熟成
祖父が隠居することになったので、僕は父の仕事を手伝うことになった。社会経験のためにとやっていたバイトも辞め、家業一本の人生が始まったのだ。
僕の家は代々ワインの醸造をしている。広大な葡萄畑から取れた果実を選別、加工して樽に詰めて寝かせる。そんな作業をずっと昔から続けている家なのだ。ただあまり大きな蔵ではないため世界的に有名なわけでも何か賞をいただいているわけでもない。
ヨーロッパの片隅の小さな、しがないワイン製造所だがどこよりも真摯に葡萄に向き合い、どこよりも丁寧にワインを作っているという自負が我が家の誰にもある。だから僕は家の仕事が手伝えることがとても嬉しい。
「お前には家業を手伝ってもらう前に知っておいてもらわないといけないことがある。着いてこい」
そう父に言われて連れていかれたのはワインを寝かせておく蔵だった。薄暗くワインが熟すのに最適な温度と湿度になるようにできている。昔の人はコンピュータ無しで最適な状態の部屋を作り出すのだからすごい。そんなことを考えていると蔵の一番奥の扉まで来た。蔵に出入りした回数は数え切れないがこんな扉があるなんて意識したこともなかった。
「父さん、これは?」
「この中だ。この中に見せたいものがある」
父は古い鍵束からひときわ複雑な飾りの鍵を取り出すと扉の南京錠を開けた。
思っていたよりずっと分厚い鉄の扉が軋みながら開いた。扉の向こうも蔵のようだ。むしろこちら側の蔵よりもよく手入れされているように見える。
先に扉をくぐった父について向こう側へ行く。
僕がついて来ていることを確認して、父は扉を閉め、かんぬきを下ろした。
部屋には見たことのない機械と寝かせる段階にあると思われるワイン樽がいくつか置いてあった。
「ここはうちの家計が代々あるものを製造して来た場所だ。我が家はワインだけを作って来たわけではない」
父が語り出したのは我が家の歴史についてだった。
まだ神様の子が地上にいた頃の話。神様の子は水をワインに変え石をパンに変えた。その人は一度処刑され蘇ったそうだが、その処刑される日の前の晩に僕達のご先祖にこう言ったそうだ。私が神に召される前に1つだけわがままを聞いてくれないか、私が言う通りにこれを作ってくれないか、と。
僕達の先祖はその人に指示された通りにあるものを製造し、あるものを作るノウハウを手に入れた。
「そのノウハウを形にしたものがこの装置だ。ご先祖が作って以来ずっとここに置いてある。まあ今はオーバーホール中だから動いてはいないけどな」
真鍮製のその機械は製造されてからの年月を感じさせない美しさと使い込まれた金属の光沢を併せ持って大きな存在感を放っている。
「これは時間を液体に変換させる機械だ。これで流れる時を捉え、液体へ変えて樽に詰め、醸して熟成させる。どう言う仕組みかはよくわからないが、これはそう言う機械なんだ」
「時を…?」
父は部屋の片隅にある古いキャビネットからワインの瓶を取り出すと、機械脇の作業台の上に置いた。
「これがそうやって作ったものだ」
瓶の中の液体はランプの光を通してゆらゆらと光った。父が紙コップにそれを注いでくれる。
コップに注がれたそれは、琥珀色でメープルシロップのような甘いにおいがほんのり香った。液体なのにどこか艶めいて見えた。
「今日ここに連れて来たのはこれをお前に飲ませるためってのもあったんだ。この瓶のラベルをよく見ろ」
ラベルには僕の生年月日が記されていた。
「父さん、これって…!」
「これはお前が生まれた日に作ったものだ。それからずっとここで寝かせていた。お前が家の仕事を手伝ってくれるようになったら一緒に開けようと思ってな」
これが、このカップの中身が僕が過ごしてきた20年間なのだと思うと、急にこの液体が愛おしく思えた。この液体の元が僕の時間であると言うことが、レンズの焦点が合うようにスッとわかった。
「本来ここで作っている『時の酒』は全て教会からメセクテト様へと捧げられるものなんだがこれは特別だ。なんといってもこれはお前なんだから、俺の息子なんだからな」
そして父と僕は乾杯した。甘く美しい僕と家族の人生に感謝をしながら、この世界を照らし育んでくれる太陽に感謝しながら。
生まれて初めて飲むワイン以外の酒の味はどこか懐かしく、どこまでも優しい味だった。
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