女中と苦い檸檬の匂い
「げッ」
「……懲りない人ですね貴女も」
リィは失敗した。
彼女は猫のような気まぐれさでボルドウ領主の屋敷に忍び込む。
今日もあの釣れない領主に会いに、壁をすり抜け、その寝室に踏み込んだのだが。
タイミングの悪いことに、そこに箒を持ったマリアがいたのだ。
しかも、肝心の領主の姿は見えない。
「あんたひとり? 領主様いないのぉ?」
「ロア様は外出中です。残念でしたね、さようなら」
マリアの冷たいあしらいには慣れているが、今日の彼女には覇気が足りなかった。
リィは想像する。
いつものマリアなら――領主が席を外しているこのタイミングであれば――先ほどの言葉とともに、あの小賢しい
リィは、ははぁと意地悪気に笑う。
「あの出不精の領主様がひとりで外出なんて珍しくない? あんたもしかして置いてけぼりくらっていじけてるのぉ~?」
「置いてけぼりをくらったわけでも、いじけてもいません」
そうは言いつつもやはりマリアは本調子ではないようだ。
いつもの彼女ならリィのわざとらしい挑発に、冷静を装いながらも本気で乗ってくるのに。
「じゃあ領主様はどこに出掛けたの?」
リィの問いに、マリアは小さな声で「知りません」と答えた。
本当に知らされていないのだろう。
これはいよいよいじけているなと直感したリィは、一層頬を緩める。
リィの場合、いじけている彼女を見て可愛らしいなと思って頬を緩めているわけではなく、もっといじめ抜きたくてゾクゾクしているというのが正解だ。
まあ、珍しくいじけているマリアをいじめ抜いたらもっと可愛い反応が見られるかもと期待しているという意味では、大筋で間違ってはいない。
「ふふっ、それであんたはこの部屋で何してるのかしら?」
「清掃しにきたんです。本人がいないほうがやりやすいので」
「そんなこと言って。浮気の疑いがないか探りにきたんじゃないのぉ?」
マリアは箒の柄をぎゅっと握る。
「あの人はそんな人じゃありませんし、私はそこまではしたなくありません」
「とはいえあの人男女問わずモテるじゃない? 領主様にその気がなくてもぉー、想いを寄せる人間はわんさかいるわよ?」
リィの言葉をマリアは否定しない。
いまだロアと手紙のやり取りを続けている豪商一族のアルフレッド・ルクルスなどはその代表的な例だろう。
「……私は別に、あの人をこの屋敷で独占したいわけではありません。外に出れば、沢山の人と交流が持てるでしょう。それは決して悪いことではないのですから」
それを聞いてリィは思わずぷっと吹き出す。
マリアの言葉と表情が、まったく一致していなかったからだ。
真面目に言った言葉を嗤われて、マリアはいよいよ声を荒げた。
「もう、なんなんですか! 用がないならさっさと帰ってくれますか!?」
「わかりましたー。私もぺったんこのマリアには用事ないしねー」
リィは踵を返して部屋を出ていこうとする。
去り際。
「たまには甘えないと逃げられるわよ?」
「余計なお世話ですッ‼」
マリアが真っ赤な顔で叫んだとき、既にリィの姿はなかった。
* * *
「ただいまぁ~」
その日、ロアが帰宅したのはすっかり日も暮れた頃だった。
暑さのせいもあるのだろうが、少し疲れた表情で、出かける前には綺麗に梳いてあった長い髪も、すっかりぼさぼさだった。
「おかえりなさい。お疲れのようですね」
どこに行っていたのですか、と口をついて出そうになったのを、マリアはぐっと堪えた。
出掛ける前、あえて行き先をぼやかして言わなかった彼女にそれを再度訊くのは失礼な気もしたし、何より自分が彼女の行動に執着しているようで恥ずかしい。
一方ロアは
「今年はほんとに暑いねぇ。大分汗かいちゃったから夕食の前にシャワー浴びてくるよ」
そう言ってそそくさとシャワールームに向かおうとした。
その時点で、マリアの胸中が一気にざわつく。
いつものロアなら、マリアと長時間離れていた場合、少なくとも
(いや、別にハグしてほしいとかそういうわけではないのですけど)
マリアが思わず胸中でセルフツッコミをしている最中、ロアがマリアの前を通り過ぎる。
その瞬間、ふわりと不思議な匂いが立った。
マリアが嗅いだことのない、知らない匂いだ。
「……」
急に、足元がぐらつくような錯覚にマリアは陥った。
えもしれぬ不安感が襲う。
『領主様にその気がなくてもぉー、想いを寄せる人間はわんさかいるわよ?』
そんなことは知っている。
あの人はずぼらで面倒くさがりで、そのくせ外面は良くて、誰にだって優しい。
『たまには甘えないと逃げられるわよ?』
だって甘え方が分からない。
いつももらってばかりだから。
ロアが一歩一歩、マリアから遠ざかる。
「…………っ」
何を考えるまでもなく、咄嗟に腕が伸びていた。
「!?」
気が付けば、マリアはロアの腰に後ろから腕を回すようにして彼女を掴まえていた。
「え、何、どしたの!?」
ロアは何が起こったのかよくわからず、慌てて上半身をひねる。
しかしこの体勢ではマリアの頭しか見えない。
「…………変な匂いがします。……苦い檸檬、みたいな……?」
「えっごめんそれ制汗剤の匂いかな!? あんまり汗臭くなってきたから仕方なく雑貨屋で売ってた安いのを思い切りふったんだけど、やっぱり臭いよね!?」
「……臭いです」
「ぉう! ま、マリア、こうして抱きついてくれるのはすごく嬉しいんだけど、今は臭いのが恥ずかしいからせめてシャワーをしてからっ」
「……この間汗をかいている私にロアは抱きついてきました。意趣返しです」
「ぅ」
自業自得な気がしてきたロアは、それでも顔が火照るのを抑えきれない。
マリアがこんな風に抱きついてきてくれることが今までにあっただろうか?
非常時ならともかく、平常時ではなかった。
高まる鼓動を喉の奥に押し込めながら、ロアはそっと、腰に回されているマリアの手の上に、自身の掌を重ねる。
「……何かあったの?」
ロアの優しい声に、マリアはぽつりと言葉を零した。
「貴女が留守で、少し、寂しかったです」
マリアの言葉に、ロアの心臓は爆発した。
「……マリア、」
ロアはぐるんと身体の向きを半回転させる。
そしてそのまま思い切り、マリアを持ち上げる勢いで抱きついた。
「大好きだよーーーー!」
ロアの熱い抱擁は、マリアに苦い檸檬の匂いが移るまで続いた。
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