第6話 遠近法は嫌いだ
「絵を、描きたいのか……?」
「はい、処刑まで余り時間がないのはわかっていますが……」
何でか、死ぬまでにやりたいことっていうのが、どうしてかここに来てから「絵を描くこと」になった。
勿論、うまいもんは喰いたいのだが。
「どうして、また」
「いや、王が人間になりたいっておっしゃったじゃないですか?」
「ああ……そうだが」
「それを聞いてちょっと不憫になりまして」
「……何故君が上から言うかな……それに、そのことと絵とどういう関係が?」
「祖父の話によると、神は絵に描けないけど、人は絵に描けるそうなのです」
「祖父、とはセリム帝のことか?」
そうだった。こいつの父は、俺の祖父セリム帝に敗れてから引きこもりになってしまったのだ。
「ああ、違います。そっちの祖父ではなく、母方の祖父でキリスト教の妻帯司祭の方です」
「ふむ、そのようなことも以前聞いたような気がする」
王は、俺の祖父がルテニアの司祭で、今もひっそり教会で奉職しているという話をしたのを思い出したらしい。
妻にも娘も、俺を含む孫にも先だれることになるあの老司祭は、今、どうしているのだろう。
一度会っただけだが、その寂しそうな姿を思い出すと、何だか胸が痛くなり、王との話に心を戻した。
「昔、キリスト教徒の間で、キリストや聖人を絵に描くことは偶像崇拝なのかと、大きな論争になりました」
「
そう。絵を描くことは偶像崇拝か?これはイスラームでは現在進行形で議論中だが、キリスト教の世界では決着している。
それは、祖父たちの土地にキリスト教が伝わるよりも前のことだ。
結論から言うと、「キリストは人であるから、描くことができる」というものだ。
勿論、聖人は人なので描いても良い。
絵と実物を混同するような馬鹿はいないから、偶像崇拝でもない。
ざっと言うとそんなところだ。
キリストは、キリスト教徒にとって、人なのか?神ではないのか?
ということについては、異教徒である俺が詳しく語るのは止めておこう。
ただ、キリストとは完全に神であり、完全に人であるというのがキリスト教徒の理解だ。
完全に人である者を、絵に描いて何が悪い?
だから。
「王は人間なので、俺が絵に描いてあげようかと思いまして」
人間になりたがってる奴を、絵にかいてやろう。
キリスト教徒が「絵に描く」という行為でキリストが人であることを示したように。
「……面白いことを言うな。だが、君には他に描きたい人間はいないのか?身近な者なり、物語の人物であれ……」
口にはしないが、王は俺の尊大な物言いに、何か言いたそうだ。
「でも、その人たちは目の前にいませんし」
「いや、細密画というのは写実性よりも、様式に従うところが大きい。だから、基本を身につければ会ったことのない人物でも描くことができる」
「神の手というやつですか?」
「神の手?」
「あれ?言いませんか?キリスト教徒は聖像を描くとき、自分の個性の主張ではなく、神の手として己を無にして描くのです」
「ああ、それは我々とて同じこと。最近流行の遠近法などは使わないし、西欧人の過剰な自己主張はどうかと思っている」
そう。最近……といっても結構前からだが、西欧では「遠近法」というのが流行っている。
普通、絵というのは神から見た視点で描く。
神にとって重要であると思われるものを大きく、そうでないものを小さく。
神がどう世界を見ておられるかを考えて描くものだ。
だが、俺の高祖父メフメト2世が招いたベッリーニや、曾祖父バヤズィット2世が頻繁にやりとりをしたダ・ヴィンチが用いたように、人間から見て近くにあるものを大きく、遠くにあるものを小さく描く遠近法というのが最近流行っている。
自分がどこに立って描くかは自分次第で、無数の構図が生まれる。
つまり、己を無にして神の手であろうとするのとは真逆の、自己主張のかたまりのような画法だ。
親族の中でも遠近法に関しては意見が分かれる。
姉はああいうのが好きだ。
が、俺は嫌いだ。
だって、そうやって生まれる絵は「自分」だろう?
自分の卑屈さや臆病さが絵に表れる……そんなのを描きたいとは思わない。
「君は、神の手になりたいのか?」
「はい。それで、王を人間に戻してあげます」
父親が何と名乗っていようと、神の目線で見たら、間違いなくこいつは人間だろう?
「……なら、お願いしようか」
……勘違いするな。
処刑される俺があんたに憐れんでもらうんじゃない。
あんたが憐れだから、俺が絵を描いてやるんだ。
それが、遠近法なんかよりもずっと自己主張と自己顕示欲にまみれているのは分かっている。
だが俺は、やっぱり食べているだけじゃ、耐えられないんだ。
どんなに酔っても酔いきれないんだ。
それで、絵を描いたら何がどう救いになるのかはわからないけど。
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