第13話 遠近法で語るな? 

「王は本当、俺のことが好きですよね」

 書きためた下絵を並べ替えながら言った俺に、王は一瞬沈黙したがやがて苦笑いして言った。

「……そうでなければ医師と看守を付けて牢に放り込んでおくところだ」

 渇いた笑いが込み上げてくる。

 それ。本当それだ。何故、そうしない。それで俺の安全は確保できるだろう。


「……可哀想に」

 思わず口にしてしまった。

「何故そうなる」

 唐突に俺に哀れまれたことが不服らしい。


「だって、俺の処刑を決めたのは父とあんたです」

 沈黙する王に追い打ちをかけるように言った。

「あんたは俺を逃がすことも生かすこともできたけどしなかった。もちろん、そうすることが、最善だったというのは以前話合った通りだから、責めているわけじゃありません」


「ただ、知って欲しいんです、俺がここに来た理由」

 これ、前も言ったと思う。でも、自分自身のためにも確認する。


「父の前で死にたくなかったんです。それから姉や兄の前でも。みんな、俺を殺さなければならないことがつらいし、それを見ると俺もつらくなるから。だから敵国の悪鬼の下で処刑されたら、少しはましかな、なんて思ったわけです」

「なるほど。目論見が外れたな。私は君を死刑執行人に引き渡さなければならないことが結構つらいし、そのことが君にとっても苦しいわけだ」


「そうです。それもこれも、王が欲を出すからです」

「私のせいか?」

「そうです。父が20万アクチェで俺を処刑してくれと言ったとき、何故渋ったのですか」

「それは、もっと金が欲しかったから」

 正直な守銭奴だ。確かに20万アクチェと30万アクチェ、更に40万アクチェとなると結構な差だ。

 サファヴィー朝が失うもの――タブリーズ、バグダード、そして同盟国――を思うと、つり上げたくなる気持ちはわかる。


「じゃ、自業自得なんで、俺が死んで寂しくても差額の金貨を握りしめて耐えてください」

「その通りだな。しかし、それを言うためにわざわざ夜中に工房へ?」


「いえ、違います」

 言わなければ。このままずるずるとこの状態を続けていてはいけない。


「この工房に、別れを告げなければ、と思いまして」


 俺は王の前に膝をついた。


「俺を、オスマン帝国に仇をなした罪人として、投獄してください」


 長い、長い沈黙の後、王は抑揚のない声で言った。


「その必要があるか?」


「あります。王は、父と正式に停戦協定を結びました。しかし、父が罪人と定めた俺を未だに客人として遇している。これはオスマン帝国を侮り、挑発する行為に当たります」

「スレイマン帝自身が、君をそのように遇することを認めているのだが?」

 そう言われればそうだ。そうなのだが……。


「でも、俺が辛くなってきました」

 王が一瞬目を見開いたような気がした。


「だから、何度も言いますが、俺は俺のことを大切に思うやつらの前で死ぬのが嫌でここに来たんです。それなのにあんたは、俺を大切にしてくれるし、俺が死んだら悲しむでしょう」

「ああ。悲しい。だから?」

「だからって……俺は、それが嫌なんです」


 自惚れていると言われてもいい。

 贅沢だと思っている。

 それでも、つらいんだ。

 俺が、こんなにもよくしてくれる人を苦しめている。


 心の中でそう繰り返しながら、どこかで本当にそうだろうか、という思いが拭えない。

 じゃあ、何なんだ?何が嫌なんだ?もう、よくわからない。


「うーん……君の言いたいこともわかるし、王として聞き入れるべきことは多くある。だが」


 王は俺の絵を一枚一枚めくりながら言った。


「君は、遠近法は嫌いなのではなかったのか?」


 はい!?何の話だ。

 確かに言ったよ、前に。

 絵とは神の作った世界を捉え直すために描くもので、自分の視点で見える世界を描く遠近法は、絵ではなくて醜悪な記録だ。

 今もそう思ってるけど、それが何なんだ?


「近くにあるものが大きく見えるから大きく描き、遠くにあるものが小さく見えるから小さく描く……遠近法ではそうなる」

「ええ、そうですけど、何で今、その話なんですか」

「君が、自分の境遇を遠近法で語るからだ」

「は?何がです」

 そんな話、したか?というか、遠近法で語るって何だ?


「自分のことを大切に思う者の前で死にたくない?それは、近くにいると、残されたものの悲しみが大きく見えるからだろう。そして、遠くにいると小さく見える。しかし、近ければ悲しみが大きく、遠ければ小さいのか?それは君が勝手に位置を定めてそこから見ているからだ。しかし、誰がどこでどれだけ悲しんでいるかなんて、君が決めることではない」


 はあ?何だそれは。

 俺は別にあんたの悲しみの深さなんて決めてない。

 俺は自分が死ぬのが辛い。

 つらい俺の側にいてつらいあんたを見てるからつらいと言っているだけだ。


「遠近法で語ってなんかいません」

 何だか苛立ってきて言い返した。

 遠近法、関係ないだろう。


「遠近法なんて学んだことも描いたこともないのに、遠近法で語るとか、無理です」

 言っていてどうでもよくなってきた。


「王は、遠近法を学んだことがありましたっけ?」

 腹立つなあ、本当腹立つ。

「少しだけ」

「どれくらい」

「一年くらいかな……」

「一年くらい学んで、嫌になった?」

「まあ、そんなところだ」

 淡々と答えやがって。


「そういうのも、俺には腹が立つんですよ」

「どの点が」

「俺にはあと一年なんてない。あと一ヶ月だってない。俺には無限のように思える時間をあんたはさらりと口にする。確かに俺はあんたの悲しみを一方的に判断したけど、偉そうに言えますか?あんたが何の悪意もなく口にした一年という言葉がどれだけ俺の心を抉るかもわからないくせに」


 王はしばらく沈黙していたが、何かを決めたように、俺に向き直った。


「今まで我慢していたが、私も君のそういう態度に腹が立つ」


 静かだが、深い憤りを込めた声に、俺は驚いた。

 勢いで言い返したとか、そういうのじゃない、もっと深いものがその言葉にあった。


「私は私なりに君に気を遣っているのに、君は死を持ち出して私を断罪しようとする。そう言われると私は何も言えなくなる。生まれたときから死ぬ運命なのは私だって同じなのに」

「そういうことですか、遠近法って。本当はまた地震が来て二人とも死ぬかもしれないのに、俺は自分の死を近くに、あんたの死を遠くに描いているって言うんですか」

「実際そうではないか。何故、君の方が先に死ぬと言い切れる?死は私にとっては遠くないのに、君を含め皆、今私が健康そうだから、死刑判決を受けていないからと、私にとっての死への距離を勝手に決めている」

 普段無口な王に畳みかけるように言われ、俺は何故か胸が熱くなった。


「……王にとって、死とはどういう距離にあって、どういうものなのですか……?」


「聞きたいか?別に面白くないぞ」


 本当言うと、俺一人が死のことを考えていて、王や他の奴らは政務のことや、自分の余暇のことを考えているのかと思うと、それも結構つらかった。実際、王には外交問題で大きな動きがあり、その対応で苦慮も多いことには薄々気付いている。オスマンと和睦なんかするからオーストリアとかスペインとかが面倒なことになっているのだろう。でも、俺にはない未来のことで、王が苦悩していることに、よくわからない苛立ちを感じてしまう。


 俺が死ぬというのに、俺にとってそれ以上に重要なことはないのに。何故、他のやつにはそれよりも大事なことがあるのだ。王だって、結局そうじゃないか。たとえ俺が死んで悲しかったとしても、それ以降も人生は続いていく。多分、俺が王から離れたかった一番大きな理由はこれだと思う。


 俺はどうしようもなく孤独なんだ。

 俺一人だけ、死と向き合っている。

 俺一人だけ、違うものを見ている。

 一緒に死んでくれとまでは言わない。

 でも、俺が直面している恐怖と孤独に、誰かを引きずり込みたくてたまらない。


「死ぬのが怖いんですか?」

 この感情は何なのだろう。

 謎の痛みと安堵。

 俺は王が悲しむのが嫌だと口では言いつつ、結局のところ、俺が苦しんでいる分、何でもいいから王も苦しんでいてくれた方が救われるのか?


「怖い。地面が揺れるのが怖いのではない。誰かが死ぬのが怖いのでもない。私が死ぬのが怖い、さっきも心底そう思った」

 そう言ってたよな。実は俺、王の話を軽く流してきたか?

 自分のしんどさで必死だったけど、王は俺に言いたいことがあったのか?


 俺がこの状況で死の恐怖を感じていることくらい、誰でも理解するだろう。

 でも、王が今の状況で死の恐怖を感じているなんて言って、誰が理解するだろう。

 正直俺も理解できないのだから、王はきっとどうしようもなく孤独だというわけだろう。俺よりも、孤独だ。そう認識して少し嬉しいって、俺は人としてどうかしている。


「聞いてあげますよ、どうせ暇ですから」


 いつものように強がって上からな言い方しかできないが、本気で聞きたい。

 何かしてあげたいとかよりも、俺自身が少しは楽になるような気がして。


「ああ。ただ、今日はもう遅い。また明日以降にしよう」

「はい……えっと、それで、俺の身柄はどうなるんですか?」

 つまり、自分で言い出したことではあるが、牢獄に移されるのかどうか、だ。

 言ったものの、後悔している。

 死ぬのも嫌だが、しんどいのも嫌だ。

 処刑のギリギリまで快適な宮殿にいたいというのが本音な俺は、所詮ひ弱な王族なのだろう。

 そんな俺の思いを見透かしたのか、王は少し意地悪く聞いた。


「王である私に、どこで話をしろと?牢獄で?」

「いや、それは……」

「元の居室を少し片付けさせる。硝子や陶磁器はすべて撤去して、警備も強化する。とりあえず今夜は私の部屋にいろ。いいな?」

「はい……」

 確かに、昼寝したとはいえその後大泣きしたから疲れた。

 王なんて断食して仕事してたからもっと疲れてるだろう。


 工房から王の部屋まで無言で歩いた。

 当然俺たちの周りには厳重な警備もついているわけで、夜中に迷惑を掛けまくっているな、俺。


「何か、いろいろとすみませんでした」

 再び王の部屋に戻ってきたところで、一応謝っておく。

 本当に詫びるべき、もっと大きなことを隠すように。


「私もいろいろ言ったから構わない……とりあえず寝ろ」

 そう言って王はさっさと横になった。


 そういえば、いろいろ言われた。


 ――今まで我慢していたが、私も君のそういう態度に腹が立つ。


 長兄と次兄の間くらいの年齢差のやつにそれを言われたわけだ。

 結構衝撃だ。

 だって、兄たちは俺よりもずっと大人だから、小さかった俺がやったことに対して大人として叱ることはあって、「自分も腹が立つ」なんて言わなかった。甘やかしてくれると思っていたし、兄たちに悩みがあったとしても、それは俺が聞くことではないと思っていた。


 自分の年齢が変わると、年齢差というのも違って感じる。

 45歳の王は、35歳の俺にとって、絶対的な大人でもないし、昔思っていた45歳よりもずっと未熟さや脆さがあるように思う。

 ……じゃあ、もし俺が45歳まで生きられたら、どんなふうになっているのだろう?


 また、涙が込み上げてきそうになった。

 駄目だ、これは、考えたら駄目だ。


「王、起きていますか」

「……寝ている」

 律儀に返事が返ってきた。いや、それなら寝たふりをしたらいいのに。


「ちょっとでいいので、遠近法の描き方、教えてもらえませんか?」

「教えられるほどではないが、何故?」

「俺の視点から見えるきれいじゃない世界っていうのも、少しくらいは描いてみてもいいかと思いまして」

「そうだな……わかったから、寝ろ」


 なかなか寝付けそうにはないが、流石にこれ以上王に話しかけるのはやめることにした。


 さっき浮かんだことが頭の中でぐるぐる回る。眠れない夜は何故こんなに長いのだろう。


 客観的に見ると時間の長さは同じだが、当人にとってはそうではない。

 あと残り3週間あまり。

 それはどんな長さに感じて、何が大きく、何が小さく見えるのだろう。

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