領主と女中と口紅3
それはちょっと恥ずかしい、とマリアが言う前に、ロアは鼻歌混じりに筆の先を瓶の中の紅に丁寧につけ始めた。
筆に紅を乗せると、ロアは一歩踏み込んで、マリアとの距離を詰める。そして自身より身長の低いマリアの目線に合わせるように、少しだけ前かがみになった。
「少しだけじっとしててね」
……酔っている割には、真剣な眼差しでロアはマリアの唇に筆を添わせた。
こうなれば動くわけにもいかず、マリアは大人しく唇を差し出す。
ロアはそんなマリアを見て少しだけ目を細め、丁寧に色をつけていく。
花の蜜のような、甘い香りがマリアの鼻孔をくすぐった。
ロアの顔がすぐ目の前にあることが恥ずかしく、かといって目を閉じるのも憚られて、視線が泳いでしまう。
そのせいで頬が徐々に火照ってくる上に、唇の上を走る小筆の感触が存外にこそばゆく、足を一歩引きたくなるのをマリアは必死に我慢した。
マリアの小さな唇をなぞるのに、時間はそこまでかからない。
けれど、マリア自身はこの時間を妙に長く感じた。
いや、体感時間ではない。
実際、ロアの手が途中で止まっているのだ。
「……あの、ロア?」
「ああ、ごめん」
マリアの声にはっとして、ロアは慌てて手を引き口紅の蓋を閉めた。そして、どことなくぎこちない動作でマリアに口紅を返す。
調子よく塗り始めたのはロアのほうだというのに、中途半端な終わり方をされてマリアは少しだけ眉をひそめる。
「満足しました?」
「う、うん」
「そうですか。では私は後片付けがありますので」
そう言って厨房に下がろうとしたマリアを、ロアは「待って」と引き留めた。
「何です?」
「あ、あのね……その……」
ロアが口ごもるのは珍しく、マリアは余計に不審に思った。
まさか塗るのを失敗しておかしなことになっているのかと疑ったが、手近なところに鏡もなく、それを確かめることもできない。
いや、それとも。
「私にはやはり似合わなかったでしょうか。何でしたら、ロア様にお返ししますけど……」
「違う! そうじゃないよ! とっても綺麗」
酒のせいなのかそうでないのか、真っ赤な顔でロアは言った。
言ってから、彼女は非常に申し訳なさそうに視線を床のほうに落とす。
「その口紅、すごく滑らかで、艶っぽくて……」
「大人向けということですか? やっぱり似合っていないのでは」
「ちがうーー! 綺麗なんだってば! 綺麗で、吸い寄せられそうだから、だからね」
顔を真っ赤にしたまま、ロアはマリアの耳元でささやいた。
「……私以外の前ではあんまり使わないで……」
ロアはそれだけ言って、耳まで赤くしてそそくさと居間を出ていった。
マリアはその言葉の意味を数秒考えてから、ようやく意図を理解する。
「……」
動悸が収まらない。
少し、胸が痛いくらいに。
マリアは返してもらった口紅をぎゅっと握り、自身も少し早足で厨房に向かった。
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