エピローグ

 * * *

「で、どうだった? マリアちゃんとのプールは楽しめたのかヨ?」


 バカンスを終えて数日経った頃、ライア・ロビンソンからそんな電話がかかってきた。


「楽しかったよ。施設もすごく良くて。時間があったら今度先生も行ってみなよ」


 ロアの素直な返答に、ライアは一瞬驚き、そして笑う。


「お前がそう言うなんて、相当良い旅だったんだナー。で、どこまで行ったんダヨ? ふたりっきりで宿泊してまさかなんもシないで帰ってきてないだろ?」


 ライアはいつもの調子でロアをからかう。

 いつもなら、即座にロアから怒声が返ってくるのだが、今回は違った。


「……先生には内緒」

「……へ?」

「薬のお礼の品、今日送っておいたから。じゃあまたね」

「いやちょっ待ッ、詳しく聞か」


 ロアは受話器を置いた。


「……変に誤解させたかな。どっちにしろうるさいか……」


 ロアが廊下でそうひとりごちていると、修道服姿のマリアが居間からやって来た。


「ロア、そろそろ支度をしないと時間に遅れますよ」

「そっか、もうそんな時間か……」

「そんな憂鬱そうに言わないでください。やっと手に入れた仕事なんですから」


 今日の仕事、というのは悪魔祓いの仕事のほうだ。

 春のロンディヌスの事件以降、教会の同胞たちの間で「魔王マグナスの弟子も遂に凶悪な悪魔を使役するようになった」という風評がどこからか流れてしまい、それまで受注できていた軽易な仕事すらなかなか回ってこなくなっていたのだ。

 ここ数カ月のマリアの地道な奉仕活動で、ようやく一部の修道士たちから理解を得ることができ、今回仕事を引き受けることが出来た。


「これから多くの人を救い、徳を積むのです。それに今回の依頼主がいる街、古くから吸血種の悪魔が出没することが確認されているようです。クロワ家の特異な悪魔のルーツを探ることができるかもしれません」


 マリアは俄然やる気である。

 そんな張りきる彼女を見て、ロアは微笑む。


「はやく人間に戻らないとね」


 ロアの、どこか含みのある笑いに、マリアは一瞬たじろぎ、頬を赤らめた。


「あの、別にそういう意味で張りきっているわけではないですからね!?」

「はいはい。すぐ着替えてくるから少しだけ待っててね」


 ロアは笑いながら自室に上がる。




 * * *

 ――マリアとバカンスを楽しんだ二日目の朝。

 ふたりは部屋風呂を共にした。


 水着を着用しない風呂というと、以前、マリアが縮んでしまった際に一緒に入ったぐらいで、それを数に入れないのなら初めてのことになる。


 部屋風呂と言ってもわりと広さはあったし湯気もあったので、羞恥心はそこそこに抑えられた。

 時刻も早朝だったし、軽く背中を流し合えればそれで良い。

 そんな気持ちでいた。


 しかしそれはそれ、色情はふとした拍子に沸くものだ。


「マリアの背中、綺麗だね」


 彼女の白磁のような背中に見惚れたロアのその一言で、その場に変なスイッチが入った。

 マリアは何と返せばいいのか分からなかったのか、振り返ることも出来ずただ赤面していたらしい。

 正面から顔を見なくても、マリアの耳が真っ赤になっているのでロアにはすぐに分かった。


「……照れてるの? 可愛い」


 後先を何も考えずにそう口走るのは悪い癖だと知りながら、それでもロアはそう囁かずにはいられなかった。

 いつもなら、この時点でマリアは照れ隠しに頭突きでも食らわせるところなのだろうが、今回ばかりはそれも出来なかったようだ。


 風呂に入る前、脱衣所でマリアはこう言っていた。


「貴女の裸体を直視するといろんな意味で眼が焼けそうになりますから、私は極力見ないようにします。ですから貴女もあまり、見ないでくださいね」


 マリアはじっと黙ったまま、振り返らない。

 なんだか妙な嗜虐心を覚えたロアは、つい出来心でマリアのうなじに唇を落とした。


「……、! ロア」

「ん?」

「『ん?』じゃないです! 変なことしないでください」

「……変なことって?」


 ロアは石鹸の泡を指に乗せて、つ、とマリアの背筋をなぞる。


「……手つき……」

「手つき?」

「……やらしいです」

「そんなことないよ」


 そう言いながらロアは丹念にマリアの背中を流していく。


 密室という状況、湯の熱気と石鹸の香りが、気分を高揚させる。

 その手を少し。

 少しでも滑らせれば、一線を越えてしまいそうな。

 そんな折。


「……あの、ロア」


 マリアのか細い声で、ロアは我に返った。


「ごめん、何?」

「……前にも、その、似たようなことを言ったのですが」

「うん?」

「……けじめというか……」

「う、うん」


 ロアは内心うなだれた。

 声色でそれが伝わったのか、マリアは慌てて付け足した。


「あの、嫌というわけではないのです、決して」


 ただ、とマリアは言った。


「今の状況に甘んじたくないというか。……貴女の死期が遠のいたことに安堵して、貴女の身体をもとに戻すことをつい後回しにしてしまうことが怖いのです。……何よりも、大事なことなのに」


 ロアは密かに苦笑した。

 彼女は自分以上に、ロアのことを考えてくれている。

 つまり、一線を越えるのは、この問題をどうにかしてからにしてほしいと。

 そうしなければ堕落してしまうと警鐘を鳴らしたのだ。


「マリアは真面目だね」

「……子供だと呆れますか?」


 マリアはおずおずと、不安げに顔だけ振り返った。

 そんな彼女も、ロアにとっては愛おしい。


「ううん、マリアらしい。そういうところも好きだよ」


 感情のままにロアがマリアの額にキスを落とすと、マリアは今度こそロアに頭突きをお見舞いした。


「へぶっ!? キスも駄目なのッ!?」

「だ、駄目ではないですけど! やりすぎはよくないというか、ここ、お風呂場ですし……!」

「全裸でキスはふしだら?」

「分かってるならしないでください! もう!」




 * * *

 ――そんなやりとりを思い出して、ロアはふと笑みをこぼした。

 ブラウスのリボンタイを結んで、自室を出る。


 ロビーに降りると、鞄を持ったマリアが待っていた。


「リボン、歪んでますよ」

「え、そう?」


 マリアはロアの前にやってきて鞄を置き、ロアの胸元のリボンを整える。


「はい、これで大丈夫」

「……ふふ、なんだか新婚さんみたいで照れるなぁ」

「今日は再出発の初仕事なので、もっとパリッとしてください」

「……はい。鞄持つね」


 ロアは鞄を拾い上げて、玄関の扉を開く。


 白い夏の日差しの中、青い空には微かに秋の気配が漂っていた。


「行こうか、マリア」


 ロアが差し出した手を、マリアはしかと掴む。


「ええ」


 夏の終わり。

 ふたりは新たな一歩を踏み出した。

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