第9話 予想通り、慰めにならない話

「君は、従姉にいろいろな話を聞いたのだろう。古今東西の英雄の話なんかを」

「はい。王が言いたいのは、神の前に人の命の価値は同じだけど、人の間では英雄とされる者もいれば、忘れ去られていくただの人もいるということですよね」

「ああ。人はどうせ生きるなら英雄になりたいと思うものなのでは」

「そのようですけど、俺はどうせなれないので、そんなこと、思いません。だいたい英雄ってよく考えてみるとたくさん人を殺しているだけじゃないですか」


「なら君は、人を殺す人よりも、人を助ける人の方が偉いと思うか?」

「まあ、そうですね」

「私が言ったのはそういう意味だ」

「は? 何の話でしたっけ?」

 よくわからなくなってきた。

 俺の死の意義の話だったよな?


「君の話を聞いていて、よくわからないのだ。イブラヒム・パシャが死んで悲しいというなら理解できる。だが君は、イブラヒム・パシャの死と自分の死がどちらが特別かとか、意味のわからないことを言い出すから」

「いや、俺も王の言っていることがよくわからないんですが。英雄云々の話と俺の言っていることがどう関係があるのですか」

 どうも、互いに意味がわからないらしい。


「だから、私には君が言っている特別という意味がわからないし、スレイマン帝が誰に対してどういう思いを持っているのかはわからないし、別にそのことにそこまで興味もない。だが、世間一般では、自分が死ぬことで多くの人の命を助けたら、それは立派だと言われるし、意義があったとされる。だから、私にはイブラヒム・パシャの死よりも君の死の方が価値があると言っている」


「何でですか。だから、までは理解できるんですけど」

「さっき話していたではないか。イブラヒム・パシャはタブリーズ・バグダード遠征で多くの兵を死なせた、と。そして、彼自身が死んだことによって戦争も終わらなかったし、スレイマン帝は私を仇敵と見做し、何度も何度も侵攻を受けた。そのたびに多くの人が死んだ」

「いや、それ、あんたのせいじゃないですか!? 」

 それを他人事みたいに言うなよ。イスタンブルの王宮でのことはともかく、戦場で死んだやつらに関してはこっちだけが悪いわけじゃないだろう。


「そうだ、私のせいでもある。だが、私は攻め込まれなければその者たちを殺したり、街を焼き払ったりはしなかった」

「で、攻め込んだのはいつもこっちだって言いたいんですね」

「事実だろう」

「だけどあんただってスペインやオーストリアと結託して俺たちを背後から脅かしたし、国境の大守を唆して反乱を……」

「そのように両国には、長年の相互不信がある」

「また他人事みたいに……」

 他人事みたいに解説するなよ。信じられなくて戦争が終わらないのは、あんたの行いに問題があるからだろう?


 俺が向けた不満と不信の目を全く気にかけてないかのように、王は更に意味不明なことを言った。


「だがそれも終わりだ。君が終わらせる。だから、君は人を殺すだけの英雄よりも価値があるのではないか?」


「……あの、何のお話ですか?」

 何を言っているんだ?俺が終わらせるって何だよ。俺は処刑を待つだけの人質なんだが……。


「……あれを」

 王は侍従に何かを言いつけた。


「何を取りに行かせたのですか?」

「とても美しいもの。絵を描く者ならわかるはず」

「誰の絵ですか?」

「絵ではない」


 王の侍従は恭しく小箱を差し出した。

「うわ……これ、東洋の螺鈿……?」

 すごい、どこで手に入れたのだろう。少し角度が変わるだけで色が違って見える。

 イスタンブルでも見たことがあるけど、これはまた見事な細工だ。

「ああ、それもだが、中身の方を見てくれ」

 王は箱をそっと開け、中身を丁寧に取り出した。


 絵ではない。

 しかし、絵のように美しく華やかな文字が散りばめられた書状だった。

「これ……」

「当世随一の書道家からもらった」

 知ってる。この繊細だけど堂々とした文字。

 空白を活かすということを知り尽くした配置。

 文字を飾る小さな花の赤。すべてが響き合って一枚の絵となっている。

 いや、絵じゃない。書状なんだけど、絵を描くようになってますます思う。

 これ書いたやつの美的感覚と技術は並外れて優れている。

 それなのに、なぜこの書道家は全然絵が描けないんだろうな?

 もう、笑うしかない。


「これ書いたの、うちの父じゃないですか」

「そう、すごいだろう?」

「ええ、でも俺は小さい頃から見慣れてます。懐かしくはあるけど、見せびらかされても、別に」

「いやだから、中身。……もしかして読めない……?」


 俺たちが話しているのは方言の違いはあれどもトルコ語の仲間。この書状はペルシア語。

 一瞬気まずい沈黙が流れた。


「いや、読めますよ。ぱっと見せられても図案にしか見えなかっただけで」


 国際的な公用語であるペルシア語の勉強を怠ってきたことが悔やまれたが、何とかなる、まだ忘れていない。うん、習ったのはまだほんの20年くらい前じゃないか。


「えっと、ああ、40万アクチェの話ですね」


 前にも何故か俺の身柄に関する交渉の書状を見せてもらった気がする。

 あれの続きか。


「えっと、俺をこっちで処刑したら、父が40万アクチェを支払うから、あんたは5年前の停戦協定を守ること……合ってますか?」

「読めるじゃないか」

「それで、この後のタブリーズとバグダードの放棄……この主語はどっち……?」

「私だ。私がスレイマン帝の停戦協定を守るため、現在オスマン帝国領となっているタブリーズ及びバグダードの所有権を完全に放棄する、だいたいそんな内容だ」


 その意味を頭の中でもう一度反芻する。

 これは、サファヴィー朝側の大きな妥協だ。


「すごいじゃないですか!?」

「だから、さっきからそう言っている」


 サファヴィー朝とは建国以来60年ほど戦争が続いている。

 それが終わる日が来るなんて、ちょっと想像できない。

 特に、父が生きている間はないだろうと、皆が言っていた。

 父は取り憑かれたように、イブラヒム・パシャが辿った道を、病身をおして何度も親征した。

 特にタブリーズとバグダード。あの因縁の地は両国が争奪を繰り返し、今はオスマン帝国領となっている。

 5年前に停戦協定を結んだが、俺たちの国では終わったなんて思っていない。

 誰もサファヴィー朝の約束することなど信じないからだ。


「え、本当に放棄するんですか?タブリーズとバグダード……あんたはいいんですか、それで」

「よくはないが、これ以上の戦争が続けばこちらは疲弊するだけだ。結局、勝てないのだ。焦土戦を繰り返して逃げるだけしかできない。停戦を望んでいたのは私だ。5年前にも。だが、スレイマン帝は私を信用しなかった」

「それは今まであんたが何度もだまし討ちをしてきたから……」

「戦場での奇襲と、外交上の背信は違うのだが」

「それでも……」

 それでも、不信感は拭えなかった。それは知っている。


「私も正直、スレイマン帝は停戦協定を結びながらも、実際はこの国を滅ぼすまで戦いを止める気などないのだと思っていた」

「そんなこと、ありません。っていうか、結局そっちだって父のことを何も信じてないじゃないですか」

 それを目標とするにはオスマン帝国には他に敵が多すぎる。 父にはそれくらいの理性はある。いや、理性を失ったのはイブラヒム・パシャにまつわるあの一連の出来事のときだけじゃないか。


「ああ、わかっている。君の身柄を巡って何度も交渉を重ねているうちに、それはわかってきた。そして、これを逃せば二度と機会はないだろうと」

「ですね。だから、タブリーズとバグダードを放棄してでも停戦を?」

「それだけではない。それだけでスレイマン帝が信じてくれるとは思えない。だから、オーストリア及びスペインとの国交断絶を」

「は!? 正気ですか」

 その二国はサファヴィー朝にとって対オスマン包囲網として重要な国だったんじゃないか。

「正気だ。正気だからこそ、オスマン帝国と敵対することの不毛さを理解しているのではないか」


 普段、こいつのことを普段は地味で根暗な守銭奴だとしか思っていないが、こういうとき、改めて英主の類いだとはっきりと思う。そう。この半世紀以上の戦いは本当に不毛なんだ。何故、誰も止めることができなかったのだ。だが、父とこいつは本当にそれを終えようとしている。胸が熱くなる。最後まで見届けることができないとしても、二人なら、きっとやってくれる。


「な。すごいだろう」

「はい。根暗な守銭奴などと思っていてすみませんでした」

「は?なんでそうなるのだ。すべて君のおかげだ」

 珍しく素直に褒めてやったのに、王は不服そうに妙なことを言った。


「なんでですか」

「君がここに来なければ交渉自体がなかった。そして、君が死ななければ交渉は成立しない」

 確かに……俺の処刑は王のオスマン帝国への「誠意」の証となる。

 今までサファヴィー朝がオスマン帝国と戦うことはあっても、「誠意」を示すことなど、機会すらなかったのだから。

「いや、でもそれは俺が意図したことじゃありません」


「では、何故、そうだな、例えばポーランドに逃げなかったのだ」

 俺の逃亡先の話か?今更?

「なんでポーランドなんですか」

「君は半分くらいポーランド人だろう」

 そんな風に思われているのかと、ちょっと意外だったが、だったら何なんだ?

「ポーランド領の平民である母が攫われ、オスマン帝国に奴隷として売られたとき、ポーランド王は何もしてくれませんでした。その奴隷の息子のために何をしてくれると言うのです……それに王室としては、ポーランド王と父は今のところ友好関係にあります。だから逃げてもすぐに引き渡されます」

 王は納得したように頷いた。


「では、オーストリアは? スレイマン帝とはどう考えても宿敵だろう。オスマン帝国を混乱させるために、君を厳重に守って生かしてくれたはずだ。ジェム王子のように」

 ああ、この文脈でジェム王子の名前を聞くのは本当イラッとする。

「ジェム王子のようになることなんて望んでいません。そうじゃなくて……」

「ならば、私はどうすると思っていたのだ?君は私と初めて会った時から王に会いたいと言っていた。君は私に何を望んでいたのだ?生きることか?死ぬことか?」


「死ぬことです。俺を大切に思うやつの前で死にたくない、だから……」


 あれ?ちょっとおかしい。サファヴィー朝は紛れもない敵国だ。

 敵国の王は普通、逃れてきた反逆者を殺さずに生かす。混乱を広げるために。

「そうだ、私は決して君を生かしはしない。君の選択は正しい。そして君の正しい選択は、両国を救った」

「いや、それ、偶然ですよ……?」

 そこまで考えてない。そもそも、冷静に考えたら、父やオスマン帝国の者に害を為さず、なおかつ国外で死ぬというのは、相当の偶然が重ならないと起こらないことだ。それができると考えてサファヴィー朝を選んだのか?


 違う。

 いきなり反逆者に仕立て上げられた動揺で、どこに向かうのかわからないまま、勢いでたどり着いただけだ。

 こんなことだから陥れられるのだ。

 自分の愚かさが悔しい。

 それにしてもなんで王は俺を褒めるのだ。


「意図していなくても、君の死は、和平に不可欠だ。君が生きることを望み、逃亡でもしたらすべては崩壊する。まさか、今更逃げようなどとは思わないだろうな?」

「逃げません。俺はここで処刑人を待ち、死を迎えます」

「立派だ。イブラヒム・パシャは戦禍を広げたが、君は死をもってそれを終わらせる」

 王は珍しくにっこりと笑った。

 わざとらしい。


「はん、わかりましたよ、あんたの言っていた意味」

 王はわざとらしい笑みを消し、いつもの無表情に戻った。

 それでも何故か嬉しそうに見える。

「嬉しくないだろう?」

「だから、なんであんたが嬉しそうなんですか……」


 俺が生まれる前から続いていた戦争が終わるとしたら、それは間違いなく喜ばしいことだ。

 それでも。だからって。

 俺が死ぬのはいいのか?

「あの王子一人の犠牲でよかった」って喜ばれるのか?

 そりゃ、「自分の命をもって万民を救った」って喜ぶやつもいるよな。

 でも、俺は嫌なんだ。


 死にたくないんじゃない。

 ただ、そんな意義付けが嫌なんだ。

 そんな喜び方を強いられるのも嫌なんだ。

 何が嬉しくて何が悲しいかは、俺が決めるんだ。


 ――聞きたいか?君の気性なら慰めにはならないと思うが?

 あいつは最初からそう言っていた。

 その通りだ。そういうのは俺にとって全く慰めにならない。

 わかっているじゃないか。

 そのことがちょっとだけ、嬉しい。


「はあ、全然慰めになりませんね」

「そうだろう。西瓜カルプズでも食べるか?」

 いつもこうやって、唐突に食べ物の話になる。

「そっちの方が嬉しいですね」

 ここに来てよかったことの一つは、果物がよく出ることと、それが美味いことだ。


「イスタンブルでも西瓜を食べるのか?」

 きれいに切り分けられた西瓜を食べながら王は聞いた。

「はい、でも、何かこっちの方が甘い……」

 何というか凝縮された甘さだ。

 こんなに美味い西瓜があるのか、と思うと同時に、イスタンブルの淡く透き通った味の西瓜を思い出した。


「そうだ、イスタンブルの絵ってありますか、昔のじゃなくて最近のやつ」

「最近の?」

「俺が生まれて以降くらいの……」

「諜報活動の一環として街並みを記録したものはあるが、何故」

 ほら、帝都まで来て諜報活動とかしてるだろう。だから、信頼できないんだ。

 でも、それは言わないでおいた。和平はこれから、俺の処刑がその証なのだから。

「描いてみたくなったんですけど、自分の記憶で描けるほどの腕がないので」

「全体図か?それともどこか特定の場所?」

「イブラヒム・パシャ邸。たとえ、戦禍を広げた人であっても、俺には懐かしいんです」

「そうか。探しておく」


 昔、イブラヒム・パシャが所有する荘園の西瓜が豊作で、味も素晴らしかった年があった。

 本当においしくてたくさんあったから、俺は両親を大宰相邸に招待した。

 ――何故、イブラヒムではなくてお前から招待状が来るのだ。

 父は苦笑して言った。

 ――俺は将来ここの家の婿になるので、今のうちからこういうことに慣れておこうと思いまして。

 イブラヒム・パシャは公に特定の王子の後ろ盾になるようなことはしない。

 だから、そんな日が永遠に来ないことは俺を含め、みんなわかっていた。


「昔、イブラヒム・パシャの家で西瓜を食べたのです」

「初恋の従姉と一緒に?」

「そうです。でも、彼女というより、あのとき彼女を取り巻いていたすべてのものが、俺の初恋みたいなもんなんです」

 でも、それはもう戻らない。イブラヒム・パシャが死んですべてが壊れた。


 イブラヒム・パシャの死。

 それは俺の初恋の終わりでもあり、子ども時代の終わりでもあった。

 それを、俺自身の死と比べること自体がおかしいんだよな。


 じゃあ、結局俺が死ぬってことはどういうことなんだ?

 イブラヒム・パシャの死は俺の外にあった。

 でも、俺が死ぬということは……?


 イブラヒム・パシャの死と俺の死の「俺にとっての」決定的な違いは、後世の人がどう評価するかじゃない。

 俺じゃない人が死ぬのと、俺が死ぬということ。

 これは決定的に違うはずなのだが、それを突き詰めて考えた方がいいのか?

 それとも考えない方がいいのか?

 背筋がぞくりとした。

 ……考えない方がいいやつ、なのかな。


「……もう一個、切らせた方がいいか……?」


 俺が悩みながらも、がむしゃらに西瓜を食っているのを見て、王が聞いてきた。


「いえ、これくらいにしておきます。じゃ、イスタンブルの絵をお願いしてもいいですか」

「ああ、わかった」


 手を動かして絵を描いていたほうがいい。

 頭より、手を。

 頭を動かすと余計なことに気付いてしまう。


「ちょっと、失礼します」


 俺は残った西瓜を手早く食べて、外に出た。

 手を洗いたい。西瓜の糖分がべたつく。

 でも、本当に洗い流したかったのは、今、浮かびかけた想念だ。

 人のいない礼拝堂の外に備えられた手洗い所で、手が赤くなるほど洗い続けた。

 いつまでも戻ってこない俺を心配したのか、王が少し離れたところから見ていたが、声はかけずにいてくれた。


 今までに死んだ人はたくさんいた。

 でも、それはすべて、俺じゃない人たちだった。

 俺は、今まで一度も死んだことはなかった。


 だから何だ。当たり前じゃないか。それは、衝撃を受けるようなことなのか?

 手が震えるようなことなのか?


 いや、違う。違うはずだ。

 俺は、自分の死に際しても、冷静でいられる。

 それが、俺のただ一つの矜恃なんだ。


「心配しなくても、逃げたりしません」


 俺はいつも通り、王にへらへらした笑顔を向けた。

 これ以上、考えなくていい。

 だって、俺が死ぬことについて、「名誉ある死だから喜べ」と言われて嫌だということをわかってくれてるやつが、少なくとも一人はいる。

 それで十分じゃないか。

 大丈夫、冷静でいられる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る