第19話 父でもなく兄でもなく

「君は頭がいいな。よく言われないか?」

 図面に補助線を引く手を止めて王が言った。


「頭の回転がいいってことですか?」

 俺は、線を引き続ける。

 この一時間あまりで、遠近法というのは、無秩序に手前が大きく奥が小さいわけではないということを学び、一点透視図法、二点透視図法などがあるということをだいたい学んだ。


「そう。話の展開も論理的だし、そういう図面もすぐに描ける」

 二点透視図法でこの宮殿を描いているやつか。

 教えられた通りに補助線を引いているだけなんだが。


「ある程度頭の回転がいいのは、薄々気付いていました。年子の兄が俺に比べてあまりにも鈍くさいので」

「ああ、セリム王子?」

 俺があいつと喧嘩して挙兵したという話で、処刑されることになってしまったけど、全くの冤罪だ。今でもセリムは俺が死ぬのが悲しくてしょうが無いらしく、手紙と一緒に干し肉なんかを送ってくるのは王も知っている。鈍くさいけど優しい兄なのだ。まあそこで食い物しか浮かばないあたりがあいつらしいといえばあいつらしいが。


「はい。セリムは確かに鈍くさいですが、頭の回転なんて良くてもいいことありません。俺は幼いうちに、誰にも教えられる前に、皇帝になれない王子は殺されるということを知ってしまいました。そして、実際、頭のいい王子が皇帝になるのではなく、運のいい王子が皇帝になるということも。ほら、今の状況、そうじゃないですか。みんな死んでいって、一番頭の悪いセリムが皇帝になる。でも、多分問題ないと思います。皇帝の資質に左右されるほど、オスマン帝国の官僚制は脆弱ではないと思うので」

 一番問題なのは、継承を巡って内乱になること。

 だから、ムスタファ兄上も、俺も、死ななければならない、そういうことだろう。


「……なるほど。争いを生まぬよう、才を隠していたのか……?」

「才を隠した、とかそんなんじゃないです。小さいうちに衝撃的な現実を知ったら、何もかもやる気が起こらなくなって……やらなければ勉強なんてどんどん落ちこぼれていって。努力していないだけで、本当は頭がいいんです、なんて主張するのも見苦しいじゃないですか」

 実際ペルシア語もアラビア語もちゃんとできないし、法学とかもやってないからよくわからない。

 結果として兄弟の中で出来が悪い方から二番目になっていた。

 セリムはどう頑張っても鈍くさいから周りはそこまで責めないけど、俺は何故か責められた。特に弟にだけど。

 俺が出来が悪いのは頭が悪いんじゃなくて人間性に問題があるとまで言われた。

 何なんだそれは。本当にやる気が起こらないってのは結構つらいのに。

 でも、弟がそんなふうに俺を責めたのは、自分も何かしら似たつらさを抱えていたのかもしれない。

 いずれにせよ、あいつは何も言わないまま独りで死んでいった。


「王族は頭がいいとか、性格がいいとかいって褒めてもらうことを求めちゃ駄目なんです。国が生きることを求めれば生き、死ぬことを求めれば死ぬ、そういう存在なのは、ここでも同じでは?」

「そうだな。建国時には王は英雄であり指導者であった。だが次第に尊い贄になっていく……そうだな、どこも同じだ」

 こいつは、救世主から尊い贄に変わりつつある中で神が信じられなくなっていったんだ。個人の問題なのか、時代の犠牲なのか、何なんだろう。


「でも、もう処刑も確定したし、ちょっとくらいは褒めてもらうことを求めてもいいのかな……と思ったりするのです」

「褒めている。何故、私が一年かけて学んだことを君は一時間で習得するのだ……」

「ふふふ、もっと褒めて下さい」

「……はいはい……だが、君は頑張りすぎだ。少し休め」

 王は俺の持っていた筆を取り、代わりに砂糖菓子を握らせた。


「それ、好きだろう?」

 見た目は、イスタンブルにもあるような砂糖を使った焼き菓子。

 口の中でホロリと崩れる感じも同じなんだけど、特有の香辛料を使っているようで、不思議な食感がやみつきになる。

 死の恐怖を忘れるくらい夢中になれる課題も欲しい。

 でも、やっぱり甘いものは必要だ。


「流石……兄上、わかってる……」

 甘みが全身に浸透していく。こういうさり気ない気遣いができるってやっぱり兄上はすごい。

「はっ……兄上じゃない、すみません」

 王は軽く笑った。

「いや、慣れているから今更」

「何に慣れてるんですか」

「君に兄上とか父上とか呼ばれることに」

「い、いつ俺が……」

「この前意識が朦朧としていたときもだし、その前に私の部屋で寝ていたとき、朝起こしたら“あと1時間後に起こして下さい父上……”と言われたから、放置して行ったのだ。私もそこまで暇ではない」

 ……それで俺、昼過ぎまで寝てたのか……。


「でも、父上なら、宦官に命じて10分ごとに起こしてくれます」

 俺たちの住まいが新宮殿に移ってから、父は子ども達を勤勉に育てようと試みたのだ。

 半年くらいで挫折したのだが。

「……甘やかしすぎでは……?そもそも私は君の父上ではない……」

 その言葉に今、引っかかっていたことに気付いた。


「それ、それなんです、問題は」

「何が」

「確かに俺は時々王に父や……特に上の兄を重ねることは、あります。でも、それって、すごく非礼というか、何というか……」

「非礼……君の非礼は今に始まったことではないが」

 非礼、ちょっと違うか。何と言えばいいんだろう。

「だから、父のような、とか兄のような、と言ってしまうと、本物が別にいて、王と俺の間にある関係性は偽物だってことになりますから。俺はそういうの、嫌なんです」

「なるほど。それはわかる気がする。スレイマン帝やムスタファ王子がどうというわけではないのだが、代替品扱いはいい気がしないからな」

 王だけじゃない。ムハンマド王子を見る度に、あの子が俺の弟だったらよかったのに、とも思った。

 でもそれってムハンマド王子のことも弟のことも否定して、俺の勝手な弟像を押しつけてるわけだろう?

 無意識にやってたけど、そういうの、駄目だ。


「俺が王のこと好きなのは、兄上に似ているからじゃなくて、そうやって砂糖菓子をくれるからなんです」

「……ムハンマドは羊肉をくれただろう?」

「はい。だから大好きです」

 誰かと重ねる必要はない。あくまで俺とそいつとの関係なんだ。


「あと、一時期、王の友人になりたいと思いましたが、それもやめました」

「ふむ、それは何故」

「世間一般の友情の類型に捕らわれたくないし、そもそも当てはまらないような気がしまして」

「ああ、いいのではないか?私も友情とかは、よくわからない……」

 俺が知ってる友情というのは、父とイブラヒム・パシャの間にあるようなもので、死ぬなら共に、それができぬなら自分の心と共に相手を殺す、それくらいの狂気じみた排他的なものだった。それが一般的なものなのかは知らない。でも俺は王に一緒に死んで欲しいとか思わないから、多分友情とかいうのとは違うのだろう。


「……ということは、遠近法でいいのでは」

「え?何が」

「俺が、王に残して行く絵。俺から見える景色でいいんじゃないかって」

 伝統画法には友情や忠誠、信仰など様々な類型があって、もともとはそうしたものの中に王や自分を置いていこうと思っていたけど、どれもあてはまらない、それが最近思っていることだ。

「……そういう捉え方があるのか。やはり、君は面白い。君の描く絵だ、好きにしたらいい」


「でも、何で王は遠近法が嫌いなんですか?設計図を描いたりするのに便利そうだし、描き方がすごく合理的で、王には合いそうなのに」

「ああ。合理的ではある。だが、絵に求めるものの違いかな」

「絵に求めるもの……?」

「合理的に考えていると、疲れる。時には自分を追い詰める。絵は私にとってはそうしたものとは違う世界にある癒やしなのだ。絵にまで合理性が入り込んでしまうと、私には安らげる場がなくなる」

 絵って何だっけ?

 普通に言うと、神から見た世界を可視化したものだから、描くのも見るのも畏怖を伴う。

 しかしこいつにとっては違う世界にある癒やしなのか。

 驚くことばかりだ。


 逆に俺にとって遠近法は俺から見た世界に過ぎないから、気楽に描ける。

 俺がどこに立ってどう見るか、それが反映されることは醜悪だと思っていたけど、描いていると案外そうでもない。

 宮殿を東から見るのと北から見るので、形が違って見える。

 案外その程度の感じだ。


 そもそも、遠近法で描いた世界は、本当に神を疎外した世界なのか?

 俺は自分自身を神の被造物だと認識していて、その俺が世界を見たままに表す。

 それは、神の恩寵を写し取るということではないのか?


 よくわからない。

 そもそも、イスラーム教徒の中には絵を描くこと自体が偶像崇拝だという者もいる。

 だが一方で信仰を表すために絵を描く者も、王のように心の癒やしのために絵を描く者もいる。


 でも俺は。

 俺が幸せになるために、絵を描くのだ。

 俺が幸せになる、確実な方法は人から受けるのではなく、人に与えること。


「……まだ食べるか……?」

「もう1個……いや、2個だけ……」

 こいつにもらっているのは砂糖菓子のように見えるが、本当はそうじゃない。 


 俺は、王が砂糖菓子の形をとって与えてくれるものを、絵にして王に返せばいい。

 そうすれば、俺が幸せになれる。


 理屈の上ではそうだ。

 あとは、どうやって、死の恐怖が入り込まないように自分を維持するか。


「さて、私はそろそろ部屋に戻って寝るが、君は一人で大丈夫か?」

「……いや、全然大丈夫じゃないです……」

 こういうときは上目遣いでじっと見ていると、こいつは大概のことを聞いてくれるということを学習した。

「……わかった。だが、君が二度寝しようが三度寝しようが起こさんからな?」

「はあい……」

 とりあえず、夜、一人でいるのが怖い。

 先日は衛兵を呼びつけて胸に縋って泣くという醜態をさらしてしまい、しかもそいつの方が混乱して泣き出して結構大変だったんだ。

 多分、恐怖に取り憑かれた人間の相手をするのは、泣き出したくなるほど怖いのだろう。

 でも、自分が錯乱状態にあるときに、相手が錯乱すると、地獄のような状況になる。

 そう思うと、あんな状態の俺に冷静に対応できた王はやはり何かが違うのだろうか。

 ――誰でもできるのに。

 そう言っていたな。でも、できるようになるために、何か修練が必要なんだろうか。


 それにしても、息が苦しい。

 気のせいか?気のせいでも、不安だ。


「王、起きていますか?」

「……寝ている」

 やっぱり律儀なやつだ。

「心細いので、手を握って下さい」

 王は隣の寝台から面倒くさそうに手を伸ばした。

「……届かんな。諦めろ」


 諦めろと言われると何か悔しく、俺は枕を持って王の寝台によじ登った。

「じゃあ、ここで寝ますので、お気になさらず」

 俺は王に背を向けて隣に横たわった。

 苦しい。頭もぼんやりしてくる。今度こそ死ぬんじゃないか?

 そんな不安は募るのに、何故か王が俺を追い払うことはないと確信していた。

「……いや、結構気になるのだが……?」

 そう言いながらも王は背中から腕を回して俺の手を握ってくれた。

「ゆっくりと息を吐け。呼吸が速くなるとそれだけで苦しくなる」

 呼吸が速い……?いや、待って、どんな風に息をしてるかなんて考えたら余計に息がつまるんですけど?

「今までに経験はないか?ムハンマドは小さい頃からよくそんな感じで……ちょっと待て」

 そう言って王は俺の鼻から口にかけて布を当てた。

 は!?何でだ!?

「息を吸いすぎだ……吸ってばかりでは苦しくなる。とりあえずゆっくり吐け。吐くことだけを意識しろ」

 俺は言われたようにした。息を吐く。ゆっくり吐く。ゆっくり吐く。

 それ以外のことを一切考えず、どれくらい経ったのだろう。


「治まったか……?寝ていいか?」

 耳元で王が静かに聞いた。

「……すみませんでした、何とかなったみたいです」

 王は腕を解いて背を向けた。

「……なら離れろ、暑苦しい」

 そう言われて、俺は王の寝台からは降りず、人一人分くらいの間を取った。


 確かに結構暑い。早く秋になればいいのに。

 ……いや、秋になる前に俺は死んでしまう。このままずっと夏でいい。


「王は、俺がひっついてたら、情欲に駆り立てられたりしますか?」

「は?それはないな……」

 俺の唐突で妙な質問に、王はどうでも良さそうに答えた。

「俺もないです。だから、ひっついてもいいですか……?」

「……何故そうなるのだ……」


 イブラヒム・パシャにまつわる衝撃的なことといえば、その死もなんだけど、その後知った、父との関係。

 宮中で男色はよくあることだったけど、自分の親族、まして親のこととなると動揺しないはずがなかった。

 母のことを思うと、非難の感情が芽生えてもいいところだけど、イブラヒム・パシャは既に亡く、父は目も当てられないほど衰弱していたから、禁忌と崇高な愛が結びつくようなところが俺自身にも、世間にもあった。

 平凡に生きている俺には、まあ関係のない世界ではあったが。


 王の身体に少しだけ身を寄せる。

 艶やかな黒髪の悩ましいほどの美中年と身を寄せ合ってても、暑苦しいと汗臭いという感覚が九割を占める。あとの一割は死にたくない、だ。

 快楽でも何でもない暑苦しさに耐えているということは、互いにかなりの好意を持っているということになるんだろうけど、あまり絵にも物語にもならない感じだ。

 ちょっと笑えてくる。やっぱりこれは絵にしなければ。

 いや、この状況をじゃなくて、俺と王との関係性を。

 遠近法を使うとしたら、どんな距離で、どんな構図で……。

 考えているうちに寝てしまった。


 そして目が覚めたとき王は、予告した通り俺を放置して仕事に行っていた。

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