第10話 断食月の始まり
普通日の出から日の入りまでは食事も水分も絶つものだが、病人や旅人は例外だ。
俺は普通の旅人とは違うが、処刑前に体調を崩されたら困るということもあり、日中は人目につかないところで軽食を取り、あとはひたすら絵を描いて、断食明けの夕食の時に王にそれを見せる。その繰り返しだ。
結局、イスタンブルの絵を描いたのは一枚だけ。
描いたというより、王が諜報活動の末に得たという資料を大まかに模写して、途中でやめた。
アヤソフィア・ジャーミーに並ぶようにそびえ立つ大宰相邸。
でも、違うんだ。
俺が懐かしいのは、サファヴィー朝の密偵でも知っているような大宰相邸じゃなくて、その中で繰り広げられた、密偵には興味もないようなたわいもない日々だった。でも、描きたいのか?
いや、別に描かなくてもいい。ただ、懐かしいだけでいいんだ。
なら、大宰相邸の外観の資料は要らない。
俺は王に礼を言ってその資料を返した。
――やっぱり俺は、初心を貫いて王の絵を描きます。
――描きたいものを描いていいのだが。
――ええ。だから、人間になりたい人を、絵に描きたいのです。
――好きにしたらいい。
イブラヒム・パシャと王とどっちが大切とか、そういうんじゃない。
何故か俺は、過去よりも今に、遠くよりも近くに心が向いている。
意外と現実逃避しないじゃないか、と少し驚く。
でも俺にとって本当に一番近いのは、俺自身のはず。
そこに触れるのは怖い。
自分で描いた自分はどんな姿をしているか?
何故かそれは恐ろしい。
だから、一番近くにいて構ってくれる人に絡んでいる。
これは現実逃避か?でもいいんだ。
少しずつ上達していくという実感があって、さらにそれを見ていろいろ言ってくれる人がいる。
地味だけど、それが嬉しい。
この穏やかな喜びを胸に、静かに処刑の日を迎えたい。
――何か、それらしいの、無いかな……。
俺はいろんな画集をぱらぱらとめくる。
きちんと修行した職人は違うんだろうが、俺が人物を描くための作業はざっとこんな感じだ。
今まで描かれた絵をじっくりと見る。
その中で描きたい人物――この場合あの人間になりたい王様――と似ている者を探す。
姿形が、表情が、言葉に言えない何かが、何でもいい、これが似ていると思ったものをひたすら探す。
「似ている」ものをたくさん重ねていくにつれて、その者が似ている誰とも違う、唯一の存在であることに気付く。
過去に同じようなのがたくさんいたように思える、しかし唯一である。
偉いやつであっても、名も知れぬ民であっても、人間であるということは、そうした人間の歴史の中に置くということだ。
だから、神を描いてはいけないのは、そういうことだ。
結果として、描く者の個性も、描かれる者の個性も浮かび上がっては来るのだが、それを全面に出すのではなく、抑えて抑えて、抑えても浮かび上がってくる、どうしようもない自己主張というのが何だか愛おしいし、そういう描き方を守るタブリーズの古典画派が好きだ。
何か落ち着いてるな、俺。
考え方も何か成長したような?
絵を描き始めた頃、「自己主張するなんて見苦しい」とか思ってたのに。
いいんだ。「神の手」として謙虚に筆を取って、それでも滲み出る個性は、神が描けと言っているものなんだ。
もしかして、こんな感じで達観して死に向かっていくということになるのかな。
ほっとするような、寂しいような。
いや、寂しがる必要なんてあるか?
俺の死によって誰かが救われるからって喜んだりはしない。
でも、俺が死ぬことで誰かが更に死ぬよりはいい。
俺の絵を待っている根暗な王様だっている。
何か、欠けているものがあるだろうか。
ちらりと、隣の部屋を覗きに行く。
俺はずっと下絵を描いているが、隣の部屋は色付けをする職人達に部屋だ。
残念だ。俺には色付けを習う時間はない。
でもこの人たちは俺に、下絵の描き方を丁寧に教えてくれた。贅沢を言っちゃいけない。
俺のために貸し与えられた工房に戻った瞬間、地面がぐらりと揺れた。
――また地震か!?
前のときとは違う。
結構大きい横揺れだ。
積み上げていた画材が落ちてくるのを押さえていた俺には、人生で一番長い地震に思えた。
怖い、怖い、何でこんなに怖いんだ?
わからないけど誰か来てくれっ
何だかもう、生きた心地がしなかった。
叫びたかったけど怖すぎて声も出なかった。
――助けてくれ、俺は、俺は……っ
声にならなかったが、俺は確かに叫んでいた。
――収まった?
しばらくして、隣の部屋から職人達が駆けつけてきた。
「王子、大丈夫ですか」
「いや、あんたたちこそ、無事か?かなりの揺れだったが……」
「ええ、比較的揺れが長かったですが、みな無事です。それより王子、顔色がよろしくありません。少しお休みになれば?」
「顔色悪い……?」
そうだろうか。あまり自覚がなかった。
「はい、ここのところ根を詰めておられるのでお疲れなのでは……」
ああ、確かに。根を詰めているとかじゃなく、楽しいからやっているんだけど、疲れているかもしれない。
皆の断食に合わせて食事は控えめにしているし。
少しだけ休もう。
そう思って部屋の寝台に倒れ込んだらそのままぐっすり眠ってしまった。
目が覚めた時はもう夕暮れで、薄暗がりの中、窓辺に佇む人影があった。
「あれ?王、何してるんですか?」
「何って、君が倒れたと聞いたから、果物を持ってきたのだ。要らないなら持ち帰るが?」
「いや待って下さい、要りますっ!」
倒れたわけではないと誤解を解くよりも、
考えてみれば、断食明けにみんなで食べるのを先に持ってきてくれたのか。
「あ、すいません、俺ばっかり食べて」
日没までもう少し。断食中の人の前でがつがつと食べていたことに少し申し訳なく感じた。と言っても食べるのをやめたわけではないのだが。
「いや、君に持ってきたのだからいい。倒れたと聞いて驚いたが、相変わらずで良かった」
「倒れたわけじゃないんです。地震、自分でもびっくりするくらい怖くて、怖かったことで疲れが出て昼寝してただけですよ」
「ああ、あの地震な。近くが震源らしい。しばらくは物の置き方などに気をつけた方がいい」
宮殿の近くにある立派な地震計が示したという数値自体は、それほどのものではなかったが、あの後も俺が寝ている間に何度か小さな余震を観測しているという。
「はあ……何故だか俺、死ぬんじゃないかと思いました」
「そうだな」
「……今、適当に相づち打ったでしょう……」
あれくらいの地震で死ぬかよ。適当に返事しやがって。
「いや、そうではない。地震で街が壊滅するということは今までにあったし、何より地面が揺れるというのは理屈抜きに怖い。今回ではないが、別の地震のとき、私も死ぬのではないかと思ったことがある」
「へえ、王でもそんなこと思うのですか」
そのとき、王がどんな顔をしているのだろうと思うと、ちょっと笑えた。
「だから、何度も言うが、地面が揺れるのは理屈抜きに怖い」
大真面目に力説する王を見ていると笑いが込み上げてきた。
「あはは、そうですね。王はやっぱり人間ですよ」
それから俺はふと変なことを口にした。まだ寝惚けていたのかもしれない。
「実は俺、今まで人間じゃなかったかもしれません」
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