも一緒に父上たちが戻ってくるのを待つ。
――子どもですね。
そう言って彼女は脚を組んで煙管に手を伸ばし、口唇から細く甘い匂いのする煙を吐き出した。
その姿がぞっとするくらい、イブラヒム・パシャに似ていた。
何故そのときぞっとしたのだろう。
そのとき既にイブラヒム・パシャは内側から鍵のかけられた「仮眠室」で死んでいて、その側に父が魂が抜けたように座り込んでいたこと、それを知ったのは夜明け近くだったのに。
水煙草の瓶を囲んでうつらうつらしていた俺たちは、それぞれ母親に呼ばれて慌ただしく部屋に連れ戻された。
随分経って、扉が壊されたその部屋の前を通った時には、もう人はいなくなっていたが、何かが壊れていくのを感じた。
数日後、イブラヒム・パシャの妻だった叔母が自殺した。
父は妹の亡骸を抱えて激しく罵り呪った。傷ついた従姉は自らイスタンブルを去った。
自殺は禁忌だ。だが、父が叔母の自殺を非難した本当の理由を、俺は知っている。
本当は、父がイブラヒム・パシャと一緒に死にたかったんだ。
それを妹に横取りされた。
いや、その前からだな。本当は自分がイブラヒム・パシャの伴侶でありたかった。
でも、妹に横取りされた。
だから、許せないんだ。
狂ってるな。これは、多少の根拠がある話。だから、王には言えない。
駄目だ、話を先に進めないと、こっちまで頭がおかしくなりそうだ。
「あれから、たくさんの親族が非業の死を遂げました。母と次兄以外は自殺だったり処刑だったりしました。それでも、イブラヒム・パシャの死ほど特別なものはありませんでした」
「何故」
「何故かはわかりません。でもそう思うんです」
「それは君の年齢のせいでは」
「え?」
「イブラヒム・パシャの死は10歳くらいの時だろう?その年頃は大人よりも物事を鮮烈に受け止めがちだ」
流石、外国のやつは目の付け所が違う。そうだよ。その通りだ。でも釈然としない。
「ええ、それはあるかもしれません。でも、俺以外の人の動揺の仕方だって、イブラヒム・パシャの時が一番酷かったんです」
「それは、スレイマン帝が動揺したからだろう。社会的地位の高い人は影響力も大きい」
冷静で的確な分析をされて、俺は納得しながらも何故か苛立った。
「じゃあ何で、父は自分の息子の死よりもイブラヒム・パシャの死に動揺するのですか」
「そんなこと、私は知らない、本人に聞いてくれ」
そりゃ、そうだ。何を言っているんだ俺は。
「でも、父以外もそうなんです。イブラヒム・パシャの死は何故か特別なんです。でも、メフメト兄が死んだ時も、ムスタファ兄が死んだ時も、弟のジハンギルが自殺した時も、これから俺が処刑されても、ああ、また一人王子が死んだかって感じなんです」
俺の年齢のせいとか気のせいとかだけじゃない。
「待て、それは君自身の感覚なのか?自分で自分の死を“ああ、また一人王子が死んだか”と思うのか?」
「はい、昔からそういう運命だと思っているんで」
「で、自分の死よりもイブラヒム・パシャの死の方が重いと?」
「腹立たしいけどそう思います……何で笑うんですか」
「君たちは……スンナ派正統四大学派の……ハナフィー学派だったか?」
「え?あ、はい、そうです」
何でいきなり宗派や学派を確認するんだ?
「君たちは人を異端呼ばわりしておいて、人の命に優劣があるかのような歪んだ考え方を持っているのか?」
「いえ、教義としてそんなことはありません。神の前に人は平等です」
「なら、イブラヒム・パシャが死んでも君が死んでも同じではないか」
「いやいやいやいや、神から見たらそうかもしれませんが、違うんです。だって、世俗的に考えたら王が一人死ぬのと民が一人死ぬのは違うでしょう。気持ちの問題で言ったら、親友が死ぬのと赤の他人が死ぬのは違うでしょう」
「……だから私には親友がいないのでそこはよくわからないが、世俗的に考えると、イブラヒム・パシャの死よりも君の死の方が意義があると思うが?」
何を言い出すのだこいつは。
「何の慰めですかそれ。意義って何ですか」
「普通、人間というのは、自分が生きたことによって、あるいは死ぬことによって誰かを救ったり、何かを成し遂げたら自分の人生に、自分の死に意義があったと感じ、そうでない場合、虚しい存在だったと思うのでは?」
「ああ、確かにそうですね。でも、俺の死に何か意義があるのですか?それはイブラヒム・パシャの死以上のものなのですか?」
「聞きたいか?君の気性なら慰めにはならないと思うが?」
王は挑発するように言った。
「ええ、多分慰めにならないと思いますが、言いたいことがあるなら聞いてあげます」
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