第20話 何とかなる
毎日、ああでもないこうでもないと絵の構図を考える。
下絵ばかりが増えていく。
いやそもそも色付けの仕方とか習ってないから、完成品も下絵なんだけど、どうしようかなあ。
王に何かを、残していけるような絵を。
悩んで描き直して、それを繰り返して。
でも、絵を描いている時が一番つらくない。
王の苦しみを少しでも和らげるために絵を描く。
上手くても下手でも、王はそれを感じ取ってくれる。
俺は、そこに全力を注げばいい。
あと2週間で処刑されるなんて、今考えることじゃない。
結局、一人で何もしていない時間が一番つらい。
部屋でも絵を描いているけど、工房にいるときよりも何故か死が入り込みやすい。
画板を抱えたまま金縛りに遭うこともある。
幼児返りするのか、誰かが抱き締めていてくれないと不安で、金縛りが解けたあと、衛兵の一人を呼んでずっと手を握っていた。
身の回りの世話を含め、俺の周りに一切女を近付けないあたり、王もわかっている。
殺されなければならない命を、増やす必要はないからだ。
そこまで好色ではないけど、俺は結構流されやすい方だから。
だが、別にそういう相手が欲しいわけじゃない。
純粋に、怖くてたまらない。むしろがっしりした男の方が安心できるかも知れない。
やっぱり王に会いたい。
この衛兵は王よりがっしりしているけど、手を握っていても俺の中から死を追い出してくれない。
*
「……で、結局こうなるのか……?」
衛兵に連れられて部屋までやってきた俺を、王はため息をつきながら引き取って縄を解いた。
「すみません……」
「……面倒だから、食事のあと、ここにいろ」
「……いいんですか?」
「夜間の囚人の移送はきまりが多く面倒なのだ……」
あ、そうか。囚人の移送ということになるのか。
俺が王に目通りを願い出てから衛兵や宦官が行ったり来たりして、結構待たされて、厳重に手足を縛られて、王の部屋まで連れて行かれた。
特別扱いされてはいるが、俺に関して「逃がさない」「死なさない」というところは徹底している。
処刑するのはオスマン帝国であって、この国ではないのだから。
「そこの寝台、使っていいから」
もともとムハンマド王子のために置いていた寝台を指さした。
「ありがとうございます……」
「灯り、消していいか?」
「ちょ、ちょっと待って下さい、髪を……」
さっき“移送”されるときに結ったのを解いてゆるく編み直すのだ。
俺の髪は細くて繊細だから、王みたいにバサッと広げて寝たらもつれてしまう。
異変に気付いたのはそのときだ。
「……ちょっと……え……?」
嘘だろう、何でだ。
俺は髪を何度も梳いて凝視した。
「……何だ?」
王は眠そうで俺の一大事に起き上がりもしない。
俺は王の横まで行って髪を見せた。
「何って、見ててわかりませんでしたか?俺の髪、真っ白なんですけど」
真っ白とは言わないが、半分くらい白くなってる。
いつから、いつの間に。
「ああ……気付いていたが、君が言ってこないから言わない方がいいのかと思っていた。まあ、もともと白っぽいからそんなに目立たない」
もともと白っぽいって……金髪と白髪は全然違うぞ。何て無神経なやつだ。
やわらかくてきれいな金髪だって、いろんな人から褒められたのに。
「精神的な負担が募ると髪が白くなることはよくある」
流石に俺が落ち込んでいることを理解したのか、王は俺の横に座り、慰めるように髪を梳いた。
「知ってます。父も昔はきれいな金髪でした」
が、イブラヒム・パシャの死をきっかけに真っ白になってしまった。
でも、何でだ。病弱な父と違って俺は健康だし、あのとき父は40歳で、俺はまだ35歳だ。
あまり変わらないか?
思わず、白くなった髪をぷちぷちと抜き始める。抜いても抜いても白い。
「落ち着け、抜くな」
後ろから羽交い締めにされた。
「だって……」
悔しい。よくわからないけどすごく悔しい。
何でだ。ちょっと前までちゃんと金髪だったのに、ここにきて何でだ。
「何ですか、どうせもうすぐ死ぬくせに、髪の毛の色を気にするなんて、滑稽ですか」
「いや。むしろ逆だ。私は自分の髪の色をかなり気にするから、わかる」
これはちょっと意外だった。だが、どの口がそれを言う。
俺は、王の腕を振りほどいて、無造作に降ろした長い黒髪を引っ張った。
「は?あんた、こんなきれいな黒髪で、何を気にすることがあるんですか」
「きれいな黒髪に見えるのは、染めているからだ」
「は!?」
「一応輸出するくらいに、この種の製品は作っているのだが……君に合うような色のものがないな……」
そうだったのか……!?
それにしても、非常にどうでもいい告白だ。
王からいろいろ衝撃的なことを聞いてきたが、多分これが一番どうでもいい。
45歳の男が白髪一本ない方がおかしい。
染めていたって何の不思議もない。
そして、俺の言ってることもどうでもいい。
確かに、白髪になったからって死ぬわけじゃない。
普通死ぬ前って何を考えるのだろう。
それはよくわからないけど、何かすごく深刻で高尚なことを考えねば、と思っている。
だけど、そうなんだろうか。
何が価値があって、何が大事なことなのか。
確かに、髪の色とか命に関わらないし、染めたいやつは染めたらいいくらいのことだ。
でも、本人にとっては結構切実だったりする。
「染めなくても、何とかなりませんか」
繰り返すが、俺には切実だ。
「何とか……そうだな、艶があれば、あとはターバンで隠して何とかなるのだろう。明日精油を持って来させるから、今日は諦めて寝ろ」
「はい……でも、王は、何が大事なことだと思いますか?」
「何がというのは何だ……?」
「死ぬ前に考えるべきこととして」
「髪のことではないはずだ、と?」
「いや、よくわからないんです。本当は、今描いている絵のこととか、人生全体を振り返って……とかそういうことに頭と心を使うべきなんだと思います。でも今は、髪が白くなってしまったことがつらくて、他のことが考えられないんです」
「死ぬ前にどうすべきか、というのはよくわからないが、髪のことで落ち込むのはわかる……でなければこれほどこまめに染め直しはしない」
……一体どういう頻度で染め直しているのだ……。
でも、王の言葉で言えば“もともと白っぽい”父は、白くなった髪のことは諦めたようだが、人前に出るときは必ずきれいに化粧をしている。弱り切った老人であることを微塵も感じさせない威厳のある帝王の顔を、自分で描いていく。地位のある男が容貌のことを気にするのは普通だし、義務でもある。俺だってそういう育ちなんだから、当然気になる。このこまめに染め直しているという艶やかな黒髪だってそうか。若さ、強さ、美しさ……そういうのは年と共に自然に失われていく。しかし、そうであってはならない者はそれに抗って美しくあるのだ。それは、結構しんどいことだろう。俺は、それをすることなく、死んでいける。
違う。そういう重い方向じゃなくて。
重いんだ、最近の俺の思考回路。
「もうちょっと、髪の手入れとか、化粧のこととか、喋りましょう」
「……別に構わないが何故……君はそこまで力を入れているように思えないが?」
それは、俺が自分のことを若いと思っていたからだ。
イブラヒム・パシャのような意識の高いやつは別として、普通、男が化粧や染髪に関心を示すのは40歳を過ぎてからだろう。だけど俺は友達もいないし、40歳を越えて生きた兄弟もいない。だから、普通に聞いてみたい。
「王は普段、素顔ですか?」
「いや、今は素顔だが普段は薄く白粉と眉墨を」
……だよな。やっぱりそう言われたらそんな気がする。
イブラヒム・パシャや父は目張りや紅を使った華やかな化粧をしていた……ような。
俺自身はまだまだ化粧なんてする年じゃないと思っていたからちゃんと見ていなかった。
「よし。俺も明日からちゃんと化粧をします。なので、教えて下さい」
「構わないが、多分イスタンブルの流儀や流行とは違うぞ?」
「それはそれで味があるかと」
だが話を聞いていると王は、化粧はそこまでやる気がないらしく、髪や肌を美しく保つ方に熱意があり、製品の開発にも関わっているということがわかってきた。聞いている俺は本当のところ、自分の肌にはそこまで危機感も感じていないし、髪のことは悲しいながら諦めが入ってきたから、右から左へと聞き流していた。聞き流しているうちに笑えてきた。
「今、このまま死ねたらいいのにって思います」
実は最近枝毛が気になる、という王の告白に対して、俺が泣き笑いしながらこう答えたから、王は心配そうに俺を見た。
「どうしてまた」
「久々に、どうでもいい日常が戻ってきたので」
毎日毎日死を見つめて絵を描いてきたし、向き合いきれなくて衛兵に取り押さえられたり王に介抱されたり。
みんな死ぬのに、何で俺だけ死までがこんなに重いんだ?
今まで普通にあった、記憶にも残らないようなどうでもいい日々はどこに行ったんだ?
死ぬ前にどうあるべきか。
結局のところ、これに俺は捕らわれすぎなんじゃないか?
「もし、今、地震がきて二人とも死んだとすると、王は死ぬまで髪と肌の手入れのことを考えていたということになります」
「いや、待て。別の時間は他のことも考えているが?」
「でも、死ぬことばかり考えてはいないでしょう?」
「そうだな……ときどきふと考えるが普段は……」
「……髪のこと?」
「……違う。いろいろ。忙しいから」
「俺、その方がいいなって思うんです。普通にいろいろなことを考えながら忙しくしてそのまま死んでいくのが」
だけど俺は死ぬことばかり考えている。死にたくないというのもその裏返しだ。
現実問題、死が差し迫っているから、考えざるを得ない。
王に対して何かをしたいという思い、それを絵で表したというその考えは間違っていないはずだ。
ただ、あまりにも俺の生活に、また俺を取り巻く人との関係に死が大きく入り込みすぎている。
俺は無実の罪で、鉄環絞首刑なんていう惨い方法で処刑される。
拷問とかにも使うやつだけど、ちゃんとした処刑人が悪意なく執行すれば一瞬で終わるのに、俺の首にはずっと前から鉄環が嵌められている。
俺は自分を悲劇の主人公に祭り上げて、確かに大事にはしてくれるやつもいるけど、結局は自分を苦しめている。
「生きたい」と思ったあの日から、毎日が非常事態で、悲劇で、時々喜劇で、日常がなくなった。
「王、俺も髪がぱさぱさしたり、枝毛になったりするの、嫌です」
「……君の髪はぱさぱさではない。若い猫のようにやわらかだ」
どんな種類の猫を想定しているのかよくわからんが、王は俺の髪を撫でてそう言った。
「そうですね……白くてぱさぱさよりは……」
確かに、手触りはいい。でも、見ていたら悲しくなるから、髪を軽く編んで後ろにやり、そのまま横になった。
「……結局こっちで寝るのか……?」
「今日は移動する気力がないので勘弁して下さい……」
しかし俺、髪の毛が半分以上白くなっていて気付かなかったとか、どれだけ平常心を失っているんだ?
平常心というか、身体感覚だろうか。
自分の身体が自分のものじゃないという感じ。
王の話では、つらすぎるとそうなるらしい。
そりゃ、つらい。死ぬこともつらいけど、死ぬ前なんだから、高尚なことを考えないと、とか、瑣末なことにも幸せを感じないと、と自分で自分を追い込んでいる。
確かに、瑣末な幸せに涙が出そうになった。この前、ムハンマド王子が串焼きをくれたこととか。
でも、幸せなことと、高尚な思考以外あってはならないなんてことはない。
白髪は地味に悲しいことだ。
地味に悲しいことが消えていくって、やっぱり感覚のどこかが麻痺している。
羊肉がおいしいことと、白髪が悲しいこと、人のやさしさが染み渡ること、嫌なやつはやっぱり好きになれないこと。
そういうの全部合わせて俺で、その上で高尚なことだって考えて、少し挑戦的な絵も描いてみる。
そのはずだったのに。
「……今日はくっついてこないのだな」
広い寝台に一人分以上の間を空けて横になっている俺に王が聞いてきた。
「寂しいですか?」
「……そんなことはない」
今夜はこいつにしがみついて眠らなければならないほど追い込まれていない。
日常を、取り戻せたから。
「本当、こういう感じで死にたいです」
「こういう感じとはどういう感じなのだ」
「日常の延長線上でって意味です」
それが困難だということは、多分王にもわかるだろう。
死を前にした人は、幸福感よりも、日常が失われていく。
幸福感は割と、というかかなり強い。多幸感というべきか。
失われる世界は眩いほどに美しくて愛おしい。
だから死にたくない。
結局そうやって至福と絶望の中で間を乱高下して、今まで普通に見えていたものが見えなくなる。
「今、不思議と日常が戻ってきたんですが、どうやったら維持できると思いますか?」
王はしばらく考えて答えた。
「……無理に、維持しようと思わない方がいいのではないか?君は”こうあるべき”というのを自分自身に課しすぎている。そうだな……前も、”非凡であるべき”、”超然としているべき”……と。ここにきて”普通であるべき”、”日常を取り戻して維持すべき”というのを課すべきなのだろうか?それがまた君自身を縛ることになるような気がする」
確かにそう言われればそうだ。
俺は無意識のうちに自分を追い詰める方なのだろう。
日常なんてどうしようもなく曖昧なものを求めたら、多分それは失われて、そのことに激しく焦るのだろう。
「それに、君は今安らいでいるようだが、この状況はあまり普通でも日常ではないぞ?」
……確かに、何でいい年した男同士が、広いとはいえ一つの寝台で寝ているのだ……。
父の細い首に絡みつくように指を這わせるイブラヒム・パシャの手が脳裏を過ぎる。
……あの人、今思えば子どもたちの前で何てことをしてたんだ……。
一つの寝台で寝るような男たちってああいう間柄が多いのだろうか。
でもそれは宗教的にも社会的にも駄目なやつで、俺と王みたいにごろごろしているだけの方が友愛という枠で肯定されるのはわかるけど、普通、大人になったらわざわざしないよな……。
「確かに、普通じゃないですね」
普通じゃないけど、取り立てて素晴らしいことでも悪いことでもない。
そんな曖昧な状況が、今の俺には救いだけど、この曖昧さは維持しようとしてできるものじゃない。
「何とかなるだろう、根拠はないが、そう思って生きろ」
王はそう言って目を閉じた。
――何とかなる。
王は根拠もなく言ったらしいが、それ、一般的には根拠がある。
だって、思い煩ったところですべては神の御手のうちにあるのだから、すべてを委ねるしかない。
委ねる、信仰の本質じゃないか。
この不信心者、似非信仰者よりも、本質を突いているかもしれない。
俺の人生、駄目なとこもいっぱいあったし、あと残り2週間も多分思うようには生きられない。
だけど。
それでも。
何とかなる。
そう思うのが、普通の信仰者だろう?
今の俺にはその「何とかなる」という思いはごく自然な場所にある。
もう少し格好をつけた言い換えをすると「主よ、御旨のままに」なのだろうが、やっぱり「何とかなる」だ、感覚としてしっくりくるのは。
「今の状況で、俺が”何とかなる”と思うことは、合理的だと思いますか?」
「そうだろう?じたばたしても神経がすり減るだけだ……何故笑うのだ……?」
何故か無神論者も同じ結論に行きつくらしい。
「ええ。俺も何とかなるんだろうなって思いまして」
王は俺の方を向いて少し笑った。
「ああ。何とかなる。ついでに言うと、眠れなくても何とかなるから、無理に眠ろうとして焦るな」
多分、何とかなるの意味とか次元とか、いろいろ噛み合ってないんだろうけど、まあ、いいや。
「やっぱり、少しだけ手を握ってもいいですか?」
「……不安か?」
「いや、どちらかと言うと、ほっとしたので」
王は無言で手を差し出した。
そのぬくもりの中で目を閉じると、目蓋に一枚の絵が浮かんだ。
明日から、取りかかろう。
遺作、とかあまり思い詰めずに。
だって、何とかなるのだから。
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