三度目の約束
約束を守れない人は嫌いよ。だから1度目は泣いて謝らないと許さない。2度目は3日間口もきかない。3度目は一緒に暮らすのをやめる。差し出されたバラの花束を受け取って言った私の言葉をお互いが忘れるはずもなかった。
でも、今日あの人は3度目の約束を破った。
約束通りここから出ていく。いつからかあまりあの人が帰ってこなくなったこの狭いアパートの階段を下るのもこれで最後。赤いルージュで栞に描いた最後の言葉を扉に挟んで、5年間あの人と肩を寄せ合って暮らしたこの場所を去った。
不器用で無愛想なあなたの広い背中にもたれるのが好きだった。太い指で蜜柑の筋を丁寧に剥がすあなたをからかうのが幸せだった。煙草の香りがほんのりする胸に抱かれることが一番の安心だった。
でもそんなあなたとはこれでサヨナラ。でも最後にもう一度だけ。あの人が気づいてくれることを期待している……
深夜のバーにあるのは心地よい音楽と紫煙、姿勢の良いバーテンダーと、まばらな客。
私とあの人が出会ったこの地下のバーにもそれ以外のものは無かった。
1人冷たいグラスを傾けても酔いは回ってこない。ジュークボックスの曲が終わるたびにバーの入り口の方を見てしまう。
曲が終わる時に私の寂しさも一緒に終わるような気がして、空気の読めないあなたが曲の余韻をかき乱してくれるような気がして、扉が開くのをずっと待っている。
いったいどれだけの時間が過ぎたか曖昧になってきた頃、冷えた水の入ったコップが私のグラスの脇に置かれた。
「お客様、雨も降ってきたことですしそろそろお帰りになられては」
「いえ、人を待っていますの。もう少し…ここにいさせてくださるかしら」
白い髭を蓄えた痩身のバーテンダーは首を横に振った。
「そろそろお店を閉める時間なのです。傘をお貸ししますから次はその方とご一緒にいらして下さい」
「もうそんな時間なのね…わがまま言ってごめんなさい。でももう一つだけわがままを聞いてくださるかしら?」
彼が来たらまたあしたの夜ここに来ると伝えて欲しい、そう言うと痩身のバーテンダーは必ずそうすると約束してくれた。
随分前にバーに置き忘れられていたという傘を借りて私はバーを出た。外はみぞれ混じりの雨。彼と長く暮らしたあのアパートをもう一度だけ見たくて、使い慣れた道を歩いていく。誰もいない冬の夜道の中で私だけが白い息を吐いて歩いている。
広い踏切を渡りきった直後、傘もささずに走って来る人影とすれ違った。赤いダウンベストの広い肩が踏切を越えてゆく。
ハッとして振り返った刹那、電車が私と赤い影を遮った。大きな音があの人の足音さえもかき消して今日最後の電車が踏切の向こう側とこちら側を断ち切った。電車が去った後、踏切の向こう側はただ降りしきるみぞれがあるばかり。赤いダウンベストを着たあの人は幻だったのだろうか。
気づけばみぞれは雪に変わっている。足跡一つ無い白の中で一人。雪の夜道に私だけ、冷たい風がさらった涙をひとひらの雪へ変えている。
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