第14話 恋の病の治し方

 しかしそれから数日間、俺は王の話を聞いてやったり、遠近法を習ったりするような状況ではなかった。


 俺の感情や体調やもういろいろなことがおかしくなっていったのだ。


 最初は怒り。

 何で俺が死ななければならないんだ。

 俺の犠牲で救われる者がいる?

 でもそいつら、全然俺に感謝せず、普通に生きているじゃないか。

 違う、そこじゃないんだ、俺が本当にやりきれないのは。

 そもそもこれは怒りなのか?

 混乱してくる。


 そして疲れが出て、起き上がれなくなった。

 何をする気が起こらない。

 でも、こんな風に寝ていていいのか?

 一日とか二日って、普通ならたいした時間じゃないけど、俺にとっては寝ていていいような時間じゃないのに。


 焦りで苛立つ。苛立つだけで激しく消耗して起き上がれない。

 いや、なんで起き上がれないんだ。何がしんどいんだ。

 ますます苛立つ。

 そのあたりのものを壊そうものなら衛兵が飛んでくる。

 客室にいても俺は囚人なんだから仕方がない。

 何もできないから、布団を被って、自分の髪を一本ずつ抜いた。

 泣くほど痛いわけじゃないのに、涙が止まらなかった。


 髪を抜くのをやめて起き上がったのが、起き上がれなくなってから二日目の午後だった。

 衛兵に付き添われて工房へ向かったのだが……。

 身体がふわっとして、現実感がない。

 何で、俺はここにいるんだ?

 筆を取ろうとしたら目が回る。

 何で、絵を描いているんだっけ?


「頭、痛い……」


 かろうじて、衛兵に聞こえていたようだ。


「王子、大丈夫ですか、少しお待ち下さい、医師を呼びます」


 そう言って人がバタバタと動く。

 痛い。痛い。痛い。何なんだ!?


「助けて、母上、死にそう……」

 この部屋を警備しているのが母上ではないことは確かなのだが、そんなことどうでもいいくらいに頭が痛い。

 何だこれ、ちょっとおかしいんじゃないか?


「王子、バヤズィット王子」


 誰かが呼んでる。誰だ?誰でもいい。

 いやそれより待て。左耳が聞こえない……?

 聞こえないのか、聞こえにくいのか、なんだかわからないけど、怖くなってきた。

 俺はずっと健康だった。割れるような頭痛なんてものも初めてなのに、何で耳まで。


 寝室に戻されて、医師らしきのがやってきて俺の脈を取ったり熱を測ったりしている。

 でも、俺はそれをどこか遠くから見ているような気がする。

 何これ、死ぬのか?


 意識が遠のきかけても頭痛でここに留められている感じだ。

 何だ?もう、刑が執行されているのか?

 そういえば、息が、苦しくなってきた。


 何だお前ら、何を見ているんだ。

 ちゃんと、殺せよ。何で、半殺しのまま放置するんだ。

 俺が、周りの奴らに向かって叫んでいるらしい。

 自分のことなのになんでこんなに他人事みたいなんだ?


「下がれ、私が看る」


 役立たずな観衆をかき分けて誰かが近付いてくる。


「痛い、死にたくない」


 俺が縋るように差し伸べた手を、その人は両手で包んだ。


「私が今から言うことを、信じて心の中で復唱しろ」

 俺の手を握ったまま、すぐ側に誰かがいる。聞き慣れた低い声だが何を言ってるんだ?俺は死にかけているんだぞ?息もできないくらい、痛くて苦しい。

 俺の抗議の沈黙にも動じず、そいつはしっかり俺の手を握ってゆっくりと言った。


「右の手のひらがあたたかい」


 え?何?何を言っているんだ?俺の手のひらがなんだって?


「右の手のひらがあたたかい……はい、10回復唱」

 やさしく、力強い声なのだが、何故そうなるのだ?


 でも……確かに、右の手のひらがあたたかい。

 あたたかさに包まれているから、あたたかい。

 右の手のひらがあたたかい……右のてのひらが……。


 何とか頭の中でその言葉を繰り返そうと頑張ってみる。

 状況がよくわからないけど、このあたたかさは信じられるから。


 なんだか、眠くなってきた……。


「痛みはどうだ?」

 その言葉で我に返った。

「あれ……?王……?」

 何か混乱していたけど。

「さっきのって……?」


「サファヴィー教団教主の奇跡。治っただろう?」

 ……確かに。頭痛はまだ少し残っているけど、息苦しさも無くなっているし、両耳とも同じように聞こえる。

「え……あんた、救世主やめたんじゃなかったんですか……?」

「救世主をやめてもこれくらいはできる」

 これくらいって何だそれは。今、すごいことが起こったんだぞ?

 死にかけていた俺が手を握ってもらっただけで治ったんだぞ?これって奇跡というやつなんだろう?


「もともと、うちの教団は国家を作る前、こういうことをやっていたのだ」

「こういうことってどういうこと……」

「それを説明する前に、もう一つ」


 王は俺の手を放し、俺の目の前にすっと人差し指を立てた。


「私の指を見て、首や顔を動かさずに、目だけで動きを追う」

「なんですかそれ……」


 よくわからないまま、上下左右にゆっくり大きく動かされる指を追う。


「で、何なのですか」

 目だけ動かすとか普段しないから、なかなか疲れる……。

「普段の状態に近付いただろう?」


 ……そういえば?だるさとか頭の痛さは残っているものの、さっきの死ぬんじゃないかというような状態からは解放された。


「ふむ……私の腕もまだ衰えていないな」

 王はそう言ってから、水と氷を持ってくるように侍従に伝えた。

「いや待って、どういうことなんですか……」

 何こいつ、やっぱり人間じゃなんかったのか……?

 でも、そんなことってあるのか?


「イブン・スィーナーが恋の病を治した話は知っているか?」

 冷たい水を飲んで少し良くなった俺に、王はよくわからないことを聞いた。

「何でまたイブン・スィーナーなんですか。昔の高名な医者ですよね?でもその話は知りません……そもそも恋の病って医者が治せるものなんですか」

「恋とは心の動き。しかし、それで動悸がしたり熱が出たりする、これは身体の働きだが、両者にはつながりがある」

「あ……はい、そうでしょうね」


「多くの人は、恋の病でなくとも、心の動きによって身体に影響が出る。たとえ本来身体に病がなくても、それが本当の病になることもある」

 わかる……それ、うちの父だ。イブラヒム・パシャが死んでからずっと調子が悪いが、特定の病気ではない。何もないときは今にも死にそうだけど、国に大きな困難が降りかかると力を振り絞って健康な人間以上の働きをする。だが、仕事が終わるとまた死んだように倒れている。多分、心の病なんだろうと皆思っている。口にはしないけれど。


「ええ、心と体の働きに因果関係があるのはわかります。でも、治せるものなんですか」

「初期のサファヴィー教団は、そういった心から来る病気を治そうとした。そして、ある程度は成功した。さっき、君にやったように」

「へえ、さっきのが。サファヴィー教団ってそういう活動してたんですか」

 実際、サファヴィー教団の活動など知らない。俺が知っているのは凶悪な隣国であるサファヴィー朝、教団の要素としてはせいぜい先代の王の伝承めいた話までだ。


「余所は知らないが、少なくともうちの歴代教主はその因果関係に基づく治療をしてきた」

「それは、イブン・スィーナーの研究をして?」

「いや、イブン・スィーナーは恋の病を治したというが、詳細は残していない。それに、イブン・スィーナーは数学的で理論的だが、サファヴィー教団は高尚な理論よりも、目の前の病人をどう助けるか、というところから入ったから発想が逆だ」

「逆というと……?」


「イブン・スィーナーだけでなく、学者は宇宙の成り立ちから解析し、そこから明らかになった理論で患者を治そうとする。だが、祖先……つまりサファヴィー教団の教主たちは書物からではなく、実践の積み重ねから治療法を探していった。たとえばさっき君にしたのもそうだ。手と心がどのようにつながっているのかは実際のところよくわからない。だが、恐怖や錯乱のうちにある人に、あのようにしてきたら多くは良くなったという、そういう経験の蓄積による治療法だ」

 ふむ……なるほど。確かに理屈としてはよくわからないけど、確かに俺は恐怖で頭がいっぱいだったのに、手を握られた瞬間に意識がそっちにそれて、そのまま「右のてのひらがあたたかい」と復唱させられたことにより、死の恐怖以外のことを持続的に考えた。


「で、目は?」

「恐慌状態の人間はたいてい眼球が動いていない」

「そうなんですか」

 そんなこと、観察したことなんてなかった。

「そうなるのだ。何故かはわからないが。心の動きが原因になっていることでも、人の心を動かすのは外からでは難しい。が、君は私の呼びかけには応えられるくらいには戻っていたから、目を動かさせることはできる。あれで更によくなっただろう?」

 そう、そうなんだ。何をしているのかはわからなかったけど、王の指を追っているうちに、身体が地面についていく感じがした。

 正常な人は眼球が動いているが、恐慌状態にある人は眼球が動いていない。恐慌を解くために、眼球を動かさせる。そうすることで正常な状態に近付けるということか。


「イブン・スィーナーがどうやって恋の病を治したかは知らないが、私なら心には踏み込まず、身体に何らかの刺激を与えることによって身体症状を改善する方法を探す」

「恋する心や、まして相手の心は変わらないけど、身体症状は変えられるということですか」

「推測だが」

 すごい、すごい。

 これはまさに、キリスト教徒が言うところの目から鱗だ。


「へえ……サファヴィー教団って狂った教団かと思ってたら、結構合理的なんですね……」

 褒めたつもりがかなり失礼な言い方であったことに気付き、詫びようかと思ったが、それに王の言葉が重なった。

「いや、世間の言うように狂った教団だ」

 王は悲しげに天井を見上げて言った。

「最初からではない、だが徐々に狂っていったのだ」


 王が杯を傾けると水の上に浮いていた氷がカラカラと鳴って、それが余計に沈黙を長く深く感じさせた。


「だから、死ぬのが怖いのですね?」

 俺はまだ頭がぼんやりしていたのだろう。

 今の会話の流れからはそうはならないはずだが、ふいにそんな言葉が出た。


「すいません、まだ寝惚けています」

 だが王は、苦笑して肯定した。

「まあ、そんなところだ」


 ……何なんだろう、聞いていいんだろうか。

 いや、聞くと約束したのだから、聞いてやろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る