第18話 人生最後の課題

「……王」

「何だ?」

「お腹空きました、もう日没すぎてます。一緒にご飯食べましょう」

「そうだな。いや、日没の礼拝が先だ」

「もうとっくに時間すぎてますよ……」

 ……と俺は言ったのだが、王は遅ればせながらもメッカの方をきっちりと向いて祈り始める。

 前からずっとそうなのだ。俺は忘れてたときはまあいいや、と省略してしまうのに。


「……何で俺にああいうこと言っておいて祈るんですか」

 世を欺くためにやっているのなら、別に俺しかいないところで祈る必要はないんじゃないか。

「別に君のためにやっているわけじゃない」

「じゃあ何のために」

「サファヴィー教団のあり方が誤っていると思ったから、イスラームを国教にした。その過程で衝突が起こり、多くの死者まで出したというのに、それを推進した私が、投げ出していいのか?」

「いや、そうですけど、一人でいるときとかは別にいいんじゃないですか?」

「一人でいるときのあり方が、結局人前でも滲み出てしまうものだ」

「……それはそうですけどね」


 本当、こいつの立ち位置は難しい。

 ただの可哀想な狂人ではない。

 サファヴィー教団の宿臣と言える者たちを粛清してまで、イスラームを国教とした。

 教主を救世主と呼ぶことを禁じ、12イマーム派の教えを正統とし、神を信じるよう説いた。

 そのことで周囲の国々との外交は安定したし、イスラーム法による秩序も浸透しつつある。

 でも、こいつ自身が神を信じていないなんてことになれば、皆、裏切られたと思うだろう。


 いや、事実、裏切っているじゃないか。

 多くの者にとって、最善の決断をしていると思う。

 でも、こいつの行動の根底には、大きな嘘がある。


 俺はそのことに、何故か怒りではなく、さっきよりも更に深い悲しみを感じた。


 だって、神がいても、神がいなくても、こいつは赦されないことをしているいうことになるじゃないか。

 神からも、人からも赦されない、そんな道を自ら選んで歩んでいる。


 ……まだ祈ってる。人がやっているのを見ると長いな。

 俺は寝転んだままそれを見ているうちに、やっぱりこれは何かの祈りなんじゃないかと思えてきた。

 神を信じていないのに何に祈るのか、それはよくわからないけど、王の一つ一つの所作に、切実さを感じた。


「ああ、待たせたな。というか、君は祈らないのか……?」

「いえ、心の中で祈ってました」

 祈っているあんたを観察しながら祈りとは何だろうと考えてました、そう言ってやってもよかったかもしれないが。


「部屋に食事を運ばせようか?」

「あ、いえ。もしいいのなら、皆と一緒に頂きたいのです。ずっとこもりきりも何ですし」

「そうだな……ムハンマドも君のことを心配していた」

 へえ……あの盲目の王子が。いや。

「あの子、目、見えますよね?」

 この前すれ違ったとき、俺が落とした絵を拾ってくれた。

 気配で察知したという感じではなく、的確に目で追っていた。

「ああ。全盲ではない。だが、普通の者に比べるとかなり見えないらしい。正直私にも何がどう見えてどう見えないのか、よくわからなくない。それで、見えているのだろう、と叱りつけたら本当に見えない、と苛立ったり……そういうことばかりだ」

「なるほど。俺、叱りつけたりしないから、好かれてるんですね」

「そのようだが、そもそも君は叱りつける立場じゃないだろう……」

 でも、叱りつけるのは上策じゃないくらい、わかってるけどな。

 こういうの、他人の方が上手く距離を取れるのかもしれない。


「ま、そうですけどね」

 よし。こんな根暗な中年と部屋にこもってないで、若い子と肉でも食おう。

 勢いよく起き上がったら目眩がした。

「……慌てるな。ずっと寝ていたのだからゆっくり行動しろ」

 子どもじゃあるまいし……というつぶやきが続いた。

「わかりました。年配の方に合わせてゆっくり行動しますんで」

 手を差し出すと、王は苦笑いを浮かべて起こしてくれた。

「先に風呂に入ってこい、汗臭い」

 そう言われてみれば、もう数日間寝たきりだった、この夏場に。

「で、私は先に食べているから。無くなっていても恨むな」

 ……腹立つ。


 *


「バヤズィット王子」

 風呂で汗を流してすっきりとした気分で広間に入ったら、王よりも更に大柄な青年が、俺に気付いたようで手を振ってくる。

 ムハンマド王子。やっぱり見えてるじゃなか、この子。

「よかった、体調を崩したと聞いていたので心配してました」

「ああ、大丈夫大丈夫。何かちょっとね、暑さと……まあ、いろいろで」

「いろいろ……」

 うまく焦点が合わない様子の両目から、大粒の涙がこぼれる。

 この子、22歳だったっけ?

 年相応の礼儀正しさや体格の良さと同時に、子どものように素直なところがある。

 そういえば、王から聞いた話。恐怖に取り憑かれて乳母を殺してしまったという……。

 その場面は想像できないけど、そのことを思い出して泣いているというのはわかる。


「ごめん、心配かけて。でも、大丈夫だから。俺は神に対して何ら恥ずべきことはしていないから。またいつか会えることを祈って送り出してくれると嬉しい」

 俺は心優しい青年の涙を拭いながら、ふと考えた。

 普通、こうだよな。

 大逆罪とはいえ、冤罪であることはみんなわかってる。

 そもそも大逆罪は神に対する罪ではない。

 流石に殉教者とまではいかないが、死後はそこまで酷い扱いにならないだろうと、自分を含めたいていの人は思っているだろう。

 でも、この子の父親は違うんだよなあ……。


「はい……バヤズィット王子、羊の串焼きがお好きだったかと……?」

「うん、大好き。断食月最大の楽しみだな。でも、来るの遅かったかな……」

 かなり出遅れた感じで、めぼしいのが無くなっているような。仕方ないか……。

「実は、取っておきました」

 そう言ってムハンマド王子は机の端に隠すようにおいてある銀の盆を指した。

 ちょっと、何なんだこの子、いい子すぎる。

 俺、6歳下の実の弟からは心ない仕打ちばっかり受けてたんだけど?

 ――兄上みたいな単純な人には僕の気持ちなんて一生わからないと思う。

 自殺する数日前もこんな感じだった。

 わからないよ、今だってお前が何に苦しんでいたのか、全然わからない。


「ありがとう、じゃあ、一緒に」

 そう言って一緒に羊の串焼きを食べながら、こっそり観察した。

 確かに、ぎこちない動きからすると見えてないところが多いんだろう。

 視野が欠けているのか?強度の弱視なのか?両方なのか?

 完全に見えないっていう方が、ある意味理解できるんだよな。

 一応俺も、寄進ワクフで盲学校を設立したりしているから、盲人にはちょっと興味がある。

 興味があるっていうのも冷たい言い方だけど、もともとはそんな感じだった。

 でも、今はちょっと違うかな。


 観察しているのは、王子にとって世界がどんな風に見えるか、俺には「わからない」ということを確認するため。

 ムハンマド王子がいくら俺の死を悲しんでくれても、俺にはなれないし、俺の恐怖や悲しみは俺にしかわからないように。

 みんな理解し合えないものを抱えて生きて、死んでいく。


 理解しようと努力することは必要だけど、その末に理解できなくても、それでも一緒にいることはできる。


「おいしかった。やっぱり羊肉は最高」


 この羊肉で俺が延命できるわけでも何でもないけど、嬉しいんだ。

 弟のこと、何にもわからなかったけど、それでも側にいたらよかったのかな。

 誰にも理解できないような苦しみを抱えていても、生きていていいんだって、伝える術はなかったんだろうか。


「ありがとう、ムハンマド王子」

「いえ……そうだ、お礼に一曲合わせて下さい」

 ウードか。得意ではないけど、一緒によく弾いたな。

「いいよ。でも、俺、全然上手くないのにいいの?」

「上手さは求めていませんから」

「……そりゃどうも」

 あの根暗な父親ならともかく、こんないい子に下手と言われたことにちょっとばかり衝撃を受けた。

 が、ムハンマド王子は慌てて訂正した。

「いえ、そうではなくて……。寂しくなったときに、あなたのことを思い出せるように、耳に刻んでおきたいのです」

「刻めるのか?」

「そうですね……ここ20年近くの音はたいてい覚えていますが」

 え……何でそんなことができるの……?

 目が見えなくても聴覚、俺とそんなに変わらない奴もいっぱいいるのに……。

 まあ、いいや。本人がそうしたくて、そうできるのなら。


 結構長いこと弾いて、流石に疲れたから、ムハンマド王子にウードを返して、中庭に出た。

 別に探していたわけじゃないけど、よく王と話をした東屋に足が向いた。

 やっぱりそこには王がいて、不思議な安堵を覚えた。

 でも、いつもぽつんとしているな。

 父にとってのイブラヒム・パシャみたいに親しい臣下はいないのだろうか。


「ムハンマドと随分親しくなったのだな」

 その言葉に何となく不服そうな響きを感じた。

「嫉妬ですか?」

「……違う」

 冗談の通じないやつだ。


「君は、君のことを大切に思う者の前で死にたくないと言っていたのに、結局皆に好かれるように振る舞うのだな、と思って」

「いや、別に好かれようと意識してやってるわけじゃありませんが……結局無理だと思うんです。誰もいないところで野垂れ死なない限り、人に好かれたり嫌われたりするのは」

 好かれているだけじゃない。

 王の次男のイスマーイール王子や、尋常じゃない切れ者のパーリーハーン王女、あの辺りは俺のことを嫌っている。

 俺のことも個人的に嫌いだろうし、俺が転がり込んできたせいでオスマンと和睦するのも腹立たしいんだろう。

 俺も嫌いだからお互い様だ。

 王もムハンマド王子もあいつらを可愛がっているから、言わないけど。


 結局、どこにいっても人間関係が生じてしまう。

 利害関係と一致することもあれば、しないこともある。


「まあ、そうだな。それにしても、えらく熱心にウードを弾いていたな」

「そうなんです、ムハンマド王子が、俺のことを覚えていたいって言うから」

「……あの下手なウードで……?」

 はっきり下手と言うな。

「上手い下手は関係ないって言ってましたよ……」

「まあ、関係ないな。視覚、聴覚、触覚……何らかの刺激によって目の前にいない者を思い出すわけだから」

 目の前にいない者。

 俺はまだ目の前にいるんだけど。

 でも、みんな俺がいなくなる準備をしている。


 生暖かい風が吹き抜ける。

 季節は全然違うのに、イブラヒム・パシャが死んだあの夜みたいだ。


 俺たちが水煙草を吸っている間にイブラヒム・パシャが死んでいたように、こうやって喋っている間に、実は俺が死んでしまっていたりするんじゃないか。馬鹿げた妄想なんだけど、ぞっとする。


「王、俺、まだ死んでませんよね?」

 王はしばらく考えた。

 何で、何を考えるんだよ?

 生暖かい風に、空恐ろしくなる。


「……こっちに来て座れ」

 王は自分の隣に俺を座らせて、右手を握った。

 ……この前と同じだ。


「君の右手は?」

「……あたたかい」

「じゃあ、生きているんじゃないか?」

「そういうことになりますかね……」

 そういうものなのか……?

 でも、さっきまでの、過去と現在、現実と妄想が全部合わさったような感じがなくなった。


「……やっぱり教主の奇跡、すごいですね」

「誰でもできるのに」

 王は寂しげに言った。

 多分、そうなんだと思う。

 混乱している人間への合理的な対処。

 そういうのを突き詰めて言っているだけ。

 でもそれがどうして、世界から拒絶されるところまでいってしまうのだろう。


「ところで今、何故君は、自分が死んでいるような気がしたのだ?君は一度も死んだことがないだろうに」

 王は医師のような顔で俺の脈を確認しながら聞いた。

「いや、ちょっと今がイブラヒム・パシャが死んだ夜と何かが似ているような気がして、いや、あれは春だったんですけど、あの人も俺も断食月明けに死ぬわけだから、何故か自分が死んでいるのではないかと……」

 俺、意味不明なこと言っていると思うけど、王は全く驚かず、それどころか納得したように頷いた。

「症状としてはよくある。受け入れがたいくらいつらい状況にある人が、過去のつらい経験と今の状況を混ぜて認識してしまう」

「はい、まさにそういう状況でした」

 すごいなあ、それですぐに治せるってのが。

「ただ、正常な意識に戻すことはできたが、そもそも現実がつらすぎるからそういう状態になっている、という根本的な問題は残る」

 つらすぎる現実。俺はもうすぐ処刑されるという現実。それは変わらない。


「……何とかして下さい」

 現実感のない状態、結構気持ち悪くて怖い。でも現実感が戻ったら気持ち悪さも感じないほどのむき出しの恐怖が襲ってくる。

「何とかするのは君だ。前に話しただろう。刺激を与えることはできても、君自身の心が動かなければ」

「じゃあ、心が安定に向かうような刺激を下さい」

「……ちょっと待ってくれ、考える」

 王は俺の手を握ったまま、俯いて考える。今はこの手を離されるのが怖い。だからってずっとついていてもらうわけにはいかない。本当、何とかしてくれ。


「……君は、さっきかなり衰弱していたし、混乱もしていたのに、私が弱みを見せたら元気になったな」

「何か語弊のある言い方では……別に、人のつらさが嬉しいわけじゃありません」

 そういう面もちょっとはある。自分だけが苦しいのは嫌だ。人も苦しんでほしい。

 でも、それだけじゃない。

「そういう意味で言っているのではない。元に戻らないまま死んでしまうのではないかと案じたくらいなのに、そんな君に、“世界は俺がどうにかする”などと言われ、私は不思議にそれを信じることができた。何故そう強くなれるのだろう?」

 お……これは、嬉しい。俺の言葉を信じられた。俺を強いと感じた。全部、嬉しい。で、何故そうなれたか……?


「えっと……それは、受けるよりも与える方が幸いだからじゃないですか?」

 多分それはキリスト教の司祭である祖父がそんな風に生きていて、母がよくそう言っていて、でもそもそもイスラームだってそんな感じで。普通じゃないか?12イマーム派だってそうじゃないのか?

「なるほど。じゃあ、それでいこう。君は私から何かを受けようとするのではなく、私に与えること。元気になるのでは?」


 ……何だそれは。死ぬまであんたのために尽くせと言うのか……?

 でもそれって、キリスト教徒の描くイーサー、つまりイエス・キリストみたいじゃないだ。

 キリスト教の世界ではイーサーは直接天に上げられず、十字架刑という俺よりもむごい方法で処刑される。

 その前に死にたくない死にたくないと騒いだ挙げ句、死ぬのだが、結局すべての人を赦し、すべての人に与えて死ぬという話だ。

 この異端者がそれを念頭に置いているとは思えないが、ちょっといいかもしれないと思った。

 イーサーのように崇拝されたいわけじゃない。

 ただ、今の自分を一番落ち着けるのはそれかもしれないと思っただけだ。


「わかりました。俺のありったけの慈憐と仁愛をあんたに注いであげますので、とりあえず遠近法の描き方を教えて下さい」

「ああ、言っていたな、遠近法。というかそもそも私を絵に描いて人間にしてやる、というのが君が絵を描き始めたきっかけだったような」

「そうです。あのときもあんたが可哀想だと思ったけど、今はもっとそう思うから」

 見下して安心しているわけじゃない。


 苦しんでいる人を救おうとするってのは、本気でやろうとすると、片手間や偽善ではできない。

 自分が今持っている以上の力が必要なことも多く、他人を助けようとしているうちに、何故かその力がついている。

 さっきもそうだった。寝返りもできないくらいしんどかったのに。

 王がつらそうだから。何かしたいから。必死で考えて喋っていた。

 結局俺が元気になれて、俺が幸せになれたのだ。

 王が幸せになれるかは知らない。

 でも、多分王も、錯乱している俺を助けたとき、きっと幸せだったと思う。

 やっぱり受けるよりも与える方が幸いなのだ。


「手を離しても大丈夫か?」

 王の言葉に、俺は頷き、自分から手を離した。


「じゃ、工房に行きましょう」

「……今から……?」

「嫌なら明日にしますけど……」

「いい。私も君に与えることにする……」


 王はやれやれという口調だが、結構すたすたと歩いて行く。

 夏の終わりの生暖かい風。

 さっきみたいに気持ち悪くない。

 

 俺が幸せになるために、人に何かを与える絵を描く。


 これを人生最後の課題としよう。

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