グライダー

「…?」


目が醒めると巨大な崖の上にいた。視界に映るのは足元の緑と空の青だけ。崖は自らが何かの境界であることだけを私に教える。強い風が吹いている。

確か私は会社の面接で試験官に怒られて宝くじを外した上に三年付き合った彼にメールで別れを告げられ、帰りにひったくりにあうという最高な東京を満喫した後、もう目が覚めなかったらいかに楽かなどと思いながら普段の五倍の量の睡眠薬を飲んで泥のような眠気に沈んだはずだったのだが。


「オイオイオイ聞いてないぞ、なんでこんなところに人がいる?」


突然背後から現れたのは野球帽をかぶったただの中年男性。


「あんたどうやってここに来た?こんなところにいると帰れなくなるぞ。早く帰れ」


「…」


ここはどこなのだ、そっちこそ誰なんだ、どうして私はここにいるんだ、など数々の疑問が頭をよぎったが直感的にこの人を頼ることが私にとって一番いい選択だと感じた。


「あぁ?もしかしてあんたの夢とここがたまたま繋がっちまったのか。そうかあの本を誰かいじりやがったな…」


男性は勝手に何かを理解して勝手に納得している。

黙りこくっている私に男性はこう言った。


「まぁわけがわからないだろうがここに入られては困るからな。さっさと元の場所に帰ってもらうぜ」







なんの説明もないまま私はハングライダーに乗せられた。


「ここは今日と明日の境界だ。人間は無意識のうちに毎日この崖を越えて明日を迎えている。でもあんたはこの崖を越えるだけの力が無くなってた。それにこっちの手違いもあったからな。現世に帰る手伝いをちょっとしてやるから過去のことは忘れてくれ」


首を横に振った。こんな今日がこれからもずっと続いていくことを私は確信している。バイトと面接と貧乏のバミューダトライアングルからどうせこれからも逃れられないのなら明日を迎える必要など無い。緑と青だけのこの空間でずっと座っている方がずっといい。

私の後ろ向きな態度に付き合っている暇がないのか、付き合う余裕がないのか男性は苛立っているようだった。


「あんた、あれを見ろ」


指差す先には白い鳥の群れ。青と緑を白が染めていく。見覚えのある形をした白い鳥が何千何万と空を飛び去っていく。静寂に包まれていた世界が羽音に満ちていくのがわかる。羽音に負けないように声を張り上げて男性が言った。


「見えるか?あれはからすの群れだ。人間はここを通る際は皆あの姿になる。なぜあの姿になるかは知らんがな」


空は白い鳥で満たされて青空が見えないほどだ。今までの私がそうだったようにあのからすたちは日々の境界を意識せずに通り過ぎて行く。


「まぁなんだ、あんたが明日を迎えたくないことはなんとなく察した。でもな、明日には全員があってもらわないといけないんだよ。取りこぼしを明日に送るのが俺の仕事の一つでもあるしな」


男性の声に突き放すような調子を感じた。


「あんたはここにたまたま来れた。でもここで得られるようなものは何もないし、例えあんたが知りたいことがあったとしても俺は教えない。それは俺の仕事じゃないしな」


それだけ言うと男性はグライダーごと私を崖から突き落とした。暗い奈落の底にどんどん落ちていく夢の世界に空気抵抗なんて存在しないからか、グライダーは風を掴んでくれず、私は真っ逆さまに落ち続けた。


目が醒めると自分のベッドの上だった。どうやら夢を見ていたようだ。ひどい夢だった。睡眠薬を多く飲んだせいか頭が重い。いくら私が悲しくなったとしても薬を多く飲んだとしても明日が来ないなんてことは無いのだ。重い体を起こして水道の水を飲んでも気分は晴れない。もがり笛がアパートの片隅まで聞こえてくる。夢を追って来たつもりだった。でも東京には私の夢はなかった。いや、もしかすると私の夢なんてとうの昔に終わってしまっていたのかもしれない。

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