領主と女中の真夜中のティータイム

 畦道で、靴を泥まみれにした少女がひとり泣いている。

 月すら顔を見せない曇天の夜。

 彼女を見守るのは優しい影法師。


「泣かないで」


 少女に差し出されたのは1枚のクッキー。

 父と、母との思い出が詰まったチョコチップクッキーだ。


 空腹に耐えかねて、彼女はそれを受け取るなりすぐに貪った。

 甘いはずのそのクッキーは、涙でとてもしょっぱかった。



 ** *



 その日、マリアは久しぶりに真夜中に目を覚ました。

 暑さのせいか、夢見が悪かったのだ。


 じっとりと身体全体が汗をかいていて、マリアは額を押さえて溜息をつく。


 喉も随分乾いている。


 少し面倒だったが、水を求めてマリアは寝室を出た。


 曇天のためか月明かりもなく、屋敷の廊下は真っ暗だった。

 とはいえ慣れ親しんだ通路なので、マリアは特に不自由なく階段を降り、厨房へと続く通路に辿りつく。


「……?」


 不思議なことに、厨房から明かりが漏れている。

 時刻は午前2時。

 灯りの消し忘れかとも思ったが……


「ちょっと」


 その光景を目撃してしまったマリアの声色は、思わず剣呑なものになってしまった。


「こんな夜中に何やってるんですか!」

「うぇ!? マリア!?」


 マリアが目撃してしまったもの。

 それは、今まさにこぶし大のモッツァレラチーズを口に含もうとしていたロアの姿だった。


「いや! これには深い理由があってね!?」

「どんな理由があれこんな真夜中にわざわざ厨房に入ってチーズを食べる領主がどこにいますか‼ しかも丸ごと‼」

「マリアも半分いる?」

「要りませんよ!」


 ……夢の中に、モッツァレラチーズの塊が現れたとロアは言う。

 目が覚めた途端、どうしても今、あのもちもち食感の意外とさっぱりとしたチーズらしくないあの白い塊を丸ごと食べたくなったのだとか。

 全然深くない理由にマリアは思い切り溜息をついた。


「大体こんな時間にカロリーを摂取したら消費できずに身につく一方……って言ってる傍から食べないでくださいよ!」


 気が付けばロアはもきゅもきゅとチーズを食んでいた。


「だってせっかく厨房まで降りてきたのに……マリアは水だけでいいの? チョコチップクッキーもあるよ」


 ロアはそう言って食料棚から、マリアの好物のチョコチップクッキーの箱を取り出した。


「食べるわけないじゃないですか」

「マリアの大好きなヴァンモルテン社の夏季限定プレミアムバージョンだよ」

「…………一枚だけ」


 マリアの回答に、ロアはにこりと笑う。


「せっかくだからお茶淹れようか。作り置きのカモミールティーがあるんだ」


 ロアは食べかけの白い塊を皿に置いて、冷蔵庫からボトルを取り出した。

 それをグラスに注いでいく。


「眠れない夜はこれに限るね」


 はい、とロアはマリアにそれを手渡す。

 マリアがそれを口に含むと、想像よりも優しい味と香りがした。


「美味しい」

「良かった。水出しにすると渋みが減って口当たりがよくなるんだよ」


 そう言ってロアもカモミールティーを口にする。


 身だしなみなどに関してはずぼらなロアが、お茶に対してはわりと細かいこだわりを持っているのをマリアは知っている。

 それこそマリアがこの屋敷にやって来た当初は、ロアに紅茶の淹れ方を教わったものだ。

 以前はよくここで、ふたり肩を並べていた。


「厨房でお茶を飲んでいると、少し懐かしいですね」

「マリアってば、『女中として働かせてください』ってやって来たわりにはからっきし料理とかできなかったもんねぇ」

「当時オムレツしか作れなかった貴女に言われたくないです」


 料理は厨房ここで、ふたりで本を見ながら学んだ。

 マリアは負けん気が強い上に努力家で、すぐに大抵のことをこなせるようになった。

 クロワ家の女中として彼女が出来ないことといえば、庭の背の高い樹の剪定ぐらいだろう。


「今度また、一緒に何か作ろうか。プディングとか、アイスクリームとか。盛り合わせてもいいね」

「それならチョコレートソースをアイスクリームにかけたいです。きっと美味しいと思います」


 そう言ってチョコチップクッキーを頬張るマリアを、ロアは微笑ましげに見つめる。


「マリアは本当にチョコが好きだね。クッキー、美味しい?」


 ロアの問いかけに、マリアは幸福そうに瞼を閉じて頷く。


「はい。とても甘くて、美味しいです」

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