雪の夜

彼女と一緒になった時、交わした約束。

三度約束を破ったら別れること。

絶対に忘れたりしない。忘れたことはない。でも、ぼくは約束を破った。三度目だ。


電話ボックスのガラス越しに、雪が積もってゆくのを眺めた。小銭が切れて、ついたため息が曇らせたガラスから雫が垂れて行く様子を、ただただ見つめた。

サヨナラ、そう彼女は言った。

一度言ったことは絶対に曲げない彼女がそう言ったということは、そうなのだろう。もう一つため息をついて、電話ボックスから出た。


街は一面雪景色だった。歩道の境界も、横断歩道も覆って、音さえも雪が吸い込んでしまったようなシンとした雰囲気を、ぼくの足音が踏みつけて行く。

片栗粉を踏むような感触を靴の裏越しに感じながら、彼女と住んでいたアパートへ向かった。

アパートの部屋には、彼女の痕跡はかけらほどもなかった。彼女と一緒に思い出さえも失ってしまったかのような虚無感だけが、部屋には残っていた。

窓の向こう側で、雨が降り始めている。


ふと、足元に何か落ちているのに気づいた。

彼女と一緒に行った古本市で、ぼくが買った本に挟まっていた栞だ。白い髪の少女の緻密な切り絵のついた凝った栞。

その栞の裏に彼女の口紅で書かれていたバーの名前。

彼女と初めて出会ったバーの名前……


ここに行かなければ。鍵もかけずに部屋を飛び出した。


彼女のことは誰よりも知っている。わかっている。だから、あのバーに彼女はいると確信した。

彼女があのバーで待っている……バーへ向かう道の途中、信号を渡ろうとした時のことだ。

車がぼくへ向かって突っ込んで来た。

タイヤが擦れて立てる音、ヘッドライトの光、雨粒がボンネットで跳ねる様子がはっきりと見えた。刹那の間にいろんな情報が脳に刻み込まれて、そのままぼくは車に轢かれた。車の勢いを体にモロにぶつけられて、ぼくは数メートル吹き飛ばされた。不思議と痛みはない。熱い感覚が腹のあたりから漏れるばかりである。

漏れる熱の量に比例して、意識が朦朧としてくる。

そんな状態でもなお、ぼくはバーにいくことを、彼女に会いに行くことをまだ諦めていなかった。


雨は徐々にみぞれへと姿を変えている。点滅する信号の灯りがやけに眩しく見える。

僕を轢いた車の運転手はどこかへ逃げてしまったようだ。夜の横断歩道を訪れるものは誰もいない。

動くものは淡々と仕事をこなす信号の灯りだけ。

体から漏れていた熱がだんだん引いて、自分の身体がどんどん冷えて行くのがわかった。



彼女はまだ、あのバーにいるのだろうか。

ぼくの体にゆっくりと、雪が積もってゆく。

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