その男は道の端に立っていた。誰かを待っている様子でもなく、かといって肩にかかった鞄から何かを探しているようでもない。ただビニール傘越しに薄暗い空を眺めているだけである。

町には雨が降り続いている。


私はその男を知っている。同じアパートの下の階に住んでいるタミヤという男だ。いつもグレーの服を着て、無精髭を生やしたイマイチ歳のわからない男。普段なら会釈をして通り過ぎるところだが、今日はなんとなく声をかけたい気分だった。


「タミヤさん。こんなところで何してるんですか?」


おう、とタミヤが返してくる。


「いやさ、こんな何にもないところでぼーっと立ってるからどうしたのかと思ってね」


「あぁ」


タミヤは煙草に火をつけながら答えた。


「ビニール傘、これの面を雨粒が過ぎていくのを眺めてたんだ。曇り空なんて眺めたって良いことないしな」


私は意外な答えに面食らった。


「ビニール傘の雨粒をずっと眺めてたのかい?他にやることをほっぽり出して?」


タミヤがどんな生活を送っているのか、そもそも彼がどんな人間なのかよく知らないことを思い出した。


「あぁ」


タミヤは吸っている途中の煙草を足元の水たまりに捨て、次の煙草に火をつけた。


「けっこう面白いんだよこれが。ずっと眺めていられる。あんたもちょうどビニール傘をさしているじゃないか。やってみればわかるさ」


そういうとタミヤは火をつけた煙草を咥えることなく、水たまりにそれを落としてしまった。

それから彼は何も言わず再び傘を眺め始めた。

私も彼にならって自分の傘の裏側を眺めてみると、なるほど小さな雨粒が滑って別の雨粒とくっついて大きくなったり、大きな粒が傘のしわで分かれたり多様な変化を見せる。

灰色の雨空を背景に雨粒たちの組んず解れつの愛憎劇が繰り広げられて最後は傘の縁から雫となって地面に落ちてしまう。

空と私を傘が隔たることで初めて生まれる雨粒たちの世界がビニール傘に広がっている。私が意識しなければ存在しない雨粒の人生が目の前を流れては落ちた。


「なかなか面白いだろう?」


タミヤの声で我に返った。


「あ、あぁ。今まで傘の表面なんて意識したことなんてなかったからびっくりだ。」


「ところでな。さっき曇り空を眺めても良いことなんてないって言ったが、あれは嘘なんだ。ぼくはずっと虹がかかるのを待っている。もう何年も」


突然の告白だった。大の大人が、しかも無精髭を生やしたおっさんが虹を待っていることを告白している光景は、どことなくシュールだった。だが虹について語るタミヤの目は本気だった。


「もう何年も虹が架かっていない。空を管理してる業者が虹をかけるのを忘れてしまったのか、はたまた虹をかける道具を無くしてしまったのか」


それっきりタミヤは黙り込んでしまった。時折吐き出されるタバコの煙とあたりに打ちつける雨音を除いて音が無くなってしまった。

タミヤと私は止みそうにない雨の中に二人きりで立っている。虹はまだ、現れそうになかった。

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