第12話 彼が痛みに気付く理由
「いやいや、まことにすみません……」
俺は赤くなった王の手首を見ながらひたすら頭を下げた。
……というより、恥ずかしくて顔を上げられない。
何という醜態を晒してしまったのだ……。
俺には無意味な矜恃も多いが、普通誰でもあんな姿は人に見せたくないと思うのは当然だろう。
それに、王だけじゃなく、外に控えてる衛兵全員に俺の見苦しく泣き叫ぶ声が聞こえてしまったわけだろう……。
さっきとは別の意味で泣きたい……。
「いや、これくらいどうということはない。それより君の怪我は?」
「ん、たいしたことないですよ」
そう言って右手のかすり傷をひらひらと振って見せた。
「……少し心配だな」
「え?大袈裟ですね」
何が心配なんだ。
だが王は人を外にいた衛兵を呼んでとんでもないことを命じた。
「バヤズィット王子の怪我の手当をして着替えさせてから私の寝室にお連れしろ。今夜はこちらで預かる」
は!?
衛兵数人に抑え込まれ、包帯を巻かれたり着替えさせられたりしているのだが。
「ちょ、ちょっと待って下さい王。俺は、王の夜のお相手をするほど若くも美しくもないんですけど!?」
王は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべて部屋から出て行こうとした。
「では、また後でな」
待てー!どういうことだ!?
結局俺は夜伽に召された後宮の女のようにしっかりと所持品を改められ、釵まで外されて、王の寝所に引き渡された。
まさに引き渡されたという感じだ。
大事な人質に何をしやがる。こんなこと、父が知ったら和睦の話も吹っ飛ぶぞ?
「……何も、危ないものは持っていないな?」
持ってるはずがないだろう、さっき身ぐるみ剥がされて確認されたよ。
「では、おいで」
王は寝台から少しだけ身を起こして言った。
「はぁ!?何でですか」
どういう状況だよ、これ。
俺が恐る恐る近寄ると、何故か制止した。
「ああ、違う違う。こっちではなく、向こうの寝台に」
そう言われて見ると、王の寝台の少し離れた隣にもう一つ寝台があることに気付いた。
しかし何であんな微妙な距離のところにもう一つ寝台が。お妃を召すときってあんな感じじゃないよな……?
「多分、君は自覚しているよりもずっと、つらいのだと思う」
王自身がつらそうに言った。
「ああ、さっきのことですか。いやちょっと取り乱してしまいましたけどね、大丈夫ですよ」
何だ、俺が自暴自棄になって変なことをするとか心配されてたのか。
ふと、自殺した弟のことが脳裏を過ぎった。
長兄の処刑とかいろいろあって、神経が過敏になっているのは気付いていた。
でも、それ以上のことだとは気付いてやれなかった。
つらかっただろうに、最後まで穏やかな笑顔を浮かべていた。
叔母だってそうだ。
イブラヒム・パシャが死んだ後、どこか遠く感じた。
でもまさか、死ぬなんて思わなかった。
何で人って死ぬ前につらいって言えないんだろう。
いや、つらいって言えない人が自殺するんだろうか。
「いやいや本当、大丈夫ですって俺は」
沈黙を続ける王に、俺は繰り返した。
見苦しいながらも泣き叫んで苦しさを訴えたわけだし。
俺は死ぬのがつらい、生きたいってちゃんと言えるから自殺なんてしない。
「そうか?君はあの部屋の硝子を割ったりしそうに見えるのだが……」
王が案じているのは自殺じゃなくてそっちか。
「しませんって……」
でも、ちょっとあり得るかもしれない。
何で、俺が死ななければならないんだよ。
他のやつが生きてるのに、何で俺だけが。
さっき爆発しかけたものは、今も燻っている。
「まあいい、割らないなら割らないでその方がいい。が、君はスレイマン帝から預かった大切な人質だ。本来あのくらいの怪我もあってはならないことだ。とにかく今夜はここにいろ。叫んでもいい、暴れてもいい、窓を割ろうとしたら私が力ずくで止めるから、好きなようにしろ」
「はぁ……」
……何だろう。
王が、人質である俺の身の安全を確保しようとするのはわかるんだ。
でも、この発想……。
確かに俺は今、精神的にかなり参っていると思う。
でも、普通そんなことに気付くか?
そういうのに気付くのって、自分が参ってしまったことがあるか、身近な人がそうなったことがあるか……じゃないだろうか。
王の周りにも、極限まで追い詰められた人がいたのだろうか。
それとも王自身が……?
でも、俺はそんな野暮なことは聞かない。
「じゃ、好きにしますね」
そう言って俺は用意された寝台に遠慮無く寝転んだ。
「そして、いつものように喋ります」
「そうか」
王は少し安心したように、自分も横になろうとしたが、俺をちらりと見て聞いた。
「本を取ってこいとか、絵を描いてくれとか言わないな?」
あはは、そういえば俺は夕食のときに王にあの本を持ってきてくれとか、今ここで絵を描いてくれとかそんなことをしてばかりだった。大事な人質とはいえ、なかなか度胸をしていると思う。
「しませんしませんー。灯りを消してとことん語り合いましょう」
「はぁ……」
王はため息をつきながら灯りを消した。
あれ……何か、こういうの、昔あったな。
年の離れた長兄や次兄とたまに一緒に寝たんだけど、兄たちは10歳も離れた俺に甘くて、俺はしたい放題だった。
そういえば、王は長兄と次兄の間くらいの年か。
ちょっと胸が痛くなった。
「何でこの部屋、寝台が二つもあるのですか?」
直接的すぎたかな?でも、まさか俺のためではないだろうし。
「ああ、ときどき息子が夜に泣いて暴れるから、そこに寝かせて寝付くまで私が見ていたのだ」
これはびっくりな答えだ。王である父親が息子を寝かしつける?
「えっと、そういうのって乳母の仕事じゃないんですか?それに、そんな小さい息子さんいらっしゃいましたっけ?」
「小さくない。君もよく知っている……長男だ」
「ムハンマド王子ですか!?」
ムハンマド王子は多分20歳は過ぎている、目の見えない青年だ。
俺はちょっとだけ楽器ができるから、何度か一緒にウードを弾いたことがある。ちなみにムハンマド王子は俺とは比べものにならないくらい上手い。
俺よりもずっと背が高くて武人みたいに筋肉隆々としてるけど、すごく大人しくて優しげな子だ。
あのムハンマド王子が、夜に泣いて暴れる?
ちょっと想像しがたいが……。
「人よりも感受性が強くて、時々心だけ子どもに返ってしまうことがある」
ああ、それは何かわかる。幼いというのとは少し違う。本当に子どもになっているような様子を何度か見たことがある。
「だが、身体はあの通り大人なのだ。さっき、君は無意識のうちに杯を砕き、それから私の腕を握っていただろう?あの子にもそういうことがあったのだ」
「何かつらいことでも?」
「よくわからないが、何か恐ろしい幻覚を見ていたのではないかと思う。あの子は怯えきって、乳母にしがみついた」
「ふむ、よいではないですか」
そうやって人のぬくもりで正気に戻ることもある。さっき、そうやって王に助けられてしまったことに羞恥の思いは拭いきれないが。
「だが、実際は22歳の筋肉のかたまりのような男だ。本人は子どものつもりだったのだろうが……」
え……何か、嫌な予感がしてきた。
「あの子の母親同然だった乳母は、あまりに強く首にしがみつかれて、死んでしまった」
うわー……。それって……。何て言ったらいいんだろう……。
疲労もあって俺の頭からはいろいろと語彙が飛んでいる。何だろう……泣きそう。
泣きそうなんだか、ちょっとほっとしてる。
死にたくないのに死んだ乳母。大切な人を殺してしまった王子。
俺より不幸な人が世の中にいるかもしれない。
……最悪だな、俺。
「それで、泣いておられるのですね」
浮かんでくる最悪な思いを打ち消すように、相づちを打った。
「ああ。泣くだけではなく暴れ出すから、私が取り押さえるしかない。母親も乳母ももういないから……。いや、一番大切なのは、取り押さえることではなく、あの子の心に平安が戻ることなのだがな……」
王は父親だけじゃなくて、息子のことでも違う種類の苦労をしていたのか。
俺の心の揺れ動きに、王が俺自身よりも先に気付いたことに少し納得がいった。
「そうですね……あれ、なら、俺がここにいてもいいんですか?」
だって、この寝台はムハンマド王子のためのだろう?
「ああ、大丈夫だ。最近は新しい保護者ができて、かなり落ち着いてきたから」
「新しい保護者……」
「多分君も遠目に見たことがあると思うが……」
「もしかして、姫様ですか?」
「そう」
あれだ、パーリーハーン姫だ。
俺の姉と同じ匂いがする、強い女だ。
まだ12,3歳だと思うが確かに10歳近く上のムハンマド王子をあやしているようなところがある。そうか、しっかりした姉妹というのは、支えになるかもしれないな。まあ、俺には姉や従姉しかいないから、年下の親族がどう支えになるのか、感覚としてはよくわからないが。
「だから、大丈夫だ。もっとも君の場合、力づくで取り押さえる必要性よりも、どちらかというと、話をしているうちに楽になる感じでは?」
「……確かに、それはあるかもしれません」
割と、昔からそうだ。
つらいときは誰かと話しているうちに乗り切れた。
弟が自殺したときも、残されたのが俺一人だったら潰れていたかもしれない。
でも、姉と兄がいた。だから、耐えられた。
今なら……やっぱり王か。
甘えていいのか?
いいはずだ。だって、俺の命には40万アクチェと和平がかかっている。
王には俺を守る義務がある。
「だから、君はここにいてもいい。まあ、もしムハンマドが乱入してきたら一緒に何とかしてくれ」
「はぁ……」
一緒に何とかって、家族かよ俺は……。
……家族……?
俺、一年近くここにいて、何か家族みたいになっていないか?
人質というのは……。
ある西欧の絵の写しが目に浮かぶ。
ローマ教皇の一族であるボルジア家の「家族」の絵だ。
そこに親密そうにとけ込んでいるのが、俺の曾祖父の弟、ジェム王子だ。
人質の、ジェム王子。
人質は利用価値ゆえに大切にされる。
だが、本当に利用価値だけで大切にしているのか?
俺とサウファヴィー王家、ジェム王子とボルジア家の間には打算しかないのか?
ジェム王子も俺みたいに一緒に食事をしたり、いろんな娯楽をともにしたという。
その中で、血の通った交わりはきっとあったと思う。
その終わりは悲劇的なものであったにしても。
違う、俺とジェム王子は違うんだ。
ジェム王子は王位を取り戻すために亡命し、何度も再起を図ったが、俺は違う。
俺は王位なんて要らない。
ただ、俺のことを大切に思うやつの前で死にたくないと、そう思ったんだ。
「好きにしていいって言いましたよね」
「ああ。何だ?」
「今から工房に行きたいとか言ったら怒りますか?」
「……怒る……」
そう言いながらも王は起き上がり、俺に上着を差し出した。
「着替え、持ってきてないだろう?貸すから着ろ」
小さい頃から薄々思っていたけど、俺は年の離れた兄みたいなのに甘やかされる才能があると思う。
兄たちが死んで随分経つから、もう忘れかけていたけど。
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